不滅の愛と泡沫の花 その⑥
※
クロウはヘルメスへと向かう街道をひとり歩いていた。灯りは持っていなかった。猫型獣人のフェルプールと人間の雑種の彼女の目には、曇り空の僅かな月明かりでも十分だった。
髪に隠している猫耳が逆だちクロウが振り向く。そしてクロウは地面に耳を当て、さらに音を詳しく探った。
立ち上がると、次にクロウは鼻を効かせて匂いを嗅いだ。風下にいた彼女の敏感な鼻は流れてきた酒の匂いを嗅ぎ取る。
この時間、この人数の男たちが、酒の匂いを漂わせて、急ぎ足で近づいてくる。危険を察したクロウは山道を見渡すと、手頃な木に登り、上からその集団を待ち伏せすることにした。
「本当にこっちでいいんだろうな?」
追っ手の傷頭は闇夜の向こうに目を凝らしながら手下に訊ねた。
「へぇ、こっちの方角に向かって行ったのを見ましたし、酒場の主人からあの女がヘルメスへの道を訊いてたってぇ話を聞きました。ヘルメスへ向かう道はここだけです」
「そうか……。」
傷頭は振り返ってルシャンを見た。ルシャンは既に酔いがさめていたが、
シラフというより沈痛な面持ちをしていた。
暗闇の中、ルシャンは自分の現状に辟易していた。妻が信じる自分を守るため、こうして悪行に手を染めている己に対して。
子を授からないと言われていた妻が念願の子を宿したものの、誕生を迎えることなく子供は母の胎内で死んでしまった。その頃から妻は調子を壊し始めた。雨の日でも洗濯物を干し、数日帰らないと伝えていたのに料理を用意して何日も自分を待ち続けた。やがて妻は医者が否定しているにも関わらず子が流れていない信じるようになり、いつまでたっても“三ヶ月”の腹を慈しむようになった。想像だけのはずの妊娠は、それでも彼女の体に負担を与え続け、ただでさえ病弱だった妻はさらに体を壊しがちになっていった。
妻を救いたかった。そのためには誇りさえも捨てて良いと思っていた。しかし、妻が信じるのは誇り高い自分だった。
そして妻と同じく、ルシャンもまた、相克で心と体の均衡を崩し始めていた。
「……おい、どこにもいねぇじゃねぇか?」
いつまで経ってもクロウに追いつかないため、傷頭は走るのをやめて立ち止まった。
「へ、変ですねぇ……。あの女が馬を使ったって話は聞きませんが……。」
その場にたむろする傷頭たちだったが、ルシャンは先頭を行き様子を探ることにした。
そして、ルシャンと傷頭たちの距離があいたその時──
集団の真ん中にいた、ランタンを持った手下の上にクロウが落ちてきた。
手下は下敷きになり、その衝撃で彼らの唯一の灯りが消えた。
突然現れた闇に、彼らの目は完全に塞がれた。
「な、なんだ!?」
自分たちの中心に誰かがいる。視界を封じられた男たちは肌でそう感じていた。
そして、闇夜のごとく静かで暗い声がその場に響いた。
──見当つけて斬ってきな
ファントム!
確信した男たちは、絶叫と共に一斉に抜刀した。
男たちが得物を振り上げた瞬間、刀が月明かりを反射させて瞬き、刃が肉を斬り裂く鋭い音が鳴り響いた。
あたかも、小さな稲妻がその場を走り去ったようだった。
そして再び静寂が訪れたと思うと、ひとり、またひとりと斬られた順番に男たちが倒れる音がした。
離れた場所にいたルシャンは、唖然としてその様を見ていた。
クロウは刀を振って血を払い納刀すると、ゆっくりとルシャンに近づいていった。
血の匂いを漂わせ、体の軸をぶらさない独特の歩法で迫る闇夜のクロウは、まさに
ルシャンの体は幽霊に睨まれたようにこわばっていたが、それでも何とかクロウの方へ向かっていった。
クロウはルシャンの歩き方に戸惑いや恐れ、そして躊躇の気配を感じ取る。
──やめておけ、今なら引き返せるぞ……。
ふたりの距離が狭まる。
──お前さんがこなければ、私も抜かない
間合いだった。それでもふたりは近づく。
ふたりがすれ違う。それでもお互い得物に手をかけない。
しかし完全にすれ違った瞬間、ルシャンは素手でクロウに挑みかかった。
まさかの徒手での攻撃にクロウは驚く。反応が遅れた。抜刀するも、刀の柄をルシャンに握られていた。
ルシャンは大男にそうしたように、刀の柄を捻りクロウの腕の関節を極めようとする。
クロウの体が傾いた。
さらにルシャンは自分の体を捻ってクロウを投げ飛ばそうとする。
クロウの体が大きく横に回転した。それも、ルシャンが予想するよりも大きく。
クロウは流れに逆らわず、自分から飛び上がり側宙をしていた。
そしてクロウが着地すると、逆にルシャンの肘と肩の関節が極まっていた。
ルシャンは刀の柄から手を離すと、叫び声を上げて腰の剣を抜刀しクロウに斬りかかった。
再びすれ違い、お互いに背を向けるふたり。
ルシャンは振り剣を上げた状態で固まり、クロウは抜き胴の残身で固まっていた。
クロウが残身を解き刀を振る。
ルシャンは膝をついて崩れ落ちた。
納刀したクロウはルシャンに背を向けたままで言う。
「お前さん……外道に徹する覚悟がないんなら、
そのまま去ろうとしていたクロウだったが、風が吹き、覚えのある薫りが彼女の鼻腔に入ってくると、足を止めて振り返った。
──ユリ?
しかし、すぐに気のせいだと向き直り、斃れた男たちを顧みずに去って行った。
6人の男たちの死体、それがファントムの通り過ぎた跡に出来上がったものだった。
※
翌月、役場の女たちがメロディアの家を訪れていた。
「用意は出来ましたか、奥様?」と、女のひとりが家の中のメロディアに声をかける。
「もう少し待っていただけないかしら」
メロディアは彼女たちからルシャンが勤務中に大怪我をしたから病院に来て欲しいと説明され、入院の付き添いの準備をしていた。しかし、実際は女たちは伴侶を亡くしたメロディアを地元の公営の療養所に入れるために派遣されていた。
季節も終わり、しおれ始めたユリの花々を見て女が言う。
「せっかくの美しい庭なのに残念ね……。」
準備の出来たメロディアが出てきた。いつもと変わらない、白いシュミーズドレスの上に大きいストールをまとった、ユリのように可憐ないでたちだった。彼女が家を出ると共に、軒下の風鈴が音を立てていた。
「仕方ありませんわ。この世の全てはいずれはうつろうものですから……。」
「そうですね奥様……。」
女たちを通り過ぎながらメロディアが言う。
「けど……不滅がない世界を正気で生きていくことと、狂人として永遠を生きていくこと……いったいどちらが幸せなのでしょうね……。」
そうしてメロディアは療養所行きの馬車に乗り込んだ。
女たちはメロディアの後ろでその彼女の言葉を聞き流していたが、ふと違和感に気づき、立ち止まって顔を見合わせた。
採石場の爆発音が、周囲の空気を細かく振動させていた。
了
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