第2話 妙な隣人

「ぶはあっ!」


 水を張った桶に突っ込んだ顔を上げ、犬がやるように頭をぶるぶると振って水を飛ばした。ぽたぽたと、俺の顔からしたたる水が桶に張られた水面に落ちて、いつもと変わらぬ顔が目に入った。

 初老とはまだ言えないがしっかりとしたしわが刻まれつつある肌に、幾つもの切り傷の跡が残っている。昔は勲章とも思えたその傷跡は、今はただの振り返りたくもない過去の残りカスにしか見えない。


「仕事でもするか」


 朝の儀式のように顔を洗った後、身支度を適当に済ませて外に出る。薪割りにも使う丸太で作った台に、刃先が刺さった斧を手に取って、泉の方に向かった。


「おう、おはよう」

「あ、おはようございます。今日もいい天気ですね」

「そうだな。なけなしのやる気も出るってもんだ」


 泉の傍に何をするでもなく立っていた女に声をかけ、簡単な挨拶をするのが最近の日課になっている。初めて会ったのは数日前だが、泉の精霊よろしく現れたコイツは、現れたのは急だったものの、その後姿を消すわけでもなく、いつまでも泉の近くで暇を持て余している。


「金の斧、欲しくなったりしました?」

「いや、いらん」

「オリハルコンのもありますけど――」

「だから、いらないっつーの。毎回聞くのな、それ」

「そうですか……」


 この問答を含めたやり取りが日課のようになっていたわけだが、いい加減毎度毎度聞かれるのも面倒だ。


「なあ、悪いんだけどよ。金だか銀だかオリハルコンだか知らねえが、俺には必要ねえもんだからよ。いちいち聞くのやめてくんねえかな?」

「すいません、気をつけます……でも、もしかしたら気が変わるかも知れないですし、たまには確認してもいいですか……?」

「……たまになら、な」

「――ありがとうございますっ!!」


 このやり取りをするといつも暗い顔になっていた女だったが、仕方なしの返事を聞いてか、ぱあっと表情が明るくなった。ふにゃりと笑うその顔は、威厳もクソもないようなものだったが、見ていて気分が悪いもんじゃない。コイツが何故にここまで、俺に物をあげようとしてくるのかは意味が分からないが。


「斧をくれるっつってもよ、お前、この前泉に捨ててなかったか?」

「え? ああ、別に捨てたわけじゃないですよ? ほら、すぐに取り出せますし」


 初めて会った日に見た光景を何気なく口にしただけだが、何の話か分からないような表情を一度見せた後、泉の方に女が手を伸ばす。


「うおっ」


 手を伸ばすと同時に波が立った水面から現れた、鞭のようにかたどられた水がしなり、その先端に数日前に見た金の斧が握られている。ゆっくりと降りてきた斧を女が手に取ると、不自然に動く水が何事もなかったように水面へと戻っていった。


「こんな感じです」

「こりゃ驚いたな、魔法の類か?」

「そんな感じですかね? 人間が使う魔法というものを、私は見たことないですけど」

「いい加減なもんだな……」


 魔法なんてもんは、昔は当たり前に見ていた。俺には全く素養がないが、人間はそれを生活にも使うし、戦争にも使う。しかし人が使うそれ・・は、今目の前で見たようなもんじゃなく、詠唱なんかをしながら時間をかけた行程の後、ようやく効果が出るものだ。今みたいなポケットから財布を取り出すように、手軽に使えるもんじゃない。

 驚いたことを隠さない表情の俺に気付いたのか、女がにんまりと笑う。


「どうですか? ふふ〜〜〜ん、私凄いですか?」

「ああ、凄いには凄いが……」

「が?」

「人前であんまやらない方がいいぞ、それ。なんというか、悪魔っぽさが増したわ」

「ええ〜〜〜〜〜〜〜〜!? 悪魔っぽさって何ですか!! 酷い!!」


 不敵な笑みを見せた直後、口を大きく開けて変な声を出す目の前の女。よくここまで表情がころころと変わるもんだ。


「大体なあ、金でできた斧なら分かるが、オリハルコンの斧ってのは酷いぞ。オリハルコン製の武具ってのは国宝級のもんだ。嘘をつくにしてももう少しマシなもんを――」

「私嘘なんてついてません!! なんなら今見せて――」

「あー、いらんいらん」


 女が再び泉の方に手を差し向けようとするのを止めた。目の前のコイツが悪魔だとして、斧を見せろと言ったもんだと受け取られでもしたら、それだけでも面倒なことになりそうだ。


「うぬぬ……」

「まあ、なんだ。俺が言いたかったのは、アレだ。悪魔じゃないって言うんだったら、人にどう見られるかを考えて行動しろ、ってこった」

「なるほど、そういうことですね!! 納得です!!」


 何を納得したのかは知らないが、鼻息を鳴らしながらうんうんと頷くのを見て、まあいいかと思った。マトモに付き合っていたら日が暮れそうな気もする。


「まあ、そういうことだから、俺は仕事にいくぞ」

「はいっ!! 頑張って下さい!!」


 手を振る女に見送られ、俺は泉の傍の森に向かう。

 仕事に行くと行っても、家からも泉からもさほど離れていないところで、適当な大きさの木を見繕ってただ伐るだけだ。後ろをちらりと見ると、まだ手を振っている自称泉の精霊が見えたが、構わず斧を振る。


 コーン、コーンと金属が木を打つ音が森に響く。我ながら何で木こり・・・なんて仕事を始めようと思ったのかは分からないし、位置や力を調整しながら・・・・・・・・斧を振るなんて手間がかかる作業は面倒だが、静かな森の中、この音を聞きながら汗を流すのは嫌いじゃない。

 斧で切り込みを深くしていった所で、受け口を作った方向に自重を支えきれなくなった立木が倒れていく。本当は声を出して、木が倒れることを周りに知らせた方がいいのだろうが、ここらに住んでいるのは俺だけだし、ふもとに住んでいる村人が山に入ることも少ない。暇つぶしの域を超えない仕事なので、仕事の質も適当になるというものだ。


「へえ〜〜、そんな風に木を倒すんですねえ。勉強になります」

「うわっ! 何時いつからいたんだお前」


 木が倒れている所を見届けている中、急に後ろからかけられた声に驚いてしまった。振り返ると、膝を抱えて座っている女が、木がゆっくりと倒れているのを興味深そうに見ていた。重量のある木が派手に倒れる音を聞いて、楽しそうに手なんかを叩いている。


「いつから、でしょう? ずっと見てましたよ?」

「ずっと、ってなあ……あのなあ危ないだろうが。倒れてきたらどうすんだ。というか、お前……普通に移動できるのな……」

「え? 何のことです?」

「いや、だってよ。いつも泉の近くでウロウロしてるから、泉から離れられないもんかと」

「ああ、そういうことですか。そうですね、確かに基本的には泉の近くにいる必要がありますけど、ちょっとの間だったら大丈夫です!!」

「まあ何でもいいんだが……」


 何の自信からか胸を張って見せる女だが、どう反応していいのか分からない。何だか無性に疲れたので切り倒した木をそのままに、家の方に戻ることにした。


「もうお仕事終わりなんですか? 切った木はそのままでいいんですか?」


 先を歩く俺の後をついてきながら、女があれこれと聞いてくる。


「いいんだよ……なんだか気疲れしたから飯にすんだよ」

「ご飯ですか!! 何を食べるんですか!?」

「何だっていいだろ……今日はそうだな、時間も早いし釣りでもするか」

「釣り?」


 いちいち飛んでくる質問をいなしながら、納屋にしまっていた釣り竿を取り出し、泉の周囲の岩場になっている所に足を向ける。


「へえ〜〜、釣りってそんな感じなんですねえ。糸を垂らしてどうするんですか?」

「今日はやけに絡んでくるなお前……糸の先に魚を捕まえるための針がついてるんだよ。そこに魚をおびき寄せるための餌がついてる」

「へえ〜〜、何とも回りくどいことをするもんですねえ」

「回りくどい、ってお前な――」


 水面に糸を垂らした所で、言葉を止めた。


「そういやお前、この前見た魔法みたいなやつ。あれで魚とか取れたりするの?」

「魔法? ああ、そういうことですか。ふふ〜〜ん、いいですよ?」


 勝手に何かを納得したような女だったが、泉の方に手を向け、指をくいくいっと動かしたかと思うと、同時に水面から大ぶりの魚が二匹跳ね出てきた。俺の足元に落ちてきたそれは元気にビチビチと跳ねている。


「おお、凄え」

「ふふ〜〜〜ん、どうですか!! 見直してくれましたか!?」

「凄い凄い、見直した見直した」

「ふふふ〜〜〜ん!! では泉の精霊のこの私が、このお魚をあげましょう――」

「いや、それはいいわ」

「そうでしょう、そうでしょう!! って、ええ〜〜〜!! 何で!?」

「いや、お前からモノ貰うの怖えし」


 自慢気なのを隠そうとしない態度から一転、いつもの口をあんぐりと開けた表情になった。段々とコイツの反応にも慣れてきた気がする。


「怖いことなんて何もないですよ!! ささ、このお魚を食べて下さい!!」

「だからいらんっての」

「うぬぬ…………じゃあもういいです!! このお魚は私が食べますから!!」

「食べんのかよ――ってちょっと待て待て」


 勢いよく口を開けた女を慌てて止める。仮にも精霊を自称するやつが魚を食べようとする所にも突っ込みたかったが、生きた魚をそのままかぶりつこうとしたので思わず止めてしまった。放っておいたら中々の地獄絵図になりそうだ。


「止めないで下さい!!」

「止めるわ、普通に。魚にも食い方ってもんがあるんだよ」

「ほう?」

「俺がやってやるから見とけ」


 腰に付けた用具入れから小ぶりなナイフを取り出し、魚の腹に切り込みを入れ、内臓を取り出して水洗いをする。一度家に戻って取ってきた塩をまんべんなくすり込み、処理し終えた魚に小枝で作った串を通す。同じく小枝を集めて火を焚き、その横に魚の串を差し込む。その一連の作業を、女も黙って見ていた。ぱちぱちと鳴る焚き火の音の中、静かに二人で魚が焼けるのを見守る。


「これで大体焼けたか」

「何で焼くんですか?」

「まあ生で食えないこともないけどな、焼いたほうが皮もぱりっとして香ばしいし、生臭さもなくなるからな」

「なるほど、勉強になります!!」

「まあ食ってみろよ」


 俺がそう言うと、すっかりおとなしくなった女はじっとこっちを見てきた。


「食べないんですか?」

「お前が取った魚だろ? お前が食えよ」

「でも…………う〜ん……じゃあ、こうしましょう!! 一匹あげます!! これは労働の対価です!!」

「ほう?」

「タダであげるって言っても貰ってくれないですからね!! 魚を処理して焼いてくれましたし、焼き方も教えてくれました。これはその対価です!!」


 またも自慢げな表情を見せる女だったが、なるほどなと思った。焼いただけで魚をくれるってのも都合がいい話ではあるが、筋は通っている。今までに悪魔の話を聞くことがあったが、言われるがままに願いを叶えてもらうことに問題があるのだ。本人がきちんと『対価』だと言っているなら、妙なことにもならないだろう。


「なるほどな、じゃあ貰おう」

「はいっ!!」

「いい頃合いだ。食べようぜ」

「はいっ!!」


 そう言うと、女が豪快に魚にかぶり付くので、俺もそれに習った。


「美味いか?」

「はいっ!! 初めて食べましたけど美味しいです!!」

「そりゃ良かった」


 熱心に魚をかじる姿を見ても、精霊だか悪魔だか知らないが、悪いやつでもなさそうだ。焚き火がはぜる音を聞きながら、横で美味そうに食べる奴を見て少し笑ってしまった。

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