100:たったった、と下りた階段をまた、上った。

 卒業式を終えて、教室に戻って、三年間お世話になった「一組」でのあいさつを終えて、私はそのまま一時間くらい学校に残りました。いえ、私だけではありません。みんな、みんなです。

 卒業アルバムの寄せ書きをお互いに書きまくっていたのです。あの日、私は、ほんとうにいろんなひとたちと寄せ書きを交換しました。やけにのどかな春の空気はまるで変な麻薬のように私の背中を押し、ほとんどしゃべったことがないクラスメイトや顔見知りや後輩にまで、寄せ書きを頼みました。

 意外と、みんな好意的に書いてくれて、「○○さんはいつも本を読んでてすごいと思った」「声かけてくれたこと、よく覚えてます」「ミクシィの文章すごいよね。作家になってね」などと、ほんとうに、ほんとうに、たからものの言葉がたくさん集まって、だから高校の卒業アルバムはいまめくってもたいそう賑やかで、私の、たからものなのです。

 もちろん、親しい友人だったら、ものすごく濃い文章を書いてくれて――。


 そう。だから、とてもいい卒業アルバムなのです。

 ……だけど、彼からのコメントは、ないのです。


 なんのことはありません。そりゃ、自分のクラスの教室で半分以上のクラスメイトと名前の書き合いっこをしていたら、一時間などすぐに過ぎます。

 私は、それでも急いでいたのです。根拠もないのに、それにいま考えれば彼はそういうのに熱心なタイプではないとわかるのに、あのときの私はほんとうに、ほんとうに春の空気でどうにかしていたのかもしれません、彼だって友人といっしょに教室に残ってるはずと気持ちのうえで決めつけて疑ってもいませんでした――。



 階段をたったったっと降り、彼の教室に向かうと。

 そう、そうです、なんのことはありません。教室は、もうがらんどうで。だれのすがたもなく。彼のすがたも、ありませんでした――。



 ……ああ、と心のどこかがすごくがらんどうになって、隙間風が吹いた気がしました。

 べつに、教室に花束なんぞ持ってきて、先輩卒業おめでとうございますだなんて、そんなガラじゃないこと、わかってる。あの子は。



 でも――あいさつが、できなかったな。

 ああ。――最後の最後まで先輩でいたかったあの子には、あの子にだけは、なにも、言い残せなく――。



 ……それ以上からっぽな教室を見たくなくて、私はすぐにくるりと背を向けると、賑やかさが上からでも伝わってくる三年生のフロアに、たったったっと戻りました。

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