後腐れのない関係

 目を覚ますと、ベッドの横には裸の男がいた。

 酔いで記憶が飛んだりはしないので、はっきりと自分がこの男を部屋に誘ったことは覚えている。クロウはあくびをしながら頭を掻き、窓から差し込む朝日の光に目を細めた。

 クロウは寝ぼけ眼で煙草に火を点け、煙を吸いながら男を見る。

 酒場で意気投合した男だった。特にどこが良いと言うわけではなかった。ただ、後腐れがなさそうという事と、一晩添い寝して朝目が覚めたとき、この顔ならば不快にならないと思っただけだった。色男というわけではない。けれど、耳や顎のラインといった、顔のつくりの細かいところが小奇麗だった。

 しばらくして、クロウは笑いながら煙を吐き出して言った。

「……起きてるんだろ?」

 クロウが話しかけると、男は小さく笑った。

「そう見られてちゃ、こちらも目を開けづらいんだ」

 男が目を開いた。寝起きだというのに、黒々とはっきりした瞳でこちらを見ていた。

 お互い見つめ合って微笑むと、男はクロウから煙草を受け取りひと吸いした。

「忘れられない夜だったよ」と、男が言う。

「引きずられるのは苦手でね、明日の夜には別の女でも抱いてくれ」

 男は笑って煙を吐き出した。

 クロウがベッドから出ようとすると、男はクロウの手を取った。そしてベッドに引き寄せてクロウの頬を撫でさした。

「もうちょっといいだろ」

 仕方なく、クロウはため息をついて男に寄り添った。

 女の深い赤の髪と、男の真っ黒な髪がベッドのシーツの上で絡まっていた。


 その後、ふたりは一緒に旅籠屋で朝食を取り、一緒に店を出た。

 何も話さなかった。何処に行くのか、このまま此処を去るのか、それすら言わないままふたりは歩いていた。

 道が麦畑にさしかかる頃、男は女に訊ねた。

「……どうして俺の誘いを?」

「言ったろ、引きずられるのは苦手だと。お前さんとなら、後腐れなく別れられると思ったのさ」

「そうか……。」

 ふたりはしばらく麦畑を歩いていた。

 前を歩く男が言う。

「だが……なかなか君みたいな女はいないだろうな」

「そうかい?」

「初めて抱いたよ。抱いてるだけで、こんなにも体が雄弁に語ってくる女は」

 クロウは何も答えなかった。

「熱いし、硬い、なのにしなやかだった」

 男は昨晩の熱を思い出すように語る。

「よほど鍛錬したんだろうな」

 男は立ち止まり、そして振り返った。

「“ファントム”、聞きしに勝る手練のようだ」

 クロウも立ち止まった。

 青い麦畑が川のようにせせらぐ中、ふたりは見つめあった。

ファントム幽霊って話だが、しっかり硬い骨も熱い血もあるんだな」

 男が微笑んだ。

「お前さん、“ファントム”を抱きたかったのかい? 残念だが、お前さんが昨晩抱いたのは、クロウっていうただの女だよ」

 クロウは肩をすくめた。

「そうか……。」

 男は目を細め、愛おしそうにクロウを見る。

「だったら……抱いてみたいもんだな、そのファントムって女を」

 黒いスーツ姿の男の腰には剣が差してあった。男はその剣を抜き出す。しかし剣を抜いておきながら、男は煙草を懐から取り出し、火をつけて吸い始めた。

「そいつは無理な話だな。幻影ファントムを抱こうなんて」

 クロウも抜刀した。

「いい女を前にして、そりゃあ酷ってもんだ」

 男は右手に剣を持っただけで構えていない。

 一方のクロウは正眼※で構えていた。

「金で動くような男にも見えないが?」と、クロウが構えを崩さずに訊く。

「恩人からの頼み事だ、断れんさ」

「……お互い辛いもんだな」

 ふたりとも、仕方のないことだ、というように小さく笑いあった。

(正眼:正面を向き、切っ先を相手に突き出す中段の構え。青眼とも)


 麦畑の真ん中で睨み合うふたりのそばを10歳ほどの少女が通りかかった。少女は乳飲み子の妹をおぶっていた。

 少女は寝付いたばかりの妹を振り返りながら、安らかな寝顔を眺めていた。

 とても穏やかな朝だった。

 日は優しく、風は透明で、一切の危険や暴力と無縁の、生きとし生きるものを祝福するかのような、長閑な麦畑の風景だった。

 しかし少女は顔を上げると、しゃっくりをするように息を飲んでその場を去っていった。

 女と男は睨み合ったまま一向に動かなかった。

 ふたりの間に雀が降り立ち、地面をついばんで飛びたっていった。

 男が名残惜しそうに麦畑を一瞥いちべつしてから歩き出した。全くの無防備だった。構えを取らず、そのまま散歩を再開したかのように。だが、無防備だというのに打ち込む隙が見えなかった。

 クロウはまっすぐに歩いてくる相手に、片手上段で構え直した。

 男の表情が変わった。

 どこからでも打ち込める男に対して、一手でしか打ち込めない構えだった。

 男が近づいてくる。一歩、また一歩と。

 右足で踏み込み、その足が伸びきったろうとしたその瞬間、男の歩幅が急激に伸びた。

 男は伸びきった脚で地面を蹴り、さらに足首を180°近く返して歩幅を大きく、そして素早く伸ばしていた。

 男が間合いに入った。

 だが、ふたりとも動かない。

 クロウは男の初動で感じていた。完全なる我流、それも反応と体の柔らかさを活かした。ならば攻撃は後の先、クロウは余裕を持って男を待っていた。昨晩のベッドの上で、相手の体動の癖を感じていたのは男だけではなかった。

 男は間合いの中にいながらクロウに背を向けた。

 それでもクロウは男に切りかからない。

 男の姿勢が低くなった。

 屈んだ状態から、回転しながらの横薙ぎ。狙いはクロウの足。

 クロウは片足を上げた状態から上段切りを放つ。

 男はすぐさまその斬撃を受け、屈んだ状態から連続して足狙いの斬撃を繰り出した。

 修練したすり足で下がりながら避けたが、伸びのある連撃を避けきることは出来ず、クロウは自身も膝をつき、刀を縦にして刀身に左手を添え攻撃を受け止めた。

 麦畑の真ん中で、得物を交差させ屈むふたり。お互い目を合わせることはなかった。目は欺くからだ。それよりも、剣を通して伝わる相手の力の流れに集中していた。

 ふたりは傍目はためには停止しているようだったが、細かに体の細部が震えていた。そして震えながら、相手の力を探りながら、ふたりはゆっくりと立ち上がった。

 男は両手で柄を握って剣を押し込み、クロウは右手で柄を握り左手で刀の背の上部を抑えての鍔迫つばぜり合い。昨晩求め合った体は、鋼を通して反発し合っていた。

 力で押し込んでくる男に対して、クロウは刀の背に添えた左手を押し込み、相手の力の流れをそらしながら男の首を狙った。引き斬ることに特化したクロウの刀だった。当ててからでも十分に相手に致命傷を負わせることができる。

 男は大きく身を返し、背を向けつつクロウのその攻撃を避けた。

 クロウは背中から心臓に向けて突きを放つ。

 見えていなかったはずだが、男は体軸を真横に向けてそれを避けた。

 突きの残身から、クロウはさらに背中を横薙ぎで斬ろうとする。

 だが、男はそれを背中越しに片手で剣を立てて受け止めた。異常な反応速度と肩の可動範囲の広さ、肘の柔らかさだった。

 次にクロウは上段切りで男の首を狙う。

 男はそれを右手一本で握った剣で斜めに受け流した。後ろに腕を回した状態から、肩と腕の捻りだけで上段を受け止めることができたのは、やはり体の柔らかさを利用してのものだった。

 クロウは面打ち、横面、胴打ち、切り上げと斬撃を繰り返すが、男は片腕の振り回しだけでその全てを防いだ。一見、曲芸師のように見せかけだけの振り回しのようでもあったが、男の剣撃は正確にクロウの攻撃を撃ち落とし、さらに反撃に回っていた。

 素早く、そして絶え間無い男の攻撃を、クロウは刀の背に左手を添えながら、防御に徹して受け止める。刀で衝撃を食い止めているとはいえ、連撃を完全に防ぐことができず、クロウの腕や肩からは血が流れていた。

 さらに男が大きく、素早く剣を∞の字を描いて振り回す。そのスピードから、あたかも男の身には刃のドレスがまとわれたようだった。

 クロウは防御が追いつかず、ひたすら後退する。

 男は優位を誇示するつもりか、時折回転し、背中を向けながら剣を振り回した。

 クロウは次に男が背を向けるタイミングを見計らい、背中に突きを放った。

 だが、それは男の誘いだった。

 男はその瞬間、剣を逆手に持ち替え、背中越しに剣を突きだし、クロウの攻撃をかわしながらクロウの脇腹に刃を入れていた。

 マントに編み込んでいた鎖のおかげで刃が刺さるのは防げたものの、肋骨をへし折りかねない痛打だった。

 クロウが顔をしかめ、たたらを踏みながら後退する。

 クロウは下段に構えた。

 優位にある状態での相手の下段の構え、男は上段切りを放とうとした。受けられてもそうでなくても、追撃が可能だった。

 そう仕向けられていた。


 男の上段の気配を感じた刹那、クロウも刀を跳ね上げ上段切りを放った。


 上段の刃と刃が交差する。


 男のとりあえずの上段に対し、クロウの上段は、上から下への軸を一切ぶらさぬよう、丹田に力を込めた渾身の上段切りだった。


 男の上段切りは、僅かに遅れて放たれたクロウの上段切りに軌道をずらされクロウから外れた。


 クロウの上段切りは、僅かに先に放たれた男の上段切りを押しのけ男の右の手首を切り裂いた。


“陰陽流 陽式秘太刀 合わせ上段打ち─雷光─″


「う!?」

 男は片膝をつき、右手を押さえた。そして信じられないものを見るようにクロウを見上げる。

 クロウは刀を突きつけ男を見下していた。

 男は不敵に笑うと、再び立ち上がりクロウに迫った。

 しかし、左手一本で敵う相手ではなかった。

 数度の剣の打ち合いの後、男は左手にも小手打ちをくらい、ついに剣を落とした。

 男は両膝をつき、出血する両手首を地面に垂れ下がらせた。

「まいったねぇ……こりゃあどうも」

「まだやるかい?」と、クロウは構えたままで言った。

「いや……この手じゃあ女は抱けないな」と、男は首を振る。

 クロウは刀を拭って納刀した。

「言ったろファントムは抱けないって」

「ああ、そうだな……。いい女はやすやすと抱かせちゃあくれないか」


 そうして去っていくクロウだったが、思い出したように男を振り返った。

「ああそうそう、さっきも言ったかもしれないが、お前さんに体を許したのは後腐れがなさそうだからだよ。で、お前さんを生かすのも後腐れがなさそうだからだ」

 男は目を丸くしたあと苦笑いをして、そして痛みに呻きながら地面に倒れた。

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