第2話 寿司屋のバイト、ダメダメな俺。

 

 渡辺はバイト先の阿佐ヶ谷パールセンターの中ある寿司屋へ向かっていた。

 

 夜十時近くにも関わらず、商店街にはまだ沢山人が歩いている。

 阿佐ヶ谷の街中は飲み屋が羅列しており、呑兵衛達を避けながら、いつも通り寿司屋の裏口に入っていった。


「おはようございます」

「はよー!」


 目の前には山中やまなかハルカがいた。黒いパーカーをよく着ている、ちょいヤンキーの可愛い子である。そうか、今日はシフトの日だったんだと、渡辺は先程の憂鬱が嘘のように吹っ飛び、顔が緩んだ。


「今日もがんばろー!」


 にっと山中は渡辺にきらびやかな笑顔を向けた。

 

 渡辺は山中に対して好意があるが、彼女の見た目からして彼氏がいそうな雰囲気で、自分なんて相手にしないだろうと、諦めている部分と笑顔で返してくれるし、脈ありの可能性はゼロではないかも、と前向きな部分が交錯していた。


「おはよう渡辺君」

 

 大将の弟子のはたけがのれんを潜り、渡辺に挨拶をした。渡辺は少し声を整えて、


「おはようございます」


と言った。


「おう、おはよう」

 

 その次に大将が来た。創業四十年の寿司屋を守ってきた、貫禄のある方だ。


 よく大将に怒られる渡辺は、尚更声を整えて挨拶をした。それを見ていた山中がくすくす笑っている。


「相変わらずびくびくしすぎだって」


 渡辺はそのつもりはなかったが、端から見ればそう映ってしまうぐらい、無意識にビクビクしていた。


「大丈夫。今日、里田さとださんいないし、私が教えてあげる。」


 里田さんとは、此処の寿司屋で十年程ホールで働いているおばさんのことだ。渡辺はその人のことが苦手だった。

 

 里田は一度教えたら間違ってはいけないという考えの人で、物覚えの悪い渡辺はかなり怒られていた。


「馬鹿ねえ」を口癖のように言われており、気になっている山中の前で何度も言われた時は、怒りと恥ずかしさで死にたくなったこともある。

しかし、人のことを悪く言うのは印象が悪いと思った渡辺は、


「いや、別に気にしてないよ」


 と気にしていない風を装った。


 ◆

一人目の客は三十代くらいのサラリーマンだった。

「いらっしゃいませ」と山中が言い、席を案内する。渡辺はお茶を淹れ、カウンターに座る客に出す。

客が「とりあえず、日本酒で」と言ったので、渡辺は升の中にグラスを置き、少し溢れるぐらいまで注ぎ、客に出す。

 

 渡辺は一人で寿司屋ってなんか格好いいなとボーッと見ていると、大将に「しじみの味噌汁!」と大きな声で言われてしまった。どうやらいつの間にかオーダーが入ったらしい。

渡辺は急いでキッチンへ向かい、しじみと元から作ってある味噌汁を出し、それを沸かした。

山中はその間、ゴミ捨てに行っており、キッチンには渡辺一人だけだった。


大将が次に「フグ酒!」とオーダーを言ってきた。

渡辺はフグ酒の作り方が全く分からず、パニックになった。そんなメニューがあったのかさえ分からない。取り敢えず、「はい!」と大きな返事だけしておいた。しかし、この後どうするかサッパリだったため、裏口にいる山中に助けを求めた。


「ごめん山中さん!フグ酒ってどう作るの?」

「へ?知らないの?里田さんに教わんなかった?」


 実は里田さんに教わろうと聞いてみたものの、忙しいから後でと言われてしまい、時間を置いて聞いてみるも、忙しいの一点張りで聞くのを諦めてしまっていた。


 申し訳ないと思いつつも、教えてもらうよう懇願した。山中は少しめんどくさそうな顔をしつつも、


「里田さん、めんどくさがって教えてくれなかったんでしょ。分かった。待ってて」


 やはりこの人は優しい。と渡辺は山中に対して更に惚れてしまっていた。


 山中は厨房に戻り、冷蔵庫からフグのヒレを出し、網で炙り、水分を飛ばしてカリカリになったら日本酒を熱燗にし、ヒレを入れた。


 大将は網での炙りに厳しく、毎回ヒレのチェックをする。


「大将お願いします。」

「はい…OK」


 大将にOKを貰った山中はそのまま熱燗にヒレを入れ、客に提供した。


 渡辺は作り方をメモに一生懸命書いていた時、山中が厨房へ戻ってきた。


「渡辺くん、手が空いてるなら洗い物してよ~」

 

 メモ書きに夢中になっていた為、

「ごめん書いてて」と言うと、


「えー渡辺君、あれぐらい頭で覚えようよ」


 と低い声で言った。渡辺は少し傷つきながらも、ごめんと言う。


「フグ酒!」

 

 大将の声が響く。また注文が入った。


「ほら渡辺君もやってみ?」

 

 先程の声より明るく戻ったので、渡辺は安堵しつつも、カッコ悪い姿は見せないよう、急いで作ろうとした。


「お、俺作るよ」

「えっ大丈夫?ちょっと落ち着きな」

 

 渡辺は名誉挽回のため、急いでグラスを用意した。

 しかし、余りにも焦ったせいで、グラスを台の上にのせようとした時、手が滑り、台の上にコロコロと弧を描くように

 

 ガシャン

 

 と音をたてて床に落ちてしまった。


「ご、ごめんなさい…」

「あーマジ?」

 

 山中さんは、はあ、と大きいため息を着いた。

 渡辺は「本当にごめんなさい」と謝るしかなかった。


「グラス、他のあるからそれに注ごうか。後、謝るなら大将に謝った方がいいかもよ」

 

 山中は怒っているのかそうでないのか分からない中間の高さの声でそう言った。


 さすがの渡辺でも気になっている女の子が呆れているということは分かった為、顔がみるみる赤くなり、いたたまれない気持ちで一杯だった。さすがに今度はゆっくりグラスを出し、慎重に日本酒を注いだ。


「そう、そう。ゆっくりでいいからさ」

 

 山中はやっといつもの声に戻った。それに心を取り戻した渡辺は何とかヒレ酒を作った。


 ◆

 

 その後接客、掃除、調理、電話対応をいつもの様に何とかこなしていたら、夜の十二時を回っていた。締めの作業の前、山中が気づく。


「あれの件、大将に言った?」

「いや、まだだよ」

「今言った方がいいよ」


 今日はいつもより客が来て忙しかった為に、すっかり忘れていた渡辺は、急いで大将にグラスを割ってしまったことについて謝りに行った。


「はぁ…」


 大将は大きなため息を着いた。


「これで何度目なの」

「ごめんなさい」

「まあ一生懸命なのは伝わるけど…」


 渡辺はいつも凡ミスを連発する。その原因はいじめられた経験により、何かをする時、人の目や期待を凄く気にする様になり、極度に緊張してしまうからだった。

 ヒレ酒についても、もし出来なかったら、山中や大将に怒られるという恐怖が彼を更に不器用にしていた。


 しかし山中や大将はそんな事情なんて知らず、二人はお互いに目を合わせ、苦笑いをしながら呆れていたのだった。

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