エピローグ 最初の記憶
森の道なき道を一人、俺は進んでいた。
獣道からも外れたそれを歩くことは、両親や村の大人達に強く禁じられていたが、歩きなれた山を道を少し外れることなど、俺には訳ないと思っていた。
いつもとは違う方面に足を伸ばしていた俺は、澄んだ水の匂いを感じ、それに導かれるがままに前にと進んでいた。そうして初めて見る、日の光を浴びた水面がきらきらと光る泉を見つけた。
湖と言うには小さいが、しっかりと恵みの水を湛えるそれは、俺には森の中に隠された秘密の宝箱のように見えた。
「んっく――ぶはぁっ!」
歩き疲れたのもあって、その泉の水を手に掬って飲むと、ひんやりとした澄んだ水が俺の喉を通り、疲れを吹き飛ばしてくれるようだった。
「こんな場所があったなんて……綺麗な水だなあ……」
村からは随分と歩いた気がするが、こんな所に泉があるなんて誰からも聞いたことがなかった。この場所を知っているのは俺だけのように思えて、思わずニヤついてしまう。
「うん……? あれは――」
そんな思いも束の間、俺が立つ泉の畔、その対岸に立つ人影が見えた。こんな場所に村なんてあったかなと思うが、俺と同じ歳くらいに見える子供なので、きっと近くに住む子なんだろう。
せっかく見つけた自分だけの場所に邪魔が入ったような気がして、何か一言かけてやろうと思い、泉をぐるっと半周するように歩き、人影の方へと向かう。
「おい、お前っ!」
「――な、何っ!?」
俺が声をかけると、その子供が驚いたように振り返る。見ると、見慣れない風貌、村では見たことのない蒼く澄んだ色の瞳をした女の子供で、俺の方も少し驚いた。
「この近くの村の子供か?」
俺の言葉に小さく首を傾げる女の子は、周りをきょろきょろと見回す。
「村…………?」
「だから、この近くの村に住んでるのかって言ってんだよ」
「……分からない」
女の子は長い金の髪をなびかせるように、ふるふると首を振る。妙な反応を示す子供に、まさか迷子なのかと思った。
「自分の村の場所が分からないのか?」
「うん……」
「親は?」
「分からない……」
「なんにも分からないんじゃねえか。大丈夫なのか、お前?」
「うん……」
辿々しい返事ばかりを返してくるので、見た目より幼い子供なのかと思った。
「じゃあ――名前は? お前、なんて名前なんだ?」
「名前…………」
「おいおい、嘘だろ。名前も分からないって、お前もしかして
「キオク……何?」
「はぁーーっ……」
変な奴は俺の村にも何人かいるが、目の前のコイツの反応はその比じゃない。何を言っても答えが返ってこないので思わずため息をついてしまった。
「あの……あなた、の名前は?」
「俺? 俺の名前は
「ルクス……そう……」
「何だよ?」
「ううん、とっても――いい名前ね」
そう言った女の子は穏やかに微笑んだ。素直な反応に気後れして、何と返していいのか困って鼻の下を掻く。
「まっ、まあなっ! 俺の名前――
「
「そ、そんなことよりお前の名前だっ! 本当に覚えてないのか?」
「うん……」
「名前を覚えてないなんて不便だな……お前、って呼ぶのもな……」
妙な場所で出くわした子だし、もう会うこともないかも知れないが、何とか思い出させてやれないかと少し考え込んでいると、女の子の方が口を開いた。
「ねえ、ルクス……私の名前、あなたが付けてくれない?」
「俺が……? そんな犬じゃねえんだから、人の名前なんて付けられねえよ! 普通は父ちゃんが母ちゃんに――」
「いいの……ルクス、あなたに付けて欲しい」
変なお願いをされたが、真っ直ぐこっちを見てくる視線に、仕方ないかと思った。
「名前か……そうだな……じゃあ、
「ラクス……? 何だか、ルクスと似てる……」
「べっ、別にテキトーに付けたワケじゃねえよ! ラクスってのは、
「ううん、そういう意味じゃないの……ラクス――嬉しい……とっても…………」
女の子は自分の胸の前で両手をぎゅっと合わせて、小さく微笑んだ。
俺が適当な名前を付けたと思われたかと思って言い訳じみたことを言ってしまったが、そんなことはまるで気にしていないように喜ぶ女の子に、俺はバツが悪く頭をぽりぽりと掻いていた。
俺が少し目を逸らした先で、ラクスの笑顔と一緒に、泉の水がきらきらと光っているようだった。
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