第5話 バレンタインおじさん


 昨日の出来事を反芻しながら帰路につき、モゴモゴと「ただいま」と言って、家のドアを開けた。扉を開けると、なにやらプーンと甘いにおいが漂ってきた。

「お〜りなか。今アップルパイが焼けたところじゃ、早く食べにおいで」と田賀谷のおじいちゃんが手招きした。相変わらず、アロハシャツに半ズボンというハワイから飛んできたような出立ちだ。ポケットにサングラスを差し込むのがポイントだそうだ。


田賀谷のおじいちゃん、通称タガジイは、近所のおじいちゃんだ。陽気でおしゃべり好きの性格が昂じて、近所の人たちとの交流を積極的に楽しんでいる。特に、影島家はお気に入りスポットのようで、りなのことを本当の孫のようにかわいがってくれている。家にフラッと立ち寄っては、今日のようにママとお料理を作ったり、ウクレレをつまびいたりして自由に過ごして帰っていく。

サクサクのアップルパイをほおばるりなの隣に座って、タガジイは新しく練習しているというハワイアンソングを一曲披露してくれた。ウクレレの、どこか力の抜けた陽気な音色を聴きながら、りなは昨日あった出来事について、ジイに話そうかと考えていた。(ああ、でもダメ)口を半分開いたところで思いとどまった。ゴブリンのことは、人に簡単に話してはいけない気がした。秘めておかなくてはいけないという禁断の掟があって、もしも話したら、彼らは二度とりなのもとに現れなくなってしまうかもしれない。それは困る。その代わりに、バレンタインについて聞いてみよう。

「ねえ、タガジイ。バレンタインデーは、いつから祝われるようになったの? 日本だけじゃなくて、世界中でお祝いするんでしょう?」

「バレンタインデーか。りなは気が早いのう。まだ夏じゃというのに」

「りなは最近、どうも好きな人ができたみたいなの。この間もおしゃれして、夏祭りに出かけて行ったし」ママが茶化すようにそう言い残して、キッチンに戻って行った。恥ずかしくなって、りなは顔の前で両手を大きく振る。いたずらそうな目でりなを見たジイは、話を進めた。

「バレンタインデーはな、ずーっとずっと昔に始まったんじゃ。ローマ帝国という国がヨーロッパにあったのは知っとるかな?」

「えーっと、王様がいた時代?キラキラの王冠を被って、ローブを羽織る時代だよね。おとぎの国みたいだった。」

「そうじゃ。今から大体二千年くらい前の話じゃ。その時は、王室の華やかなイメージの裏で、戦争がすごく多かった時代だったんじゃよ。だから、男は皆戦いに出ないといけなかった」

「鎧をつけて、馬に乗ってくの?」

「そうじゃ。イメージがちゃんとついとるな」

「激しい戦いが何百年も繰り広げられる時代、皆ヘトヘトに疲れておった。食料もなければ、洋服も、時には家もない。そんななか、結婚も禁じられていたんじゃ」

「結婚も?何故?」りなの大きな目がさらに大きく見開かれた。

「りなが男だったとして、当時戦争に行かないといけなくなったとしよう」

「うん、鎧をつけて馬と一緒に行くの」

「その時、りなが結婚していて大事な家族がいたとしたら、戦いが終わったら無事に家に帰りたいと思わんかね?残してきた家族がいるのに、自分から身を投げて危ないところで戦う勇気はあるかね?」

「ううん、大事な人がいるならなるべく安全なところで、チョロっと戦って終わりにしたい。それで元気におうちに帰るの。できれば、戦うんじゃなくて戦うふりをして終わりにしたい。鉄砲に玉入れないで、打つふりをしたり」

「そうじゃろ? 大事な人がいたら、また会いたいと思うじゃろ?だから生きて帰る必要があるんだ」とタガジイは力強く頷いた。

「うん、奥さんや子供がいたら、りな戦争に行きたくない」りなも同調する。

「当時の軍人の長は、それが戦いの士気を下げると考えた」

「士気って?」りなが言葉の意味を質問する。

「やる気じゃな。りながさっき言ったみたいに、結婚して大事な家族ができたら、進んで戦の最前線で戦わなくなるのが普通じゃろ?だから、結婚は禁止されたんじゃ」

「そっか……独り身でいる方が戦争でたくさん戦ってくれると思ったんだね」

「なんとも理不尽な理由じゃよ」ジイは冷めきっているはずの紅茶をフーフーと冷ました。

「ねえ、タガジイ。そうしたら、当時の人はみんな独り身だったの?」りなが不安げに質問をする。

「いや、それがそういうわけではない。聖ヴァレンティヌスという神父様がおってな。通称バレンタインおじさん」

「バレンタインおじさん?」りなが大声を出したので、隣のいすでくつろいでいたルナがキョロキョロとし始めた。

「そうじゃ、このおじさんがな、こっそり結婚のお手伝いをしたんじゃ。軍人や国のお偉いさんに見つからないように、結婚したい男女を引き合わせてそーっと小さな結婚式を取り計らっていたんじゃ」

「すてき! 愛のキューピッドみたい。秘密の結婚式というのもなんだかワクワクするね」とりなは話に夢中になっている。

「でも、悲しいことにな、バレンタインおじさんは結局殺されてしまったゃんじゃ」とタガジイが視線を落とす。

「え、ばれちゃったの?」

「そうじゃ。ローマ王国の命令に背いたとして、処刑されてしまったんじゃ」

「でも、バレンタインおじさんは何も悪いことしてないよ? 結婚はふつうのことだもの。結婚しちゃいけないなんて、国の方がおかしなこと言っているのに」とりなが理不尽な気持ちを表す。

「国家というものは時にそういうものなんじゃ。」

「でも…」ジイはりなの次の言葉を待ったが、りなはそれ以上何も言わなかった。ジイは続けた。

「じゃが、バレンタインおじさんのことは誰も忘れておらんよ。言い伝えられているのじゃ。二千年が過ぎた現在も、誰もが彼の名前を口にする」

「それが、バレンタインデー?」

「そうじゃ。当時、古代ローマではルペリアカ祭という祭があってな。その夜は豊作を願って、男女がくじを引いて一緒に踊ったんじゃ。その名残が、今のバレンタインデーじゃな」

「ルペリアカ祭がバレンタインおじさんの名前を借りて、今も続いているのね」

「まあ、その経緯については諸所あってな、三十三年にコンスタンティヌス帝がミラノ勅令でキリスト教を公認とし……まあ、バレンタインおじさんは今も聖人として、二月十四日にちゃんと祀られているんじゃ」ものしりのタガジイが話し出すと、止まらなくなることがある。

「ああ、ロマンチック!」ルナを抱いて、りなはソファにパタンと倒れ込んだ。高く抱き上げたルナを、うっとりするようにして見ている。

「バレンタインおじさんは、恋のキューピットだったんだねえ。結婚させてもらった人たちは、嬉しかっただろうなあ。ひみつの結婚式って、どんなだろう?」

 タガジイが再び、気の抜けるようなウクレレの音をかき鳴らす。

「こんな感じの音楽を小さい音で流したんじゃろうな。」

 ジイはにこにこしながら、G線上のアリアを弾いた。荘厳なはずのメロディが、ジイ独特のなんともいえない滑稽な音色に包まれ、りなはそれがおかしくてクスクスと笑った。

◇◇◇

 タガジイが帰った後に家族で夕ご飯を食べて、ルナにもご飯をあげた。宿題の計算ドリルを解いていたが、集中力が切れたので、窓の外から夜空を眺めた。今日は、ホワイトグレーに輝く月が見える。

「バレンタインおじさんかあ」この間のゴブリンたちとの出会い、そしてタガジイから聞いた歴史の話といい、それらが繋がって何か冒険が始まりそうな予感がしてドキドキするーー。とその時、りなの脳裏にパッとひらめいたものがあった。

「あ、これだ!」急いで椅子から立ち上がり、机からスケッチブックを取り出す。マーカーを握り、『ひみつの結婚式』と上の方に大きく書いた。その下には、ゴブリンたちが拍手をしながら並んでいる。なかには、ハートの風船を手にしている者もいる。その中央には、りながゴブリンたちに出会った日に運ばれてきた大きなケーキ。

「よし、これでいこう」りなは、Valentine Factoryで催すイベントについて思いついたのだった。次にゴブリンたちに会う時には、このことについて話してみよう。きっと、一緒に何かできるかもしれない。

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