第6話 朝の出来事


「おはようございまーす」

ガラガラと教室の扉を開けて、思わず大きな声で挨拶をする。近頃は楽しいことがたくさんあったので、りなの気分は上向きだった。ふだんは学校で話すことがほとんどないため、授業中以外でりなが口を開くことはほとんどなかった。そのりなが、ごく普通に挨拶をして教室に入ってきたので、何人かのクラスメートがおしゃべりをやめてこちらを驚いた様子で見た。しかし、誰一人挨拶を返してくれる人はいなかった。複数の視線を感じて、いそいそと自分の席へ向かうりなの前を笹井くんが通り過ぎた。

「おはよ!」

さりげなく挨拶を返してくれた。それでもみんなの視線が気になって、りなは大きく見開いた目を一瞬笹井くんに向けただけで席についた。

(せっかく挨拶してくれたのに)

うまく返せなかったことへの後悔の念もあったが、それ以上に周囲の視線がひしひしと心に刺さる。

(こうゆうの慣れてるはずなのに、やっぱり悲しい。どうして? 挨拶しただけなのに、みんな無言でこっちを見るの?)

挨拶というごく自然な行為に対して向けられた、周囲の冷たい眼差しに、自分がクラスで置かれている立場をまざまざと突き付けられたような気がした。目頭がつんと熱くなるのを感じて、りなは急いで下を向いた。



◇◇◇

「よっ!」

帰り道、トボトボとリュックサックを背に歩くりなに、後ろから声がかかった。振り向くとやっぱり笹井くんだった。ミーンミーンという暑苦しいセミのオーケストラをものともしないような、爽やかで自然な笑顔だった。

(ポカリスエットのCMに出れそう)とりなは思った、

「元気?」

りなの横に並んで歩きながら、笹井くんが気づかう。

「うん、まあ……」

気にかけてくれて嬉しかったけれど、りなは笹井くんの方に顔を向けることができず、地面を見つめたままだった。今朝みたいに、目頭がつーんとなるといけないから。やっぱり、今朝の出来事はさすがに堪えたようだった。

「全然、元気ないじゃん。お祭りの時と大違いだよ」

「うん、ちょっと夏バテ」

「今朝のことだろ?」

笹井くんがりなの瞳を横からのぞきこんだ。髪の隙間から見えた笹井くんの目は、とても優しくて、心配そうに見えた。その眼差しが、すごく心に染みた。気にかけてくれた人がいたんだ……今朝と違って目頭ではなくて、胸の奥がつーんと熱くなった。ちょっとこそばゆくて、でも何かに包まれるような安心感がそこにはある。

 りはな顔をあげて笹井くんを見た。目があった。少しうるうるしていたかもしれない。

「うん、そうなの」

「そうだよな」

笹井くんが何とも言えない悲しそうな表情をして、顔をゆがめた。一筋の涙が、りなの頰をつたった。

「俺、ずっと気にしてたんだ。影島さんのこと」

「そうなの?」

今度はりなが笹井くんの瞳をのぞき込む。笹井くんは、海外線から視線を逸らさない。海沿いの一本道を歩いていると、二人はいつの間にか海にたどり着いていた。赤いベンチがあったので、そこに腰掛けることにする。

「うん、けっこう寂しそうにしてる時あるからさ」

「あ、やっぱり?」りなが肩をすくめる。

「でも、影島さんはそのままで良いよ。おもしろいし、べつに悪いことしてないじゃん。気にすんなって今朝のことも」

「でも、独り言ブツブツ言う癖は治さなきゃ。変な人みたい」

「大丈夫だよ」

笹井くんは、地平線に沈みかけた太陽を見つめ続けている。太陽の光に反射して、オレンジ色になった水面がキラキラと輝いている。遠くでカモメが鳴いている。

(今日の太陽は明るいな)なんて脈略のないことを考えていると、心臓がまたホッカイロのようにポカポカ暖かくなるのを感じた。ちょっとドキドキする。でも今朝みたいに胸が痛くなったりしない。その代わり、少しソワソワする。もう一度、視線を笹井くんに戻した。やっぱり爽やかなイメージだなあ。

「ね、笹井くん、ポカリスエット好き?」

「え、ポカリスエット?」

少し面食らった感じで笹井くんが自然な笑顔をこちらに向ける。少しニコニコしている。

「うん、だってさ、笹井くんってポカリスエットのCMに出てきそうな人だもん。」

「どんな人だよー」

「爽やかってこと。汗とか、全然かかなさそう!」

「じゃ、汗臭くなることはないってことだな」

あはは、とりなは手をたたいて笑った。

「あそこに自動販売機があるよ。ポカリ買ってくるね。一緒に飲もう?」

そう言ってりなは、軽やかに自販機の方へと走って行った。二人分のポカリスエットを手に戻ってきたりなは、一本を笹井くんに手渡し、二人で海を見ながらそれを飲んだ。

「ああ、青春って感じ。学校帰りに誰かとお茶するなんて、初めて」

「まあ、ポカリだけどな。」

「あ、そうだった」

きゃはは、とりなのかわいらしい笑い声が響く。脚をぶらぶらさせるりなに、「元気になった?」と笹井くん。安心したような、優しい表情だった。

「うん、ありがとう」

りなはすっかり笹井くんに気を許していた。例のゴブリンのことを、笹井くんになら、打ち明けても良い気がする。

「ねえ」りながゆっくりと言葉を紡ぐ。

「うん?」笹井くんの視線がこちらに向けられる。

「今から言うことはぜったいにひみつにしてくれる? 信じられないことかもしれないけれど、笹井くんには知ってほしいの」

「うん、どうした?」

「私ね、ここでゴブリンを見たの」

「ゴ、ゴブリン?」

「知ってる?ハリーポッターに出てくるキャラクター」

「ああ、耳が長いやつ?」

「そう!」わかってくれたことが相当嬉しかったのか、りなは満面の笑みで瞳をキラキラさせながら笹井くんを見た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る