災禍ノ断章

「大きなウルススがいた。たぶん、3メートル以上ある」

「え、それは……シャレ抜きに怖い」

 狩りから帰ってきたわたしの報告に、ギィは顔を青ざめさせた。

 どんなときでも飄々としているようなイメージのあるギィだけれど、身近に命の危機があると知れば、さすがに平静ではいられないようだ。

「ギィはしばらく、小屋から出ないで。次に見つけたら、わたしが退治しておくから」

 獲物の野兎ツンを地面に並べながら言いつける。だが、返答はなかった。

「ギィ?」

「……また、十八番おはこの狩猟罠で、かい? ウルススを相手に」

「それは――」

 まずい。ギィは、怪しんでいる。

 広い自然界の中でも、ウルススは特に獰猛で屈強な、生態系の上位者だ。たとえ武器を持ったとしても、普通の人間では、まず相手にならない。

 それを、あっさり『退治しておく』なんて、言葉の吟味が足りな過ぎた。

「――もちろん。それとも、正面から棍棒でも持って、立ち向かっていくっていうの? 叙情詩ファンタジー狂戦士ベルセルクじゃあるまいし、そんなの、無理に決まってるでしょ」

 あふれた言葉はわざとらしくて、後ろにばれたくないことを隠しているのが、ギィにも丸わかりだっただろう。

「メル、おれは、きみの……」

 ギィは、続く言葉を絞り出すかのように、自分の頭をぐしゃぐしゃと引っ掻き回す。だが、やがて諦めたのか、寂しげな微笑を頬に浮かべた。

「お腹すいたね。野兎ツンなんて食べるの初めてだよ。わあ、楽しみ」

「……フィレがおいしい。つけあわせは、浅葱アサツキがいいかな」

 ギィは優しい。

 その優しさに、わたしはぐったりと凭れかかっている。なんて、さもしい人間なんだろう。いや。人間ですら、ないのか。





 真夜中、断崖絶壁から落ちる夢を見て、目が覚めた。不安定な心の表れだ。

 背中に、嫌な汗をかいている。寝間着を替えようと思い、上半身を起こした。

「……嘘」

 隣を見て、驚愕のつぶやきが漏れる。

 ギィがいない。ギィの使っていた毛布だけが、そこにぽつんと残されていた。

 突然の事態に、頭が真っ白になる――なんてことは、なかった。予見、もとい、覚悟はしていたのだ。いずれこの時が来ても、傷つかないように。

「帰ったんだ……都に」

 いつまで経っても、わたしが自分のことを話さないから。ついに、愛想を尽かされてしまったのだろう。一刻も早く文筆家として名を上げたいギィにとって、煮ても焼いてもをださないわたしは、きっと、無用に違いない。

 覚悟はしていたのだ。

 覚悟はしていたのだ。

 覚悟はしていたのだ。

 泣くわけが、ない。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」


 外から、ギィの叫び声が聞こえてきた。

 反射的に飛び起き、扉へ向かう。三歩目を踏み出したところで、何かに躓いてすっ転んだ。慌てて確認すると、それはギィのリュックだった。

 ここを出ていこうという人間が、まさかリュックを忘れていくはずがない。とするとギィは、お花摘みでもするために寝床を抜け出していたのだろうか。己の勘違いに、頬が熱くなる。だが、二度目の絶叫が聞こえてきて、羞恥なんて頭から吹き飛んだ。扉を蹴り開け、外に出る。

「ギィ!」

 なんてことだ。ギィが仰向けで、地面に横たわっている。その腹の上に、ウルススの前足が乗って――爪が肉をえぐったのだろうか、鮮血が、どくどくと流れ出していた。視界が、真っ赤に染まっていくようだ。

 ウルススを見かけたのは、森の中でも奥の方で、まさか小屋の近くにまでは来ないだろうと、高を括っていた。根拠のない判断だった。それが、仇となったのだ。

 ギィの首にかぶりつこうとするように、ウルススが大口を開ける。

 その瞬間、わたしは迷いなく息を吸い込んだ。躊躇するべきか否かという思考すら、時間軸の彼方に置き去りにしての行動だった。

 だって、ギィが。ギィが。


 わたしは旋律を紡ぐ。ただ心の赴くままに、ただ唇のわななくままに、音階を音律を音素を音域を、世界という箱の中で響かせる。言葉に意味は求めない。そこに喜はなく怒はなく哀はなく楽はなく、ただ、純粋な祈りだけを篭めて。旋律はやがて旋律を超越し、虚空を満たす唄唱詩謡咏うたとなる。届け。届け。届け――


 わたしが歌い終えるのと同時に、ウルススはゆっくりとその巨体を傾け、轟音を立てて大地に伏した。駆け寄って確かめるまでもない。もう、息絶えている。

「メル。きみは、いったい……」

 ギィは両手でしきりに腹をさすりながら、むっくり上半身を起こした。寝間着は深紅に色づいているが、出血そのものは、もう止まっているはずだ。

 顔が真っ青になっているのが、月明かりに照らされて、よくわかる。その原因は、失血だけではないだろう。

「わたしは」

 もう、これまでだ。隠しおおせるはずがないし、これまで通りギィの優しさに甘えたところで、わたしの心の重荷が消えるわけでもない。

「わたしは異端。わたしは異形。わたしの名前はメル・アイヴィー」

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