第29話 全てを照らす光

「――お願い、待ってルクス・・・


 耳にそよ風が流れ込むような心地の良い声が、懐かしい名――俺がとうの昔に捨てた名を呼ぶ。国軍の兵として戦う前、新兵となると決めた時にその名を捨てた。俺のことをその名で呼んだのは今は亡き家族や滅んだ村の顔見知り達、それに軍に入った時からずっと一緒だったソルくらいのものだ。忌まわしい過去を思い出す名前を呼ばれるのは嫌いだった。ソルにだけそれを許していたのは、ひとえに互いの信頼感によるものだったが、この声の主に名を呼ばれるのはそれ以上に心地よく、その響きもひどく懐かしい。


「誰だ――俺の名を呼ぶのは……ラクスか?」


 まるで水中にいるように、発したはずの声はまともに音にはならず、しかし俺の意思がそのまま漏れ出しているように、後ろにいる相手――声の主には伝わったことは感じる。ラクスの名前を呼んだのは、なんとなくとしか言いようがない。


「――ええ。なんだか随分と久しぶりに話をしたみたい」

「何故だ――何でお前が俺の名を知っている」


 俺の声はやはり伝わっているようで、同時に声の主がラクスだと分かった。しかし、その話し方はいつもとは違う。淡々としていながら、優しく響く。どこかで聞いたことがあるような気がするその声は、俺の問いにそれ以上に応えることはなく、泉の底で揺蕩たゆたうような感覚の空間、静止したような時の中で俺はただその声を聞く。


「ルクス、怒りに身を任せては駄目。あなたの――あなたを愛した人の声を思い出して」


 ゆっくりとだが、それでもしっかりとした話し方で声は続ける。


「あなたは自分のことを荒れ狂う業火のように思っているけど、それは違うの。あなたは光――力強くまばゆい光。とめどなく広がって真っ直ぐと進む、全てを暖かく照らす光。そして、全てのじゃを散らす光」


 まるで唄のような、澄んだ空気のような声は、俺の全身を清らかな水で満たすようだ。その水が、俺の中でごうごうと燃えていた業火を段々と鎮めていく。


「あなたを愛した人達も、皆そのことをよく知っていた――私にはそれがよく分かる。その人の言ったことを思い出して。あなたは自らの火・・・・で身を焦がさなくていいの。許せない事、許せない者は確かにあるし、いるわ。非道なる者、そしてその行いを許してしまった自分・・、それを許せないのは仕方ないこと……でも、それで怒りという火に身を任せて、全てを――あなた自身も、焼き尽くしてしまっても何も残らないわ。あなたを愛した人達も、そうすることを望まない。だから、自棄になっては駄目」


 声が言う、俺を愛した者というのは、恐らくソルのことだろう。この声が言うように、あいつが俺のことを愛していたのか、自分を死に追いやった俺のことを最期の時にどう思っていたのか、あいつが見せた笑みを思い出しながら、そんなことを思っていた。しかし、声の心地よさに当てられたからか、今は俺に『生きろ』と言ってくれた友の言葉を信じたいと思った。


「何かにとらわれて『こうしなければならない』なんて思わなくてもいいの――あなたはただ真っ直ぐに――あなたが向かうべきだと思う先に進み、そしてあなたが愛するその全てを照らせば――」


 声が段々と遠くなってくる。


「世界は明るく、きらきらと輝くわ――」



 ぱちんと弾ける音がするように、現実の感覚が戻ってきた。

 俺はメフィルに叫び突進する格好のまま、間抜けに口を開けた状態で静止していた。視界の先ではようやく土煙が晴れ、拳を振り上げたまま固まっている俺の姿をメフィルが顔をしかめながら見ている。


 一体さっきの時間はなんだったのかと、ラクスのいる方を振り返る。石の床に転がった格好で上体を肘で支えながら起こしているラクスが見え、そして俺の顔を見てにこっと笑った。


「……ラクス、お前がやったのか?」

「はい……また勝手なことをしてすいません……でも、ふふ……戻ってきてくれて……良かった」

「一体何を――」

「絶対に生きて下さい……ああ、良かった……背中のそれ・・……特別サービスなんですから使ってくだ……さいね…………」

「ラクスっ!!」


 いつもの調子が戻ったような口調で俺に辿々しい声をかけるラクスだったが、力を失ったようにがくりと床にうずくまってしまった。名前を呼ぶ俺の叫びにも反応はない。


「……全く叫び声を上げたかと思えば一体何を話して――――アナタ……何かしました・・・・・・ね?」


 俺とラクスのやり取りを見ていたメフィルの声を聞き、また敵のいる方に視線を向ける。さっきラクスが俺に何をしたのかは分からないが、メフィルの視線はラクスをしっかりと見据えており、ラクスが何らかの干渉をしたことに勘付いている様子だ。


「魔力を絞り上げるために捕らえたものの――このごみが……とんだ邪魔を――」


 冷たい視線でラクスを見据えたメフィルが、今までの態度とは異なり邪魔者を排除するというように、ラクスに向かって動いた。もう力尽きて動くこともできない相手に止めを刺すつもりなのだと即座に理解する。


 メフィルの動きはこれまで見せた所作が全力ではなかったと分かるくらい素早い。まるで剛弓で放った矢が地を這いながら風を切って進むような勢いだ。


「アナタは、もう用済みです――」

「――ざけんじゃねえよ」


 直線の軌道を描くメフィルに、その姿が俺の横をすり抜けようとする瞬間、渾身の力で拳を突き出した。


「――ぶがっ!!」


 線のような軌跡の中に見えたメフィルの顔を目掛けて振るった拳は、その顔面を捉え・・、顎を跳ねられたメフィルは回転しながら宙を舞い、どさっと地面に落ちる。横から思わぬ攻撃を受けた相手は手で顔を抑えながら俺の方を見て、信じられないものを見るような視線を送ってきた。


「……え? 一体何が――バドラック様が? え、どういう――え、殴った?」

「何だテメエ、散々人をクソみたいな言葉で煽っといて殴られたら驚くのか?」

「え、だって私、感情アストラル体……というか悪魔なんですけど、え……?」


 悪魔を自称するメフィルは、まるで酒場の喧嘩で殴られた酔っぱらいのように顔を歪めながら、一体何が起こったのか分からないようだ。

 さっきまでは全ての諸悪の根源というような存在のコイツのことを、身を引き千切るような怒りを抱えながら見ていたのだが、今はどうも違う。ラクスの声を聞いた後だからか、今は燃え上がる業火ではなく、青く静かに燃える火が身体の中心にあるような心持ちだ。


「この大悪魔たる私を、愚図な人間如きが不遜ふそんにもな、殴るなど…………許せ……許せませんよおおおおぉぉぉおおお――――」


 我を失ったように俺に襲いかかってくるメフィルに、右に左にと固めた拳を叩き込む。


「うるせえよ」

「――ぶげぇえっ!! そ、そんな……また、一体どうして――」

「だからうるせえって」

「――ほがぁああっ!!」


 俺にぶん殴られて吹っ飛んだメフィルは、石の床に無様な声を上げながら転がる。すぐに上体を起こしてこっちを見るメフィルは肩で息をしながら、混乱した頭を整理しているのか、周囲のあちこちを見回すように目をぐるぐると回している。


「ふっ、そういうことですか……あの女――あの小悪魔が何かをしましたね……全く、私に傷を与えるとは、雑魚の割に小賢しい魔力を――」

「いや、ラクスは関係ねぇな」

「――は? でもアナタ、さっきまでそんな力は……」

「んなこと知らねえが、テメエを殴り飛ばしたのは多分、俺の力だ」

「そんな馬鹿な……私に傷を付けるなど、私の力の対極にある退魔の魔法でもなければ――」


 眼下でわあわあとよく分からないことをほざくメフィルに、冷静を取り戻したものの少し苛つき、深く息を吸い込んで叫んだ。


「細けえことは知らねえ、っつってんだよ!! 悪魔だろうが退魔の力だろうが俺にとっちゃどうでもいい!! 俺は俺が殴りたいものを殴る・・・・・・・・・!! ――それだけだ!!」

「え、えぇぇぇぇ…………」


 戦いの最中に何だか小難しいことを言い始めたので、一喝でそれを止めると、メフィルからは情けない声が返ってきた。文字通り悪魔じみた表情だった目の前の男が、ただ困惑した表情をしながら言いかけた言葉を飲み込むような顔をする。


 一瞬の間見合っていた俺とメフィルだったが、相手も少し冷静さを取り戻したのか、こほんと咳払いをすると、何事もなかったようにその場で立ち上がった。


「…………ま、まあ何だかよく分からない感じで怒られましたが……しかし、私に拳が当たるとは言えっ!! 大した痛手も――ちょっと痛かったですけど――ないようですっ!! いやあ残念でしたねえ? きっと私に通用する力を得たと勘違いしていたんでしょうけど、素手での戦いではアナタにははないようです――」

「んなこと、分かってるわ。ただテメエを全力でぶん殴りたかっただけだ」

「えええぇぇ…………」


 強がっての言葉というわけではなく、目の前ですっくと立ち上がったメフィルには大した傷もついていないようだ。そんなやり取りの中、最後に聞いたラクスの言葉・・・・・・を思い出していた。


「さっきも言ったが……テメエをぶっ殺すことに変更はねえ」

「ですが、どうやっても――」


 体に括り付けた紐を引き千切り、背に負っていた包み・・を手に取る。ラクスに会った時に『こんなものはいらねえ』と突き返してやろうと思っていたのだが、中身に見当がつくそれを手にし、包んでいる布を剥ぎ取る。


 中からは――案の定という所だったが、薄っすらと黄金色に光る戦斧が姿を現した。いつも使っていた戦斧よりは少々小ぶりという大きさだったが、柄から伝わる感触、ずっしりと感じる重さなど、そうお目にかかれる代物しろものではないことは分かる。ラクスが言っていた――オリハルコンの戦斧だという言葉も、あながち嘘ではないのかも知れない。


「何ですか今更そんな斧などを取り出して……さっきアナタの大事な斧を壊されてしまったのを忘れてしまったのですか?」

「はっ、よくほざく口だな。テメエなんざ、一発でぶった斬ってやるからさっさとかかってこいよ」

「その言葉……ふふ、後悔しないで下さいよぅ……?」


 慌てふためく態度から元のフザケた調子に戻ったメフィルは、静かに構えを取る。何か妙な雰囲気を感じたと思うと、その伸ばした右腕が伸び、黒光りするのような形状へと変化した。


「それでは、そろそろ死んで下さい――」

「――テメエがな」


 先程のような鋭い軌道を描きながら飛びかかってくるメフィルを、手に持った戦斧で迎え撃つ。手にした時に感じた重さとは異なり、俺が振り上げたその斧頭は、敵の長剣のような腕目掛けてするりと進み、何の抵抗もなくそれ・・を分断した。


「――うがああああああっっ!!」


 黒い鉄塊のようになった腕が宙に舞うのと、メフィルが声を上げるのは同時だった。

 叫び声を上げながら、黒いモヤのようなものが立ち上っている失った腕の部分を抑えているメフィルに、俺は再び構え直す。

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