第4話 池田家当主

 その日、7500石の大身旗本池田家当主の忠利は、供の者10名を連れて中山道を馬上に揺られていた。まだ、家を継いで日が浅く、立ち居振る舞いはとても旗本の当主とは見えなかった。供の者もいずれも若い。初の国入りということで心やすい者だけを連れていた。


 忠利は先代の義信が戯れに手を付けた女中の子で、生まれてすぐに義信の命で捨てられた過去を持っていた。正室の悋気に触れて、泣く泣く忠利の母は産んだばかりの我が子を捨てた。一時は我が子もろとも大川にとまで悩んだが縁あらばとあるお屋敷の前に我が子を置いて去った。


 そのお屋敷の主が忍藩主、阿部豊後守忠秋である。将軍家光の信任厚い老中を務める忠秋には変わった趣味があった。子供が大好きなのである。とは言っても現代で後ろ指をさされるような嗜好の持ち主であったというわけではない。何人も捨て子を育てていた。


 そのことで有名になり忠秋の屋敷前に子供を捨てるものが後を絶たなかった。さしずめ、江戸時代における私設の赤ちゃんポストである。あまりに度が過ぎるので、家臣が忠秋にそのことを言ったところ、俺の貯えで何をしようが文句ないだろと言ったとか言わないとか。まったくもってその通りである。


 忠利はそんな養い子の一人として、忠秋の屋敷で育ったが、15の時に母の残した書付を渡されて読み、屋敷を飛び出して3年ほど行方知れずになった。その後、忠秋の元に戻り、手をついて詫び、再び屋敷に置いてもらった。その間、どこで何をしていたのかは語らなかったがだいぶ荒んだ生活をしたことが外見から見て取れた。


 その後、義信が急病に倒れ、嫡男が早死にしていたため、慌てて養子を立てようとした。その口添えを温厚で知られた忠秋に頼み、忠秋にこっぴどく叱れらることになる。その場にいた者の話では義信の顔面が蒼白になるほどの怒り様だったとのことだ。そして、忠秋の斡旋で義信と忠利の対面の儀が執り行われ、家督を継ぐことになった。


 他所から見ず知らずの忠利が来て家を継いだことについて、池田家の家中から不満の声が上がりそうなものだが、実際にはそんなことは無かった。無嗣断絶でお取りつぶしにならなかっただけ有難い話だったからである。

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