第35話 貴族の娘は決心する
「あの人、ほんとなんなの?」
私は廊下の窓から下に見える畑仕事中の男に向けてつぶやいた。
今日は週の半ばだ。
例の新しい講師が来てからもう一月になる。あの得体の知れないブドウを食べて気絶してからもうそんなに経ったのだ。
あの日、起きた瞬間は最悪の気分だった。
気絶など生まれて初めてだから。
誰かに自分の無防備な顔を覗かれていたのではないかと思うと恥ずかしくてたまらない。
なのに――
「……気分がハイになりすぎるのはどういうことよ」
あの後、教室にはルネリタさんが一人教壇に立っていた。
今日の講義は終わりだから、と告げるために私たちの中の誰かが目覚めるのを待っていたそうだ。運がいいのか悪いのか、その一人目は私だった。
そして――
起きたと同時に叫んでしまったのだ。「気分、さいこーっ!」って。
……恥ずかしくて死にたい。
あの時の私をぶった切ってやりたい。
たった一人の目撃者のルネリタさんには、「レイチェルさん……大丈夫?」って尋ねられるし、あとから起きた友達には「レイチェル、ちょっと気持ち悪い」って言われるくらいに私はおかしくなっていた。「ぜーんぜんだいじょーぶ! あっはははは!」と大声で笑っていたらしい。
そして次の日の朝、冷静になったときの自分と来たら……
私は思わずベッドの上でのた打ち回った。
「全部、あいつのせいだわ。何がレジェンド野菜よ。薬でも混ぜたに違いないわ」
私はそう思いこむ。
ちなみに、アルノート様が次の週にレジェンド野菜について詳しく教えてくれた。何でも驚くほどの身体能力の増強効果があるらしい。
……薬も使っていないそうだ。
だけど、そうすると私だけがおかしいということになる。他の生徒はそこまで極端に変わってなかったのに。
断じて認められない。
「あんな怪しいファーマーを講師にするなんておかしいわ」
見下ろせば、茶髪の男が畑の一番端に植木鉢から抜いた苗を一本植えている。大切に扱っているのはその手つきでよく分かる。
根をあまり崩さないように持ち、小さく掘った穴に植えている。
悪い人間では無いのだろう。
「<テレポート>を使う上に、妖精まで従えてるなんて……絶対に何かあるわ」
「レイチェル……なにをぶつぶつ言ってるの?」
「…………えっ……な、なんでもないわ」
あの日以来、私と少し距離を置くクラスメイトの中で、変わらずに話をするチェルシーが横から覗き込んでいた。
私は慌てて明後日の方に視線を向け直す。
「最近、ちょっとおかしいよ? あれからずっとアンディ先生ばっかり追っかけてるでしょ?」
「……違うわ。私は……景色を見ているだけよ。たまに見たくなるの」
「景色って……見慣れた建物しか無いのに? アンディ先生が出勤して畑仕事してる日だけ見たくなるわけ?」
「偶然よ……」
「……まあいいけどさ。でも早めにいつものレイチェルに戻ってくれないと、みんな張り合いが無いんだよね。やっぱりクラスの頂点はぴしっとしといてくれないと。この前だって授業中に当てられたのに気付いてなかったじゃん。以前のレイチェルならありえないって」
「……私はいつも通りよ」
「あっそう。まあそういうことだからよろしくね。……ところで今日さ……上の学年の男子たちとダンスパーティなんだけど、レイチェルもどう?」
「何度も言ってるけど、行かないわ」
「だよねー……聞くだけ無駄だったか。じゃあ、愛しの先生によろしく言っといてねー」
「ちょっと!」
そういうのじゃないから撤回しなさいよ、と肩に手を伸ばしたけれど、チェルシーはひらりとかわして駆けていく。廊下は走らないのが約束事のはずなのに気にもしていない。
あっという間に角を曲がって消えてしまう。
「あの子ったら逃げ足は速いんだから……それに……私は単に正体を知りたいだけよ」
誰もいなくなった廊下に力の無い独り言が響いた。
もやもやとした気持ちがさらに心の中に浮かび上がる。
前の前の週には講義終了後に「レジェンド野菜って何なんですか?」と聞いてみた。
返ってきた答えは「費やした時間の結晶だ」だった。
――意味が分からない。
そして先週には「アンディ先生って実は強いんですか?」と聞いた。
苦笑いして返された答えは「ファーマー程度だよ」だ。
――今度も答えになっていない。
たぶんごまかすつもりはないんだろうけど、言葉が足りない。
妖精の態度を見ていても、アンディ先生が考えている自分と周囲の評価は違う気がする。それもかなりのズレを感じる。
アルノート様の一目置く態度も気になる。
「授業以外では禁止されているけれど……やっぱり手合せしてみないと分からないわね」
先生は小さなジョウロを片手に、植えた苗に水をやっている。顔を近づけて語りかけているようにも見える。
私の目はその行動を逐一追いかけてしまう。我ながら驚くほどに。
なぜこんなに気になるのか。
先週辺りからは答えは出ていた。
――私の新しい目標に成りうるのかどうか。
それを知りたいからだ。
例のブドウを口に放り込んだ瞬間から、眠っていた自分が目覚めたような感覚なのだ。
私は腰に刺した剣の柄をぐっと握りしめた。
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