Consecutive 3 変わり者
目が覚めると、僕は樹の下で一人立ち尽くしていた。…いや、目が覚めるというのは違う。何故なら、僕は夢の中にいるからだ。なので改めて言い直すと、夢に入ると木の下に立っていた、というのが正しいのだろう。
そう、不思議な事に僕は夢の中で、夢であると強く認識出来ているのだ。あの化物に追い回されて疲れていたんだろうか……とんでもない出来事だった。今思い出しても寒気と震えがするくらいだ。
だけど、そんな震えもすぐに収まる。ここは暖かな太陽に照らされているようで、吹く風もとても穏やかだ。撫でるような風に落ち着きを覚えながら、草に覆われた地面に腰を下ろして、樹を見上げる。
ここは何処なんだろう。見覚えが無いのに、目の前のものに何故か既視感を感じている。理由もなく、これはずっと昔からここにあったのだという気さえしてくる。テレビか何かで一度見た事があったんだろうか。
でも、全然記憶にない。ないのに、どうして懐かしさまで覚えるんだろう。
樹は枝に林檎のような果実が成っている。赤いのもあれば青りんごのようなのもあり、色とりどりのまさに七色の果実が成る樹だ。こんな植物が生えている辺り、やっぱり夢なのだろうという実感は強くなる。
ふと興味を覚えて、立ち上がって果実を枝からもぎり取ってみる。すると取った端から同じ色の果実が急速に成長して、瞬く間に手に持ったものと同じものが成った。どんな理屈なんだろうと一瞬考えたけど、ここは夢の中。現実と同じ仕組みでなくても何の不思議はないし、むしろ違って当然なのかもしれない。
僕が手に取ったのは真ん丸に育った赤い果実。色艶はよく何処からか降ってくる日の光を浴びて照り返していて、少し甘い匂いがする。おいしそうだ。特に好物というワケじゃないけど、口にすればとてもおいしいかもしれない。
少しかじってみようと口を開けようとすると、果実が微かに光を帯び始めた。いや、これは……何かが映っている? 少し驚いたけど、改めて果実の中を見るように覗き込んでみると……
『お父さん! ほら、あれ!』
何故か聞き覚えのある声が、果実を通して聞こえてくる。映像はどうやら、背の高い大人の手を、小さな手で掴んでいる子供の視線のようだ。視線がその大人から、高いところから見下ろした、ミニチュアのような街並みと隣り合う海岸が映る。子供はどうやら、海の上に浮かぶ船を見ているようだ。煙突を付けた客船は煙を上げて、港に接岸するところに見える。結構豪華な船みたいで、近隣の建物と比較しても結構大きい。
………ああ、今度こそ見覚えがある。これは僕が父さんに連れられて、海のある所にドライブに連れてってもらった時の記憶だ。小学生の頃だろうか、海を見たいと父親に言った時に、日帰りでちょっと遠くまで出かけたんだっけか。いつも世話になってる親戚のお土産も買って、一通り観光していったけど、帰りは疲れて眠っちゃったんだっけな。
(そっか。ここは、僕の夢の中なんだ)
それもただの夢じゃない。僕の心の中を映した夢なんだ。その事実を心の中で確かめてから、この穏やかで静かな場所を自分が作り出した事に、正直驚きを隠せなかった。でも、そうか、僕が僕自身に居心地の良い場所を作るとしたら……きっとこんな場所になるんだろうな。
やけにはっきりとした夢の中で文字通り自分自身に納得しながら、果実から見える思い出に微笑みが浮かぶ。子供の僕に懐かしさとくすぐったさを感じながら、気が済むまで自分の記憶を眺め続けた。
ある日突然、自分が普通とは違う何らかの力に目覚めたとしたらどう思うのだろうか。そんなテーマの漫画や累計すればそれなりの数にはなるとは思う。
由来はともかく他と違う、特別な力に憧れるのは男であれば誰でも覚えがあるんじゃないだろうか。その力を使って何をしたいのかは、人によるとは思うけど。
勿論僕にも憧れている頃はあった。物語の中の主人公たちが勇敢に敵へと立ち向かう姿には感銘を受けたものだ。
しかし現実はどうだろうか。今の僕にとって『目覚め』てしまった“力”というのは、厄介事を引き起こす厄災の種でしかない。平穏無事に暮らしたい人にとっては、こんな“力”は邪魔でしかないのだ。
「勇輔のはなかなか応用力が高いな。大抵のことは出来るって感じだ」
太陽がほぼ沈みかけてもうすぐ夜になるという時間まで二人で試行錯誤を続けた結果、僕が身に付けた力は単純に、想像したとおりのものになると幸司は言う。
単純に光の弾を飛ばすものから、攻撃を防ぐ盾を作ったり、何かをくっける事まで可能みたいだ。ただ、くっつける際にはものをきちんと認識していないとダメらしい。その辺から、幸司は想像をそのまま形にすると判断したみたいだ。
「シンプルなだけに色んな事が出来るのは、俺としては羨ましい限りだ。それでも制限はあるだろうけど、手足の延長にもなるってのは便利そうだ」
「うん…まあ、自分に身に付いたものがなんなのか分かっただけでも収穫かな」
正直に言うと、こういう特殊な能力は欲しいわけじゃなかったんだけど……なんだか楽しそうな幸司に水を差すような事を言うのも悪いので、なるべく前向きな返答を返す。向こうが苦笑を返してきたのを見ると、表情までは取り繕えなかったみたいだ……こういう時は正直すぎる自分がちょっと嫌だ。
「対処法があるとないじゃ全然違うから、一先ずは安心ってとこだな。それでもヤバい時は、呼んでくれりゃ飛んでくよ」
「今後そういった事が無ければ一番かな……まだなんとも言えないね」
あの化物が見えるのは、幸司や僕のように今のところ由来不明の力を持っている人だけだ。ただ現時点で二人もいるなら、恐らく他にも『目覚め』ている人はいるんじゃないだろうか?
練習をしている間に聞いたけど、幸司が今の力を使えるようになったのは中学の頃だと言っていた。なら、似たような境遇の人はいてもおかしくはない。
「幸司は、他にも『目覚め』たのがいると思う?」
返事は予想できるけど、確認も含めてどう思っているのか聞いてみると、顎に手を当てて考え込んだ。
「んー。いるとは思うさ、ただ、いてもコンタクトが取れるかどうかは分からんな。普通は隠すだろうし」
想像よりは冷静な答えを述べる幸司に、少し驚きつつも尤もな内容に僕は頷く。僕だって面倒に巻き込まれたくないし、余程の事が無ければ誰にも言わないつもりではある。他の人もその辺りは変わらないだろう。なら、その人に何事も無ければそれでいい。
「正直よく分からん事ばっかりだし、情報を集めて推論をより確かなものにしたいのはある。だけど積極的に巻き込むつもりもないし、そっとしておいてほしいのもいたりするかもだしな」
触らぬ神に祟りなしだ、と幸司は締め括る。
ここまでの言葉を聞いている限り、幸司にとって僕との出会いはある意味で幸運ではあったんだろうし、僕自身も安心しているところはある。ただ解せないのは、彼が身の危険を冒してパトロールをしているというところだ。無論自身の推測に基づく行動ではあるんだろうけど、正義感が強い、というのとはちょっと違う気がする。
(……いや、今はその疑問はいいか)
今は彼に助けてもらった事、教えてもらった事に感謝するだけでいい。協力関係が続くのなら、いつか彼の口から説明されるかもしれないし。
「そうだ、これから僕も幸司のパトロールに付き合うよ」
“力”を使う練習をしながら考えていた事を口に出すと、幸司はかなり驚いた様子を見せた。僕が申し出てくるとは思ってなかったんだろうというのは、かなりオーバーな反応から察せる。
「やめとけって。もしかしたら大怪我じゃ済まないかもしんねーぞ」
一転して真面目な表情になり、語気も強めに幸司が忠告してくる。
確かに、あの化物から漂ってきた敵意のようなものは、肌が逆立つくらいに怖気の走るものだった。今にしてみれば、無事だった事が奇跡的にも思えるほどだ。出来る事なら二度と関わりたくない。元々喧嘩だとか荒事は苦手だし、軽い気持ちで踏み出せば後悔するのは分かり切っている。
でも、それを幸司はいつもやっていたのだ。理由は知らないけど、何の為かは分からないけど、身体を張って戦っていたんだ。
「幸司だって、怪我どころじゃ済まないかもしれないよ。それにもう、僕には見て見ぬ振りなんて出来ない」
正義感とか、大それた理由じゃない。義務感でもない。ただ、ある日幸司を見かけなくなってしまったら、携帯に連絡を入れても反応が無くなってしまったら……僕はきっと後悔する。
その場限りの勢いじゃない、真面目な答えだと思ってくれたのか、幸司は言いかけた言葉を飲み込んで、眉を寄せながらしばらく沈黙した。僕も黙って彼からの返答を待つ。
これで駄目だ、と言われたら僕は引き下がるしかない。口振りから向こうはある程度は戦い慣れているんだろうけど、僕が足を引っ張って余計に危険になる可能性だって否定は出来ないし……。
「一人の状態で襲われるよりはマシか。どっちにしろ一度は実戦を経験した方が対策も建てやすいな」
呟くように言って、幸司は頷く。考えは纏まったようだ。
「明日も同じ時間に集合な。ヤバいと思ったら俺を見捨てて逃げてもいい。あと、無理だけはするなよ」
「足手まといになりたいワケじゃないから、そうするよ。でも、出来れば逃げる時は一緒がいいね」
冗談のつもりで言ったわけじゃないけど、幸司は僕の台詞に笑う。
かくして僕は自ら望んで危険に立ち向かう決意をしたワケだけど……覚悟を決めたはずなのに、やっぱり怖い。幸司は怖くないんだろうか? あるいは、恐怖を押し込めるだけの意思力があるのかもしれない。
幸司があえて戦う理由を、いつか聞ける日が来るのだろうか。彼と出会って二日目だけど、色んな意味で末永く付き合っていきたいものだ。
「さ、本格的に暗くなって周囲が見えなくなる前に帰るぞ。舐めてかかるとこの程度の林でも迷うし」
空は既に星が見えかけている。林の中には既に太陽の光が届いているはずもなく、夜の様相を見せていてちょっとだけ不気味だ。人の気配がしないのはいいけど、なんとなくおっかない。
共に並び立ち、互いに歩調を合わせて、他愛のない会話をしながら小川のある秘密の場所を後にする。
学校での僕はひたすらに地味だ。学力に関しては進学校であるここに推薦入学が出来る程度ではあったけど、以後も学費を免除してもらえるだけの成績を上げなければいけない。その為に半ばノルマのように勉強は欠かしていないので、少なくとも低くはないという自負はある。運動はどちらかと言うと不得意な方ではあるものの、極端に苦手というワケでもない。
成績とはまた別に周囲に馴染むつもりはなかったので、一人で教科書や参考書を眺めている時間はかなり多い。現に昼休みもこうして教科書を読むなどして暇を潰している。僕自身勉学自体は嫌いでもなかったし、少しずつ身に着けたものが試験での結果に出るとなかなか嬉しいものだ。父親曰く「社会に出ても勉強はし続けるし、学生のうちに慣れといた方がいいっちゃいい」との事なので、自分の勉強のスタイルの改定を繰り返している。
ただ同様に、「高校生活はある種の社会勉強でもあるから、コミュニケーションの取り方とコネクションの作り方も憶えた方がいい」とも父は言っていた。それを忘れてたわけじゃないんだけど、僕自身はそれを億劫がっていたのは否定できない。幸司とは思いがけない出会いだったし、それに彼自身も何となく付き合い易い雰囲気もあって普通に喋れるんだけど……自分から機会を求めるとなると、僕はどうにも小心者になってしまうようだ。
ただ、能動的になるだけの理由なら最近は出来た。僕や幸司と同じように、『目覚め』た人を見つけたいという欲求だ。つい最近力が使えるようになった自分のような存在は他にいるのか、あるいは幸司のように目覚めた力を隠して生活しているのか、その事実を確認してみたい好奇心は少なからずある。
(でも、普通に考えればそんな力は隠しておきたいよなあ)
力がある事を公言すればまず周囲から奇異の目で見られる事になるし、下手すれば化物扱いされかねない。少なくとも僕と幸司が持っているものは言うなれば見えない銃みたいなものだ。扱い方を間違えれば、本当に人を傷付けかねないものだし、僕だって望んで身に着けたわけでもない。可能なら今すぐにでも捨てたい。
(……つまり、そういう事だよね)
やっぱり、積極的に探そうとはしない方がいいな、という結論に至る。何事も無ければそれが一番だ。僕のように化物に襲われたとかでもなければ、例え『目覚め』ているのが分かったとしても距離を置いた方がお互いの為になるはず。
ただ気になるのが、アレは人が多い場所に現れると幸司が言っていた傾向だ。学校も規模にはよるけど、一時的に人口が密集するという条件は満たしている。
(一応、昼休みだけでも散歩ついでに見て回るかな)
無論あんなものは現れない方がいいけど、万が一現れた場合に出てくる条件のようなものが絞れるかもしれない。それに何より、勉強ばかりしているよりは、何かしら刺激を受けた方が自分の為だろう。
考え事をしながら読んでいた教科書を机の中に仕舞って、気分転換がてらに教室の外へと散策を始めた。
僕のいる学校は、地方でも上から数えた方が早いほど有名な進学校だ。俗に言う偏差値の高いところで、僕が推薦を受けるにもだいぶ苦労はさせられた。今のところ、僕の人生の中であれほど猛勉強したのは中学三年生になってからの半年間……あの時はゲームなんてやっている暇も無く、言葉通り寝ても覚めても勉強だった。夢の中でも勉強していたくらい頭がいっぱいで、時折父親の食事すら作り忘れるほどに集中していた。協力してくれた父親にはいくら感謝しても足りないくらいだ。
そんなハードルの高いこの学校はスポーツにおいても妥協は無く、二階の廊下から見える校庭では走り込んでいる人もいる。勿論僕のように散歩をしていたり、あるいは要所に置かれたベンチや数段ある階段に腰を下ろし、友人と雑談をしている人もいたりと、思い思いの昼休みを過ごしている。控えめながら校舎の何処かからピアノの音なども聞こえてきて、何かと物事に打ち込んでいる人がそれなりにいるようだ。
一見、平和にしか見えない光景。僕が恐れる化物なんて影も形も感じない。この間の事が嘘か幻だったのかと思うくらいだ。
(でも、そうでもないのかな)
表面上は特筆するような事が起きていなくても、水面下では何が起こっているのか分からない。事実、僕は平和にしか見えずそうとしか思えない場所で襲われたのだ。だったら先入観というか、固定観念は無くすべきだろう。とはいえ、常に気を張り続けるのも疲れる。
とりあえず今は何か起きてから対処するしかないんだし、日々の生活をする上で頭の片隅に留めておく、というのが最善だろう。
(……それにしても、あの化物が現れる条件って何なんだろう。予兆だけでも感じ取れないものかな)
僕が持つ能力というのも、一先ず想像を形にするだけのものだというのは分かったのだけど。これが超能力という括りであるなら、様々な種類が存在するかもしれない。
先日幸司に超能力と言った時、少し微妙な顔をしていたのを思い出す。後になって調べてみれば、確かに僕らが持っているものを超能力というのは、何となく違う気がする。気がするだけで、確証はないんだけど……だからと言って魔法とか言うのもやっぱり違う。それなら超能力の方がまだ近いし……。
「………っと」
考え事をしている間に廊下の曲がり角、そして上下に繋がる階段が目の前まで辿り着いていた。上の階は二年生、三年生の教室がある。理科室といった特別教室もあるけど、用事が無い身で足を運ぶのは流石に勇気がいる。なので、下の階に降りようと思ったんだ刹那、耳に小さくピアノの旋律が聞こえてくる。先程から断続的に聞こえてきたものが連続したものとして耳に届くと、全く印象が違ってくる。
クラシックだろうか。それとも最近の曲だろうか。テレビを使う時は気分転換にゲームをやるくらいだし、こっちに引っ越してきてからはむしろテレビの電源すら入れなくなって久しいのでニュースすら見ていないから、流行には全く疎い。ただここまで届くメロディはどうしてか、興味を惹かれる。
音域にあまり高低差が無い、リズムの緩やかな曲。聴いていると眠くなる、というほどではないけど落ち着いた感じの曲調だ。
(……音楽室へは、上級生の教科書の前を通らなかったな)
尤も、ピアノが弾いている人が同学年とは限らないけど。ただ普段も耳には入っていた音楽が、何故だか今日は気になった。勉強に集中していて、意識を傾ける事がなかったからだろうか?
もっと傍で聞けば分かるかもしれない、なんていうのはたぶん建前で。自分でも理由が分からないまま、引き寄せられるように階段に足を掛けた。
最後に音楽にじっくりと耳を傾けたのはいつだろうか。むしろ記憶に残っていない分、無いのかもしれない。
音楽室の引き戸は僅かに開いている。どうやらそのせいで音が漏れ出ていたようで、中で演奏している人にも外側の喧騒は聞こえていると思うけど……集中しているのか、ピアノの音が鳴り止む気配は無い。
教室の前に突っ立っているのも怪しいし、立ち聞きも不作法だと思ったので音を立てないように扉を開けて、中にお邪魔する。その際しっかりと閉めたのを確認してから、部屋の隅の方にあるピアノの様子を窺ってみる。
黒色の、いわゆるグランドピアノと呼ばれているものだろうか。蓋が開けられていて、他の教室では見られない凹凸が特徴的な天井がピアノの音を良く響かせていた。
今も小波のように緩やかな旋律が響いている。目を閉じたらそのまま眠ってしまいそうな、だけどはっきりと聞こえる音色。人間の指がこんなものを作り出しているのだと思うと、なんだか不思議な気分だ。
(なんだか、魔法みたいだな)
楽器を演奏するというのは立派な技術で、習熟すれば誰にだって再現できる。なら、例えば僕が同等の技量を持っていたとして、同じものを奏でられると言ったらそれはノーと即答できる。同じ曲でも演奏者によって受け取るイメージが違うのが、音楽というものなのかもしれない……ただ僕は全くのド素人なので、そんな気がするという印象を持っただけなんだろうけど。
どんな人が演奏しているんだろう、と気になってピアノの蓋の後ろ側に隠れた演奏者を確認する為、覗き込むようにゆっくりと歩を進める。
第一印象は、絵に描いたようなお嬢様。黒い長髪はシュシュというやつだろうか、それを使って首筋の後ろ辺りでまとめられている。覗き込んだ横顔が節目がちに見えるのは、鍵盤を見下ろしているからだろう。楽譜も置いてあるけど、それを見ながら演奏している様子はない。頭の中に出すべき音が記憶されているんだろう。
ふと、僕が見ていた女子生徒の視線が鍵盤からこちらに移った。不意に見られて少し驚いたけど、彼女は一瞥するだけで構わずピアノを弾き続ける。声をかけようかと思ったけど、とりあえず彼女の演奏が終わるまで待とうと少し離れた椅子の下に腰を下ろした。
数分も待たずに、ピアノから響く音が途絶える。曲が終わったのだろう、彼女の楽譜の束の角を合わせる仕草を見ながら、僕も席から立ち上がる。
「えっと、ごめん。ピアノの音が聴こえてきたから」
「あら、ドアが開きっぱなしになってたのかしら」
聴かれたくなかったかもしれない、と思っていたらどうしようかと思いつつ謝ってみると、彼女は大して気にも留めてないのか素っ気無く僕の言葉に返す。
「別にいいけど。音楽は人に聴かせる為のものだし」
楽譜を片手に持ちながら、髪を纏めていたものを外して頭を振る。
改めて見た演奏者の女子生徒は、一言で言えば美人と表せる。長いまつ毛に真っ直ぐに通った鼻筋、白い肌に桜色の唇。身長は僕より若干低い程度だろうか。少し気怠そうな表情から嫌悪ではないけど、僕の存在に疑問を持っているんだろうか?
「あなた、吹奏楽部の子?」
「いや、違うけど。何というか、演奏に引き寄せられたというか」
投げかけられた質問と恐らく疑問に思っている部分に答えを返すと、彼女はほんの少しだけ笑った。
「口説くなら、もうちょっとマシな文句を言いなさいな」
「待った。そういうつもりじゃないって」
「じゃあどんなつもりだったの?」
「もうちょっと近くで演奏を聴きたいなって」
若干からかうような言葉に、誤解を与えないように正直に薄情すれば彼女は口元を隠しながら笑う。……訂正しよう。僕をからかってるんだな、この人は。
「ふふ。なるほどねぇ、下心はないって事?」
「あえて下心って言うなら、それだけだし」
「あなた、正直者ってよく言われない?」
「嘘をつくよりはマシだと思ってるよ」
彼女は僕を弄んで楽しみたいんだろうか。不快というワケじゃないけど、なんだか手玉に取られているようで少し悔しい。なので、彼女との応答にしかめっ面をしていたかもしれない。相変わらず上品に笑っているけど、僕で遊んでいるというのはいただけない。そして僕自身悪い気がしていないのが、なんだかちょっと悔しかった。
「私は
見た目通りの上品な言葉遣いで、僕の名前を訊ねながら彼女は名乗る。見たままのお嬢様なのかな……ただ立つだけの姿勢や仕草にも品があって、例えるなら創作の中から出てきたお手本のようなお姫様。名前までそれっぽいし、本当にそうなのかもしれない。
「弥六路勇輔。里條さんは、吹奏楽部……じゃないよね。僕に聞いてきたし」
「ええ。気慰みにピアノを弾いていただけよ。まさか観客が来るなんて思わなかったけど」
「……根に持ってる?」
「あなたの反応が楽しいから、ついね」
「意地が悪い人だ。全く」
何を喋っても弄られるな、と思うと偽らざる本音が口をつく。里條さんは僕が言う前に言われる事が分かっていたのか、苦情を寄せられても尚楽しそうにしている。
「ごめんなさい。気を悪くしたかしら?」
「不愉快だけど、僕がもっと頭が回れば言い返せるから。勉強代と思って我慢してますよ」
「あら」
自嘲と皮肉を混ぜた返しを聞いて、彼女はやや大袈裟に仰け反る。ピアノを弾いていた時の様子と、そしてその直後の反応と印象が違って面食らってるのはこっちだというのに。
幸司とも違う、それも異性の里條さんは相手にし難い、とは感じない。むしろ悪戯好きで人をからかうのが趣味なのか、と思うくらい気安く冗談を言ってくる。人懐こささえ覚えるけど、それだけに最初のやや冷たい反応が気になった。
よく考えなくても僕と彼女は出会ったばかりだし、むしろ多少は警戒して当然だろう。僕だって知らない人が近くに来れば、ちょっと身構えるくらいはするし。
「じゃあ、もっと楽しい話をしましょう。あなたのご趣味は?」
冗談半分なのか素なのか分からないような……いや、たぶん前者であろう質問の仕方に苦笑して、僕からも上手く返せるようにと思考を巡らせる。
「なんだかお見合いの時みたいな言い回しだね。特に無いけど」
「ここに来たのは、音楽が好きだからってわけではないのね。むしろ、趣味を探しに来たのかしら?」
「……あながち間違いじゃないかな。今のところ、何かに打ち込んだ事は無かったし」
例の化物がいないか見回りしていた、なんて言っても頭の中身を心配されるだけだろう。今言った事も半分は本当だ。
「里條さんはピアノが趣味なの?」
「趣味ではないけど、趣味にしようかしら。音楽って聞かせてこそ意味があるものでしょう?」
「どうだろう。でも、人に聴かせて楽しいって人はいると思う」
歌手やバンドは自分の、あるいは自分たちの曲を聴かせる為に活動しているんだろうし、的外れではないはず。
ただ、里條さんの言い回しは引っかかる。趣味だからピアノを弾けるというわけじゃない、というニュアンスに受け取れる。お嬢様っぽいし、習い事をさせられて覚えたのかもしれない。
「じゃあ、明日からよろしくお願いするわ」
「……うん?」
急に頼まれて、僕は思わず生返事を返す。
「言葉が足りなかったかしら。今後昼休みにピアノを弾きに来るから、またここに来てほしいの」
「いいけど……音楽に明るいワケじゃないから、大した感想は言えないよ?」
「構わないわ。理由が欲しいだけだもの」
聴くだけでいい、と彼女は言いながら笑う。つまり僕とお喋りする為だけにここに来るのだという風に聞こえるけど……いいのかなあ。
正直に言えば彼女は気品のある美人で、高根の花という言葉そのものと言ってしまっても違和感が無い。見た目だけならば近寄り難いけど、ちょっと意地の悪いところは親近感を覚えなくもない。
ただ、僕とは今日会ったばかりだ。僕自身は悪い事をするつもりはないし、里條さんも迂闊な人ではないだろうし、そう考えれば特に問題無いと言える。
「里條さんって変わってるね」
素直に彼女に対して浮かんだ感想を言うと、里條さんは不思議そうな顔をして首を傾げる。頬に人差し指を当てて考え込むような仕草をしてみせるけど、僕の言った事が余程不思議だったらしい。自分にとっての当たり前が他の人にとってはそうじゃない場合もある……この理屈で言うと僕にも特異な点があるのかもしれないけど。友達を作るでもなく一人でいたのだから、僕も変わり者に数えてもいいかもしれない……なんか悲しい理由だな、これ。
「それは誉め言葉として受け取っていいのかしら?」
「褒めても貶してもいないからなんとも」
「なら返事は保留にしておきます。理解できずに悲しむのも怒るのも、私自身が納得できませんから」
「お手柔らかに、ね」
もし怒りに触れた時は一日中弄られるどころの話じゃなくなりそうだ。一先ず彼女は笑顔でいるけど、敵対する相手には容赦の無いタイプに見えなくもない……気を付けよう。
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