第58話 たった一人の王子さま II



「まったく……君っては」


 呆れたように言いながら。

 クロさんがあたしを降ろしたのは、舞踏会の会場である広間の向かいに位置する小さな控え室だ。

 あたしたちの他には誰もおらず、今は飾り付け用の花の残りや、楽団員の楽器のケースなどが煩雑に置かれている。


「……ほら、足見せて」


 クロさんはひざまずき、あたしの捻った方の左足を自分の膝に乗せるようにした。よろめかないように、あたしは背を後ろの壁に預ける。


「あーあ、ちょっと腫れちゃってるじゃん」


 炎症を起こしている箇所を確認すると、彼はタキシードの胸ポケットからチーフを取り出し、手際よくあたしの足首を固定するように巻いていく。


「見映えは悪いけど、とりあえず応急処置。後でちゃんと冷やして、包帯巻かなくちゃね」

「……………」


 あたしは、何も答えない。


 何も、言えないのだ。

 頭の中がぐちゃぐちゃすぎて、さっきから言葉が一つも出てこない。



 『アリスちゃん』と呼ぶ、あの声も。

 彼女を見つめる、あの視線も。

 ゲイリー先生に向けた、あからさまな敵意も。


 大勢がいる前でお姫様抱っこされ、『僕の女』と公言されたことも。



 もう、わけがわからないのだ。

 嫉妬心と、嬉しいのと、驚きとが混ざり合って、ちっとも気持ちの整理がつかない。



 彼は黙ったままのあたしを見上げると、少しムッとした口調で尋ねてくる。


「君、なんであいつと踊ったりしたの?」

「…………」

「あいつに誘われたの?それとも、君から誘ったの?」

「…………」

「……君、ああいう男が好きなの?」

「はぁ?!違……ッ」


 反射的に声を上げ、ひざまずいている彼を見下ろすと。

 彼は困ったような表情で、こちらを見ていて。


 ……本当に、何もわかっていないのか。


「……そんなわけ、ない」


 声が、震える。

 いろんな感情が溢れそうになるのを堪えながら、言葉を一つひとつ、紡ぐように言わないと話せない。


「あたし…あたしが好きなのは、クロさんだけです……なのにクロさん、全然…あたしの方を見てくれない……」


 それでゲイリー先生に心配されて、声をかけられたんじゃないか。

 あなたは他のばかり目で追っているのに、あたしが他の人に誘われるのは許せないなんて。

 そんなの、傲慢すぎる。


 駄目だ。視界が、涙で歪み始めた。



「…あたし…、もっとクロさんに、見て欲しい…っ」



 ずっと、ずっとずっと溜め込んでいた思いが。

 ここへ来て、一気に溢れ出す。

 最悪だ。よりにもよって、こんな大切なイベントの日に。

 でも、もう。堪えることなんてできない。


「…他のなんて、見て欲しくない。あたし、もっと…クロさんに触りたいです。クロさんに、触って欲しいです。もっと……キス、したいです。お願い。あたしを…あたしだけを見て……」

「待って」


 唐突に。

 クロさんは、両の手のひらをこちらに向け。


「ストップ。それ以上は……もう、だめ。いろいろと、制御できなくなる」


 そう言って。

 ほのかに、顔を赤らめた。

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