一章
闇はいつも、お守りだった。
待つ必要はないよ、動けばいいんだよと発しているような。それでいて冷え冷えとして静かだった。
一章 朱の森
わたしの五感に問いかける声なき声は蓄積され、また厳しさだけではない温もりのようなもの―いのちの芽吹きを深々と感ぜられていた。その日は、北風が吹いていた。一定周期で繰り返される風たちの踊りを聴きながら、ふとわたしは祠の入口に立った。
あのころと変わらず、木々も獣たちも命を育み、臨む海は白波立っていた。
しばらくぶりに、とくに人間の年月の数え方は会わないうちに忘れてしまって、具体的にはわからないが時が過ぎたのだろう。心が追いつかないまま、わたしは引きこもっていた。壊れたものはもとに戻らず、同じありようにもならないのだが、ずっと額に結ばれた赤い総角をいじっていた。なぜだか気が落ち着くような思いがしたからだ。もうぼろぼろになってしまったが、ひとつの愛着か執着かがそうさせた。わたしは人間が好きだ。人間の複雑さや、獣より長生きするくせに妖よりも短いことを儚いと評する夢見るこころが好きだ。もし、何も感じなくなってしまった彼らと相対することになればわたしは奮い立たなければならないだろう。生活における自立がその場しのぎになっているのなら、冷たい冷たい水をかき分けやってきたような澄んだ瞳で見つめるだろう。人間からいちばん得たものは「ことば」だった。
わたしたち妖には持つべくも語られざるものを純粋に口にする人間のことばは、可愛らしく、どうしようもない思いに駆られるのである。そんなわけで、わたしは過去に人間と関わり、かなしい思いもしたのであるがそれはまたの機会にと思う。
今なにかがわたしを呼び寄せる。ともしびと、とは未来を託し託される者のひとりなのだ。少なくともわたしはそう考えている。
横殴りに足をさらうようなさまざまな声がする。
一歩踏み出すと、なかなか立ち止まるのが惜しくなる。風景そのものに埋もれたように移動する点のようになり、足元の雪の深さなど気にしないでどんどん歩いてゆく。内側に響く音がより実感を深めていた。
うう、と獣めいた呻きか唸りが耳をかすめ、しばらくしてそれが人間の男であるとわかった。裸だった。褌もなく、あまりにあわれでわたしは内着の袖を肩からちぎり、せめて腰巻にしてやろうと思った。
よく様子をみると腹に出血を抱えていた。生きているのがふしぎなくらいだった。肩や脚は切り傷だらけで、なんらかの逃亡を試みたであろう顔はひどく腫れていた。急遽布を巻き巻き、雪にこえをかけて彼の意識を少し遠ざけてもらった。ようよう背負うと彼はひどく熱く、ゆるゆると冷えてもゆくので慌てていまも庵を結んでいるだろう友のところへ歩き出した。
着いてみれば、大きな神社になっていて由緒正しきうんぬんとある。掃除をしていた巫女らしき人間がわたしたちをひとめ見て、奥の住まいに案内してくれた。
ひとまず人間を運び入れて横にさせ、感謝を述べていると、友が顔を見せた。渋い表情だ。遅いわ、と一言しか口を開かないがわたしは口元を緩めた。人間の様子を診てほしい、とたずねると彼女からは怒りと疲労が見れ取れた。「懲りないわね」と答えた。矢継ぎ早に「この間も戦から逃げてきた一族を養ったり弔ったりしたところなのに、せわしないわ」と話始めた。
「その衣装と表情じゃ、おそらく知らないでしょうから言うけれど、知音、あなたが居た時代と今現在ではもう全然環境も状況もが違ってきてしまっているの。なにより違うのは、妖たちと貴羅が台頭してしまっていることよ。人間たちを唆してその気にさせているの。どちらも同じだけいのちを枯らしてしまっているわ。」
ふう、と友は肩で息を吸い、訊ねた。
「ねえ知音。これからなにをするつもり?」
「蘖は、心配してくれるのね。」
「あなたはまたそういう…。いいわ。知音の頼みだもの乗ってあげる。私たち精霊側は本当はもう人間とは関わりたくない。でも地を耕して祈ってくれるのは、人間たちしかいないの。獣たちは恐れ、あるいは絶えてこの地を離れてしまった。だから、知音にはこの地の人間が離れないよう結界を張ってほしいの。それがこの人間を助ける条件よ。」
「、わかったわ。お願いする。けれど妖には同じようにはできないわよ。」
「それは仕方ないわ。」
「また、あとでね。」
わたしは障子を閉めて出てから、蘖もまた変わってしまったのだと思った。
「久しぶりのおしごと、ねえ…。」
背伸びをしながら深く息を吸う。繰り返す。何度か行うと落ち着きを持つ。自分が置かれた場所がどういうものかに頭を巡らす。蘖は精霊としてこの朱の森を守護する立場にある。山の神と婚姻しているから逃げられない。第一添い遂げるつもりだろう。対して、人間たちは好きに動けるということ。摂理より実りを多く取りすぎたため、今年の冬は枯れ木が目立つ。雪をかぶっても雪解け後まで立っていられる木々があとどのくらいなのか…。
社の周りをうろうろしていると、階段下に白い置手紙を見つけた。見つけた瞬間から、ああよくないものを見つけてしまったと思ったが読みひらく。案の定、相手はわたしのよく知るあまり会いたくない―貴羅からだった。
『 ねむりの森から出てこられたお姫様
ハアイ、元気してるかしら。元気よね?じゃなかったら気合入れに行っちゃう。覚悟してね。
とりあえず挨拶しようとおもったんだけど呼び出しがあったの。ごめんね?知音ちゃんだけに教えちゃうけど、じつは近々人間たちと仲良くする運びになりそうなの。だから知音ちゃんは人間に情けをかけちゃだめよ。かけたらきっと泣いてしまいそうなんだもの、あのときみたいに。じゃ、またね。
―あなたの貴羅より 』
しばらく、知音は立ち尽くした。こんなばかな手紙を寄越すのは貴羅ぐらいなものだが少々早すぎはしないだろうか。まったくご苦労なことだ。わたしは貴羅がまるで止められたがっているかのような錯覚を覚えた。これも彼の手のひらで踊っていることになるのだろう。それぐらいの自覚はある。まあ逆に、本当にわたし自身を相手にしたいのなら他の動きがあるだろう。わたしは彼の一件でひどく鈍感になってしまったようだ。
ところで人間の男の件だ。蘖との交渉では少なくとも飲むそぶりを見せなければあの人間は助からないと思ったから―蘖は薬草の妖精だから助けると言えば助かる見込みが高いのだが、話はそもそも、なぜ人間を囲い込まなければならないのか。お互いが自然を介して教え教えられるという体系は均衡を崩したのか。強制したところでねじ曲がってしまうことなどとうに見えているだろうに。だがさしあたっての要求は正論ではないのだ。それはいくらわたしにも分かっていた。そこで考えた。
「 はらからから生まれし いずれの魂よ。
其は地に 其は海に 其は風に 其は空に
蒔いて 撒いて 舞いて 巻いて
汝の楔を穿ちたまえ 汝の根を張りたまえ。 」
唱えて三度、舞う。わたしはお願いし自己を活性化するよう導く祝詞だけを唱えた。足止めはしない。止まって考えることは、信じ切って進むより機敏でなくてはならないから。そのこころを学ぶのもひとつの役割なのだろう。
朱の森の夜はなお深い。色も鼓動も脈々として語る。そして時折爆ぜる明るさがある…。
わたしは再び男の様子を見に行くと、ちょうど出てきた蘖と目があった。
「大変だわ。あの男には呪がかけられている。それもかけた本人しかわからないような手の込みようよ。」
お手上げと蘖は言った。おつかれ、ありがとうと言いわたしは室に入った。
汗を非常にかいていて寝苦しそうにしている。胸を掻き毟ったのだろう両手は裂いた布きれで巻かれていた。人間にしては強いなと率直に思った。
手伝いをしていた木の葉がせっせと額に乗せた布を取り換えていた。
「親方さまは、手を尽くされたのですが…。」
「そうね。あなたもね。…代わるわ。」
ありがとうございます、と木の葉は障子を閉めて出て行った。
男は寝苦しそうに汗をかいていた。
呪は男の右肩口にあった。花を描いている。五つの花弁がそれぞれ明滅していた。わたしは触れようとしたがぱち、と弾け触れられなかった。どうやら、呪は主を守ろうとしているらしかった。顔をしかめて考えあぐねていると、ふわふわと肩口から白い煙のようなものが躍り出た。
『おや、これはこれは。天狐さまであらせられるか。久しくもお顔を再び合間見えることまこと嬉しゅうございます。』
「その声は、彩賀さまですね。お身体はどちらに?」
『いやはや。私はいまやただの思念の一糸。この若者に委ねたに過ぎませぬ。しかし、いや良かった。天狐さまに拾っていただけたのなら彼の傷も癒えましょう。』
「そうですか…、わたしは今実のところ何も持ち合わせていないのです。それで友のところを訪ねたのですがお手上げで。彼は、なにをしたのですか。」
『私は…こういったことが起きないよう、彼を災厄から守る印を結んでおいたのです。が、何者かがそれを抑えるための薬を飲ませ、彼を村の外に出してしまったのです。そして野盗に襲われました。薬が切れるまで動けなかったので今こうしている次第です。』
「つまり彼自身の意思で、彩賀さまの村から出たということですか。」
『そうなります。』
「彼は人間ですよね。彩賀さまは妖であり地狼一族の長。彼を引き取ったのはなぜです?」
『とても悔いきれないのですが、我々は大きな過ちをしました。ただ狩りという名目で、大勢の人間を噛み殺しました。彼は父親を目の前で殺されたのです。まだ赤子で何も分別がつかないような状態でした。そうでなければ引き取るという覚悟はつかなかったように思います。とても懐いてくれていました。山むこうに妹がいて生きているということを知るまでは。生まれたことすら彼は知りませんでした。なにが引き逢せたのか、一目見てきょうだいと思ったそうです。妹を知った彼は自分が人間で、今居る環境には妖しかいないということを知りました。それからは必死に逃げ出そうと試みるようになりました。私たちとしては心配だったのです。彼は人間でありながら、妖の域内で育ちました。過保護だったと思いますが、せめて私たちがしてやれることは彼の安全を見守ることでした…。』
「なるほど。」
彼に薬を与えた輩はためらいのないようだ。くやしい。いのちをなんだと思っているのだろう。かけた呪が妖に反応するよう混合された薬は、妖が作っている。一昔前はそうだった。
「彩賀さま、ひとつお尋ねしますが使われた薬についてはご存じですか。」
『我々は地の力を循環させることで回復する者たち。自然があればこそ必要なかったのです。ですから薬についてはよく知らないのです。私たちは自身のために作っても適応できないため毒にしかならない。…私の知らないところで起きたことがどういうことなのか…。』
「あとは本人に訊きます。彼は人間―わたしたちとは生きる刻の眺めが違います。彩賀さまのお気持ちがいつか彼に届くよう祈っています。」
はっきりしたことは、彩賀さまや地狼が意図したわけではないということだ。
「私たちもようやっと、一息つけまする。」
そう言い置いて彩賀さまは 再び、するすると白い煙は痣のなかに吸い込まれていった。
しばらくして。
「知音。いい?入るわよ。」
すと、と両手を添えながら障子を開ける蘖に、こういうところが変わっていないなどと思い横にやってくるのを見やる。
「どう、知音あなたこれ好きだったでしょ?」
おもむろに蘖が取り出したのは柑橘のなかでも甘い部類のものだった。
「ありがと。」
皮を剥けば、ほのかに立ち上るにおいがした。
「ほんと、果物には目がなかったものね。懐かしいわ。」
「そうね。生きるのも案外悪くないわと思えるわ。」
「らしいわね。ところで、さっき何を話していたの?」
「ああ、気配がしたのね。この人間、ちょっと特殊な状況らしいの。人間だけど妖の印があるのね。それが呪のようよ。解けないみたい。」
「肩口の印ね。ほんと変わった人間ね。いや変わってるのは地狼か。ねえ。すこし変じゃない。地狼はたしかに呪がお家芸よ。それでも寿命の操作ほど精密にする必要、あったのかしら。」
そうでなければ彼は腹の傷が致命傷だったのだから、ここまで苦しまずに済んだのかもしれない。言外にそう語る。
「さあねえ…。そうかもしれない。」
「そう。とりあえず私はこの人間を助けるわ。」
蘖は、彼の額に置かれた濡れ布を取り換えた。そして彼の具合をくまなく診る手際のよさに感心した。
みとれていると蘖が振り向き、口に弓を引いた。
「そこで座っているだけなら、働いてもらうから。」
側仕えの木の葉が彼となぜかわたしの分の着替えを持ってきて、渡された。
「わかってるわね。」
とわたしが言えば、
「わかってるわよ。あなたが今もそういう行動をするんだと知って、かなしみを覚えているわ。」
「さすがね。」
「黙っていようかと思ったけれど言うわ。茶化さないで。前々から嘘をつくなって言っているでしょう。しかも大事なことを自分で決めたはいいけど尻拭いをこちらでしろっていう前フリなら要らないわ。」
「う…ごめんってば。蘖。」
「そうよ、最初に無理を言ったのは私よ。でもだめならそう言えばいいのよ。知音、あなたひとりじゃないんだから。」
じわじわと響くものがあったのだろう。わたしは気付けば、瞼から滴るものがあった。
「まったく、何歳なんだかわからないわね。」
蘖は、いつだって厳しくて、やさしい。
あのときは、この手を取れなかった。差し出されるにも関わらず、わたしははねのけたのだ。不器用さに加えて謙虚さの足りない恥知らずとは己知らずだ。けれど今改めて自分に言い聞かせよう。そうだ、深く息を吸う。こんな単純なことを忘れていた。
「大事なものは案外、身近にあるのかもしれないわね。」
蘖と私はほとんど初めてに等しくほほえみあった。そしてうしろで男が目覚めたのがわかった。
「…なぜ、助けたんだ。」
からっからの喉からむせながら出てきた彼の第一声はそれであった。
蘖はすかさず答えた。
「傷ついていても、死んでいなかったから。」
この答えに彼は口を歪ませ眉間にしわを寄せた。
「ただ、生きることに専念しなさい。そうすれば、見えてくるものもあるわ。」
わたしは黙っていた。こういうときにすらすらと口にできればよいのだが、見極めがつかないときに口走ったことで逆効果になることもある。もうすこし、彼の判断材料が欲しかった。
「というわけで、働き手をもうひとり確保したので、しっかりね。」
にこにことする蘖に、わたしと彼はなんとも複雑なきもちになった。
ともしびと はに @1kumihoney
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