泉の精と聖なる斧

第30話 異形のモノ

「あ…………あ、あああぁぁあああああああああっ！！　私の――私の腕がああぁぁああああっ！！」

　腕を抑えてうずくまるメフィルは断末魔のような声を上げる。悪魔というのだから、切られた腕でもまた新しく生えてきそうなもんだがその様子もない。何故かは分からないが、ラクスとの会話――本当にラクスだったのかも定かではないが、その後から体に力――というより自信のようなものが満たされていた。手の平、腕、そして全身に力がみなぎってくる感覚、さっきまで通用しなかった俺の攻撃がメフィルに届いたのも、その目に見えぬ力が戦斧の刃先にまで伝搬しているからだろうと思う。まるで最初から存在していたかのような違和感のなさに、それを持っていたことに自分自身気付いていなかったように感じる。これもラクスが気付かせてくれたことなのだろうか。

　深手を負ったことで気が動転しているのか、呻き声のようなメフィルの叫びがいい加減耳障りに感じてくる。

「さっきまでの威勢はどうした」

「あ……ありえない……ありえないですよおおぉぉぉおおおお、こんなことはっ！！　アナタっ！　何をぼうっと突っ立ってるんですっ！？　早くその男をたたっ斬りなさいっ！！」

　メフィルがそうさせていたのか、俺とメフィルとの攻防に加わらず傍らで立っていたソルが、メフィルの声に反応して動き出す。長く共に時間を過ごした旧友――死体を操っているというのだから当たり前なのだが、その懐かしい顔を見る度にやりきれない気持ちになる。

　俺に斬りかかってくるソルの剣を何度か斧で受けながら、こんな状況にも関わらずその懐かしい感触をまた確かめていた。敵に操られているとは言え、そのキレのある動きや太刀筋の鋭さは生きていた時のままだ。ソルがまた俺の目の前にいるような感覚に躊躇してしまいそうになるが、こんな状態でいつまでも続けているワケにもいかない。俺の手で、再びソルを殺そう（・・・・・・）と心に決めた。

「――ルクス、あなたが愛する人のことを信じて」

　攻撃に転じようとした時、耳の中でそんな声が聞こえた気がした。ラクスはもうとうに気を失っているはずだが、その声は確かに俺に届いた。ソルを信じるとは一体どういうことか。メフィルに指示されるがままに剣を振りかぶって俺に襲い掛かってくるソルは、俺の命を取るためにためらいもなく剣で俺を貫くだろう。

　そんなことを考えているうちに、向かってくるソルの首を飛ばそうとした戦斧の構えを解いてしまった。

「ちっ――たまんねえな……」

　これ以上ソルの悲痛な姿を見ていられない気持ちになるが、同時に目を背けてはならないと思い、再びソルに向き合って構える。

　交錯する瞬間、大上段から真っ直ぐ振り降ろされるソルの剣を思いきりかち上げた。衝撃で剣柄からソルの手が離れ、激しい金属音を上げながら長剣が宙高く舞う。

　剣を弾き飛ばされて両手を投げ出した格好となった相手を見て、俺も手に持っていた戦斧の石突の部分を床に突き立てる（・・・・・）。懐が空いた状態のソルに、空手となったその両手両腕で組み付いた（・・・・・）。

「あ゛……あ゛あ゛……」

　何故そうしたのか自分でも分からないが、身体を締め上げるような俺の抱擁に、ソルの口からはこの世のものとは思えない声が漏れ出る。敵である俺が絡みついているのにソルの方は動きを見せない。

「……すまねえ、ソル……」

　もはや人ではない何かになってしまったソルを強く抱きしめていると、両の目からぶわっと涙が溢れ出てきた。

「何をしてるんです、この愚図がっ！！　武器がなくともそいつを殺しなさいっ！！　その首を噛み千切って――」

「すまねえ……お前を死なせちまって…………お前を、こんな姿にさせちまって……本当にすまねえ……何度謝ったって、何度後悔したって、俺は許されないだろうな……」

　奥の方でメフィルが喚いているが、その声は俺の耳には入ってこない。もはや溢れ出る感情を抑えることはできず、涙がとめどなく流れ出る。俺の声が届くはずがないと重々分かっていながらも、自分のその愚かな行動を止めることもできない。そうしている中、ソルを抱く身体の半面がじんわりと熱を帯びるのを感じた。

「あ゛、う゛あ゛……」

「すまねえ――――」

「あ゛……ぐ……ルクス……あ゛……ま゛、待っていた――ルクス、お前――を、ずっと……」

「ソルっ！？」

　濁った苦悶のような音の中に、記憶の中にあるソルの声を確かに聞いた。震えながら動くソルの手が、俺の肩を弱々しいながらもしっかりと掴む。

「お前を……信じていた、ぞ……」

「ソルっ！！　お前なのかっ！？」

「ありがとう――――」

　さっきまで視点の定まらない死者の表情だったソルが、俺の目を正面からしっかりと見ながら言葉を綴る。そして、最後にぽつりとそう呟いた後、天を仰いだかと思うと、開いた口――というより全身から何か黒いモヤのようなものが立ち昇り、それらがソルの身体から離れて霧散した時、俺に体重を預けてくるように、その身体からは力が失われた。この感触にも覚えがある。戦場で、俺の目の前で死んだソルが最期の言葉を俺に伝えた後と、全く同じ感触だ。

「うっ……ソル…………なんだ、『ありがとう』ってのは……意味が分からねえ……そんな言葉、俺が言われる筋合いはねえってのに……」

　再び俺の腕の中で果てたソルの亡骸をゆっくりと石の床に降ろすが、まだ涙は止まらない。奇跡なんて言葉は俺には似つかわしくないが、また言葉を交わし合うことが出来たこの時、『ありがとう』という言葉は俺こそがあいつに伝えるべきだったのに、それも叶わなかった。

「な、何なんですかアナタは……私のかけた魔法が解かれるなど……それに、死者が自らの意思で話すなど……あ、あり得ない、神術の類か……」

　横たわるソルの前で項垂れる俺に向けて、目を白黒させたメフィルが発した言葉が、皮肉にもソルが確かに俺に言葉を残してくれたこと――それが幻聴でも何でもなく現実であったことを証明した。

　悪魔のくせに、俺のことをまるで化け物を見るかのような目で見てくる。もはや顔も見たくないクソ野郎だが、顔を拭って立ち上がり、最後に残された敵の前に立つ。

「ひっ――ま、待って下さい……分かりました、アナタは強い。それは重々分かりました。私も悪ふざけが過ぎました、謝罪します。どうかお許しを――」

「……聞こえねえな」

　片腕を失ったメフィルからは、この場に俺が来た時に見せた余裕や威勢は完全に失われており、情けない声を上げる。俺から全てを奪ったこの男――悪魔のそんな姿に、俺はこんな奴のために全てを失い、そして何もかもを失った後の残りの人生をこんな奴に復讐するために捧げてきたのかと、何とも言えない気持ちになる。

「そ、そんな――それでは、これはどうでしょう！？　私は悪魔、アナタにアナタが望むものを与えることができます。その力を持っています。ですから、契約をしませんか！？　アナタが望むものなら何でも――」

「この期に及んで命乞いか。もっと悪党らしく、最後までクソみてえな悪態でもつきながら散ったらどうだ」

「くっ……」

　メフィルの言葉は雑音としてしか俺の耳に入ってこない。俺に取り付く島もないことを理解すると、後ずさりながら苦々しい表情を見せた。

「――何なんですかアナタは、まさか正義を行ってる、とでも言うつもりですか！？　アナタも知っているでしょう、私は悪魔ですが、この世には私なんかよりもよっぽど悪魔のような人間が腐るほど居ることを！　私のような趣味で人間をいたぶるくらいの悪魔を殺した所で、何も変わりはしませんよ！　それにアナタだって――知っていますよ、私は。アナタの所業（・・）を。そんな人間が正義ヅラするなど、笑わせる――」

「んなこたぁ知ってるし、正義ヅラなんてした覚えはねえ。テメエの言う通り、俺は薄汚れているし、ソルや――ラクスが言うような立派なもんじゃねえ」

「じゃ、じゃあどうして……アナタだって人間です。欲はあるでしょう。私を見逃せば何だって手に入る――」

「だがな、俺が正義じゃねえとしてもだ。俺は、俺のココ（・・）ん中にだけある正義を持ってる。復讐じゃねえ。その正義が、『テメエだけは許さねえ』って言ってんだよ」

　胸の――心の臓あたりを固めた拳で二度叩きながら、俺はメフィルの言葉を突っぱねる。

「ふ……ふざけるんじゃあないですよぉぉおおおっ！！　怒りにかられた復讐ならともかく、そんな訳の分からない理由で殺されてたまるか！！　アナタも愚かな人間らしく私の言うことを黙って聞いてればいいものを――もういいでしょう……アナタをこ、コロシテ…………コロ……」

　怒声を上げたメフィルは、その全身がめきめきと音を立てながら膨らみ始め、元の姿からそれぞれ縦横を倍にしたくらいの大きさの化け物になり変わった。牙をむき出しにしているその表情はもはや人間のものではなく、失ったはずの片腕も元に戻り、その手には鋭い爪を持っている。

「はっ……そっちの方が悪魔っぽくて分かりやすいぜ」

「ソノ……手足ヲぉ……引き千切ッテぇ……臓物ヲ……」

「ごちゃごちゃ言ってねえで、さっさと来い。来ねえならこっちから――」

　これが最後と戦斧を担ぎ、異形と化したメフィル目掛けて駆け出す。俺の動きに野生の動物のように反応するが、俺が飛びかかる方が速かった。敵の頭頂を目掛けて斧を一気に振り降ろす。

「――おおおおおおっっ！！」

　躱す間も与えない俺の攻撃を防ごうとした、太い両の腕を易々と断ち、そのまま頭頂から臀部までを一直線に進んだ斧頭は、敵を真っ二つに裂いた。

　分断されたメフィルの肉体は左右それぞれに傾き、ずんと鈍い音を立てて床に沈む。その亡骸をちらと見るが、もう動き出すこともなく、次第に黒い塵のようなものに変わり霧散していった。

「ふん、死に様は悪魔らしいじゃねえか」

　敵を死に至らしめたことを確認すると、はっとラクスのことを思い出す。俺に声をかけた時の場所に目を向けると、依然床に突っ伏したままのラクスの姿が見えた。

「ラクスっ！！」

　手に持った戦斧を放り出し、俺はラクスの方へと駆け出す。