2,次の瞬間、トラックに轢かれる程度の幸運。

 はぁ、これはひどい奇跡の無駄遣いだ。別に皆勤賞なんて狙ってないのに、校門が閉まる二十分前に起きて間に合うとは。


「メル、あんたクサっ! また寝坊したね?」


 前に座る親友がこちらを向いた。心底あきれたという顔で。

 昨晩は汗だくのままベッドに倒れ込んで眠りこけて、今朝もシャワーを浴びられないような時間に起きてしまった。


「うっさい。ってかメルって呼ぶな」

「だってあんたの真名まなはメル・アイビーなんでしょ? 昨日久しぶりに読んじまったわ」


 ちっ。中学時代に書いた私自身が主人公の異世界転移小説をバカにして。女神から邪神と化した私が異世界から運命の相手を見つけるために、美男子を拉致しまくっては侍らかすという至高の内容だ。唯一の欠点は読んだ友人に蒸し返されると死にたくなる点くらいの。


「邪神メル・『アイヴィー』よ。ヴィー!」

「分かったからツバを飛ばすなメル・アイビイィー!」

「だからメルって呼ぶなっつってんだろ発音悪いんだよヴィー!!」


 普段なら軽いけんかになるところだけれど、親友はすこぶる機嫌が良いのか、制汗スプレーを差し出してくれた。


「とりあえずこれでごまかしとけ」

「おお、ありがたや女神マルグレーテ様。略してマル」

「はぁ? あんた親友のあたしをあの変な女神のモデルにしてたの? あと略すな」


 そうだぜ、我が親友。

 何人の男を同時に映して虜にできるのか分からない大きな瞳、何人の男を同時に絡め取れるのかってくらい長くて艶やかな髪、私の体臭を敏感に嗅ぎ分ける忌々しくも高く美しい鼻。そして何より、赤子何人分の腹を満たせるか知れぬタンクを二基搭載して。もはや存在自体が世のおなごに屈辱を与える女神どころか貴様こそ現世に舞い降りた邪神であるぞ。

 まぁ、こんな美人と親友付き合いしてもらえているのはちょっと誇らしいといえば誇らしいのだけど。


「ま、あたしを女神のモデルにするとはなかなかの慧眼だわ」


 惜しむらくはその横柄でツンケンした性格が災いして私と同様、レアクリーチャー『カレシ』を召喚できていないところか。


「ちょ、人の目の前でスプレーぶっかけんなよ」

「仕方ないっしょ。もうすぐ先生来るし」


 うん、良い香り。さすが我が親友。制汗スプレーのチョイスも最高だ。


「はぁ、アイブヒィちゃんは憧れの彼との進展は今日もナシか」

「な、何で決めつけんのよ?」

「クッセェから」


 ぐぅの音も出ないとはこのことか。


「ぐぬぬ……し、進展してたらどうすんだよ」

「課題くらい見せてやる」


 エスパーか。やってないことがどうして分かる。


「前借りさせろ。痛ったぁ!」


 ノートの角を頭皮に突き刺さないで欲しい。それなりに痛いのに。


「やってもねぇのにエラソーなんだよバカタレ。お、うわさをすれば。おーい! こっち来い!」

「へ!?」


 身体が凍った。

 体臭がもはやアンデッドのときに呼び出すななんて鬼か。いや、邪神か。


「うわ! 人のスプレー無駄遣いすんな!」

「あ、あんたが呼んだんだろが!」


『彼』が近寄ってくる。

 あぁ、かわいいよぉ。どうしてそんな大きめのブレザー着ちゃっているのよ。そこまで背は伸びないよ。


「お、おはよう。な、何か用?」

「あ、あ……う」


 急に口が動かなくなった。

 マルグレーテ略してマルがオエェっと吐くようなジェスチャーをした。おしとやかキャラを気取るなよ、気持ちが悪いと言いたいんだろう。演技でも何でもないのに。


「えと、あ、特に……」

「そ、そう」


 はぁ、と大きなため息が聞こえた。


「おいジョン。メルに挨拶くらいしろ」

「メ? というか、ジョン……? ぼ、僕のこと?」

「そ。お前どことなく犬っぽいからジョン。こいつはメル・アイヴィーことメルだ」

「え? あ、あう!」


 何てこと抜かしてやがるんですかマルグレーテ略してマル。ジョハネスは略してジョンは私の小説の勇者様の名前だ。


「おはよう、め、メル?」

「お、おはよう、えと……」

「ジョンだ。こいつは今からジョンだ」


 嘘だろ親友。そんな呼び方しろって言うのか。


「じ、ジョン……?」

「そう。それでいいんだよ」


 何これ。どうしてこんな呼び方に。


「あの……あぅ……」


 何だか悔しいからこいつのこともマルって呼んでやってくださいと言いたいのに、緊張が先に立って口も舌も全く動いてくれやしない。


「そしてあたしのことはマルグレーテ、略してマルな」


 気に入ったのかよ。


「え? うん。おはよう、マル?」

「おう、おはよう忠犬ジョンよ。メルに今日の数Aの課題見せてやれ」


 何を言っているんだよこの女神の殻を被った邪神が。


「え? うん……いや、駄目だよ! 自分でやらないと! あ、そうだ、その、昼休みに手伝うから」

「ほ、ほんとに!?」


 そんな。彼の時間を私に割いてくれるなんて、いいのかな。


「う、うん。数学得意だからなんでも訊いてよ」


 あ、死ぬ。

 私はこの後トラックに轢かれて念願の異世界へと飛ぶけどその異世界は酸素が存在しなくてしかも地表温度が50℃以上あって全く適応できずに地獄の苦しみを味わいながら死ぬんだ間違いない。


「おい、この後死ぬとかバカなこと考えてねーで返事しろ」

「ひゃ、ひゃい……!」


 どうしていちいち私が考えていることが分かるんだよ。

 私の間抜けな返事がツボにはまったのか、吹き出したマルの唾が顔にかかったが、どうでも良かった。

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