第8灯 薬師の家
大司教は、マーガレットを置いていこうとはせず、非常にゆっくりと、時々休みを入れながら歩き続けた。
しかし、当のマーガレットは、大司教が見えなくならない程度の距離を保ち続けていた。大司教が立ち止まって振り返る度に、ぎょっとして歩みを止めた。マーガレットは、決して大司教を恐れていたのではなかったのだが、この2人の間に広がる言葉のない世界に、唇を結ぶことしか出来なかった。
そんなことを続けている内に、太陽はすっかり沈みかけ、淡いオレンジ色の光が木々の間から細い閃光を織り成していた。
突然、大司教が全く前へ進まなくなり、マーガレットの方を見つめ始めた。少女は、しばらくの間は再び歩き出すのを待ったが、いつまで経っても大司教が歩かないので、日が暮れてきたのもあって、少しずつ前へ進み出した。
大司教の元へ辿り着くと、目の前の小さな家が目に入った。まばらな大きさの石を積んで出来た壁は苔や蔦でびっしりと覆われ、一見すると、廃墟のような寂れた風貌をしていた。
しかし、玄関付近に数多く置かれた植物入りの壺や、綺麗に磨かれた『
大司教は家に歩み寄ると、玄関の扉をノックした。扉には、
「御用の方はフォルボス姉妹まで。どちらかは中にいます。」
と掘られた板が掛けられている。次のノックまでの間に、声の大きい鳥が5回鳴き、虫の羽音が8回耳に入った。返事はない。
大声で呼んでみても静けさばかりが帰ってくるので、大司教は軋む扉をこじ開けて中に入っていった。マーガレットもそれに続く。
家の中は、神秘的な空間だった。
狭い部屋には、可愛らしいテーブルが置かれ、奥にあるカウンターには、玄関前にあったような壺で埋め尽くされていた。小さなベルも置かれている。天井からは、様々な色をした植物の入った籠が鎖で吊るされており、温かみのある一方で怪しさを生み出していた。聖典に登場した、教会の祖たるダイアードの隠れ家によく似ている。
「ブリジット! ベラ!」
大司教が叫ぶ。すると、カウンターの奥の暗闇から、しわがれた唸り声が聞こえた。
「いるんじゃないか……。出迎えないか。」
大司教が言うと、しわがれ声は寝起きによくある呂律の回らない声でもって応えた。苛立っているようだ。
「お前の目の前には『何が』『何のために』あるのか、よく考えな!」
その声を聞くと、大司教は呆れたような顔をして、カウンターに置かれたベルを鳴らした。可憐だが、少し鈍い音が鳴り響き、しばらくして奥から足音が聞こえた。
「なんだい、無愛想な割にうるさい奴だね。」
喉を締められたガチョウのような声と共に現れたのは、一人の老婆だった。か細い腰は酷く曲がっており、白い髪は編み込んで、青いガウンを着ている。大きな鼻が目を引く顔は、乱れたベッドのシーツのようにしわだらけだ。
老婆は重いまぶたからハシバミ色の目を覗かせ、マントの裾をいじるマーガレットを見つめた。
「この小さいのは何だ?」
老婆が言う。
「巡礼者だ、ベラ。」
「ハァ! タギテンシチェに行ったのか。バカな奴だねぇ!」
ベラは乾いて掠れた笑い声を上げた。
「バカですって?」
マーガレットがようやく口を開く。
「あぁ、バカだよ。大バカさ。第一、教会の奴らなんかと無闇に関わっちゃいかんのさ。『人権保護』『差別反対』あと『世界平和』。これを謳う奴はろくなもんじゃないがね、教会はそのろくでもない人間の溜まり場だよ」
「そりゃ、心外。」
大司教が口を挟むと、ベラ老婆は枯れ枝のような指で彼を差して、続けた。
「まず、こんな男を置いておく時点で、あたしはおかしいと思ったんだよ。その上、司教にまでしちまったら、いよいよ世も末だ。」
すると、玄関口から声がした。
「世も末になれば、ばーさんはお客にお茶も出さなくていいのかい。」
鳥のさえずりのように高い声は、健康的で温かく、柔らかい響きを持っていた。3人は、その声の主を見る。
玄関前に立っていたのは、またも老婆だった。ベラと同じく顔はしわだらけで、腰も曲がっているが、ふくよかな体型で佇まいもしっかりしている。栗色の髪はまとめられ、若葉色の服を着ており、袖をまくった腕はハーブの入った籠を抱え、陽の光のような笑みを見せている。活動的で快活な印象だ。
「まぁ! こんな可愛い子がお客に来てくれるなんて、嬉しいわ。さぁさぁ、お席へどうぞ。お茶とお菓子を出してあげるわ。」
そう言うと明るい老婆は、持っていた籠をカウンターに置くと、マーガレットをあの可愛らしいテーブルに着かせた。テーブルの脚や床板の隙間から、奇妙な植物やきのこが生えている。
「ブリジット、そいつはタギテンシチェに巡礼したようだよ。」
ベラがぶっきらぼうに言うと、もう一人の老婆は口を手で覆い、息を飲んだ。
「歩いて来たのかい!? そんな長旅をさせておいて立ち話だなんて、アンタ達どうかしてるよ。女の子に無理させるのは、盗みの次にタブーなんだ。」
大司教とベラは、互いに眉をひそめた顔を見合わせた。ブリジット老婆は、忙しなく店の奥へと入っていった。
しばらくすると、マーガレットの着いたテーブルには、オレガノと一緒にバターで焼き蜂蜜をかけた厚切りのトーストと、爽やかな香りのハーブティーが並べられた。
マーガレットがトーストを小さくちぎる間、フォルボス姉妹はカウンターの椅子に座り、大司教はカウンターに寄りかかって、会話を続けた。
「最近はハーブを採って来るのも辛くなってね。長く生き過ぎるのも、良いもんじゃないよ。」
ブリジットが言うと、マーガレットはハーブティーでパンを流し込みながら、会話に加わった。
「でも、お隣に畑がありましたわ。農作業だなんて、まだまだお元気ですよ。」
すると、ブリジットは高らかに笑った。引くようにして笑うので、ますます鳥の鳴き声のように聞こえる。
「あれはほんの一部だよ、お嬢さん。趣味でやってるんだ。最近は、教会が生活品の配達制度を立ててくれてね。手紙出す時に使う鳥があるだろ? ──うちにもあるんだけど──あれで注文した物資を運んできてくれるのさ。森に引きこもってる陰気なばーさんにはピッタリだよ!」
老婆が笑む中、その片割れは不機嫌に鼻を鳴らした。
「あんな連中の手を借りるなんて、アタシはゴメンだって言ったんだよ。」
「文句があるなら利用しなくて結構。陰気なばーさんのためだけに設けた制度ではない。」
ベラの言葉に大司教はこう返すと、少し黙ってから声を落として続けた。
「後で、鳥を借りるぞ。」
その言葉を聞いて、フォルボス姉妹の顔つきが変わった。
「そうだね。お前がこんな嬢ちゃん連れてここに来たのは、それが理由だろ。」
ベラが言う。
「話してみな。何があったんだい?」
と、ブリジット。
マーガレットが最後のパンを飲み込む間に、大司教はカウンターの椅子に座ると、顔をしかめてこう言った。
「教会が彼女を狙っているやもしれん。」
瞬間、辺りは冥界のように静まり返った。マーガレットはこの言葉の意味が分からなかったのだが、フォルボス姉妹は表情を強ばらせていた。
「ほれ見ろ! だから『ろくでもない奴ら』だと言ったんだ。」
ベラは憤慨して叫ぶが、大司教はこれを手で諌めた。
「落ち着け。まだ終わってない。続きがある。」
大司教は、冷静な態度で話を続ける。
「俺が彼女に付いているのは、アンブローズ様の命令だ。その上で、教会から刺客が送られて来た。上で内部分裂が起きている可能性がある。何があったかは知らないが、とにかく、いま教会に接触するのは危険だということだ。」
「状況は分かったけど、それなのに鳥なんか飛ばして大丈夫かい?」
心配気なブリジットが細い声で言った。
「彼女の付き人が、俺の部下と一緒に別の街で待機している。リスクは高いが、ずっと滞在させる訳にもいかんので、この2人は先に目的地へ向かうよう指示を出す。それに、ここの鳥が一番目立たない。」
この時、マーガレットは黙って聞いていたが、いよいよ仲間はずれが嫌になったので声を出すことにした。
「あの……、一体何が──?」
「明日説明するから黙っていろ! 口を出すな。」
大司教は非情にも冷たく突き放し、自分の感情を必死に抑えながら老婆姉妹への語りを続けた。マーガレットは心底腹が立ったが、それ以上に酷く驚いたので、何も言わなかった。
「……そういうことだ。俺達がどこに、どういう経路で向かうかは、念のため聞くな。ここではあの子にも話さない。今晩はここに泊まるから、そのつもりでいろ。俺は出て来る。」
大司教は静かに立ち上がり、落ち着きのない足取りで玄関へ向かい、黒ずんだ赤い光の中へと消えていった。春に似合わぬひんやりとした風が、部屋いっぱいに広がって行く。
「何をピリピリしてんだかね、アイツは。」
ベラは鼻を鳴らしながら、ガウンを首まで引き上げた。
「まぁベラ、いいじゃないか。お嬢さん、気分を悪くしないでやってくれよ。アイツは不器用なんだ。悪い奴じゃないんだよ。」
ブリジットがマーガレットに語りかけると、ベラは一層大きく鼻を鳴らす。
「ビディは甘いんだよ。ガツンと言ってやらないから、アイツいつまで経っても調子乗ってるじゃないか。昔から何一つ変わっちゃいないね!」
マーガレットは穏やかな笑みを作っていたが、すっかり気落ちしていまいあまり元気が出ないので、話題を変えようと試みた。
「お二方は、大司教様をよくご存知なのですね。」
フォルボス姉妹は少し戸惑った顔をしたが、すぐに元の顔に切り替えた。
「えぇ、そうね。よく知ってるよ。」
ブリジットが言うと、ベラはため息をつきながらカウンターに頬杖をついた。
「ビディとアタシは、あの小僧がガキンチョの頃から知ってるがね。昔のアイツは、どうしようもない悪党だったよ。薄汚い詐欺師さ。」
「偽名を色々持ったんだよ。ピーター、マイク、レニー、アーノルド、トム、ロナルド、リック、あとはジャック。アタシらも、彼の本名は分からないんだ。しかし、色々騙されたモンだよ。」
ブリジットがそう言う中で、マーガレットの内に秘められた『ある思い』がフツフツと湧き上がって来た。詐欺師の経歴を持ち、名前も素性も分からぬ男。司教として、それは信用ならぬに値する事柄だった。
それに加えて、先程目にしたあの「赤い目」──。
マーガレットは、身の毛のよだつ恐怖と心乱される不安に襲われた。あの謎めいた男は、赤い目の男は、確かにマーガレットを守っていたのである。それでも、彼女が怯えを拭い去ることは叶わない。それは、得体の知れないものへの恐れと、仄暗い運命の予感であり、人が一生を持ってしても理解しきることのない奇妙な感情に他ならない。
「さぁ! もうすぐ太陽も沈んでしまうわ。簡単な夜食を作りましょう。」
ブリジットは元気良く立ち上がると、カウンターの奥へと消えていった。
マーガレットは、赤い目のことを忘れようとした。
(きっと、炎に照らされて赤く見えていただけだわ。大司教様だもの。きっと、守ってくださるよ……。)
そう自分に言い聞かせ、気を落ち着かせた少女は立ち上がった。
「お手伝いしますわ!」
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