第7灯 鬼哭の幽霊火
大司教の悲鳴は、炎の燃え盛る音に合わさって、灰色がかった森に響き渡った。マーガレットは思わずそれを確かめようとしかけたが、それは恐怖によって叶わなかった。
ウィルは、燃える大司教を勝ち誇った表情で眺めていたが、その隙をついて背後から一振りの剣が飛びかかった。剣はウィルの胸部を貫き、空中で暴れ回ったので、男は剣が抜けた勢いで遠くへ飛ばされた。
ウィルの注意が削がれ、大司教を取り巻く炎は姿を消した。大司教は剣を右手に戻すと、苦痛の表情を見せながら、倒れているウィルを睨みつける。
「お前……!」
彼がそう言い放つと、ウィルは素早く起き上がりながら冷徹な顔つきで応じた。
「嫌なら消えろよ。お前は悪魔でも殺してりゃいいだろ。探すのが面倒なのか?」
すると、ウィルは手近にあった花を一輪摘み取ると、軽々と木の上に登った。太い木の枝の上にしゃがみ、まるで我が子を見るように、愛おしげに花を見つめる。
「こうしてみると出てくるぜ。」
ウィルがそう言うと同時に、花は艶めかしい炎に包まれる。ウィルはそれを近くの枝に向かって投げつけた。
燃える花は、枝に炎を分けるとその軌道を変え、踊るように木々の間を飛び回って、炎を広げていった。枝に移った炎も火花を散らし、森の上部は、一瞬にして炎の配下に置かれた。空を覆う暗い緑に、赤い火が点々と揺らめいている。露が木の葉から零れ、地面に当たって砕ける間でのことだった。
やがて、花が燃え尽きて火の玉が消滅すると、彼は眼下を見下ろして叫んだ。
「炙り出すんだよ!」
ウィルの声と共に、木々に移った炎が一斉に激しく燃え出した。大司教と木の陰に隠れているマーガレットに、赤黒く燃える灰が降り注ぐ。
「まずい──!」
大司教は、マーガレットの元へ戻ろうと振り向くが、その視界は、頭上から撒かれる大量の枝によって塞がれた。灰を降らしていた炎が激しくなったことで、焼き切れた枝が次々と落下しているのである。炎は未だにその範囲を広げ、枝の雨は止むことがない。
「灰と枝の雨だぜ! 斬新だろ? 息が出来なくなる前に、とっとと出て来ることだな。でないと、森を焼き尽くすまで続くんだぜ!」
大司教は、剣を振りかぶって枝を掻き分け、マーガレットの元へ辿り着いた。少女は、マントのフードを目元まで引き下ろし、悲鳴を上げながら屈み込んでいた。
「マーガレット! 耐えろ。」
大司教が問いかけるが、少女に返答する余裕はなく、ただ金切り声を上げるのみだった。その様子を、地上へ降りてきたウィルは見逃さなかった。
「みっけ。」
彼は、前方に手を出すと、降り注ぐ枝の一つに指で触れた。すると、触れた枝は音を立てて燃え上がり、炎の手は枝の雨を伝って、風のような勢いでマーガレットの方へと伸びていった。
炎が少女に近づき、彼女がその熱を感じる前に、大司教が少女の前に立ち塞がった。炎は大司教を後ろへと押し退け、大司教は体勢を崩すまいと歯を食いしばる。
その時、彼のそばに、突然ランタンが転がった。脇に逸れて回避していたマーガレットは、目に映ったそれに言葉を失った。
彼女の視界には、大司教の禍々しい赤い右目が飛び込んでいたのである。
マーガレットは動揺し、大司教は息を飲んだ。澄んだ青い瞳と、醜い緑の瞳が向き合った。
ウィルは、標的を仕留め損ねたことを確認し、空中で燃え尽きた枝の灰が巻き上がる中、ナイフを構えて少女に向かって走り出した。
大司教が応戦するが、ウィルのナイフは彼の喉に突き刺さる。大司教は、マーガレットが唖然として立っているのを目にすると、喉のナイフを掴んで胸まで下ろし、少女に向かって叫んだ。
「マーガレット! 何してる、隠れろ。」
しかし、彼女は喉を刺されても声を発する男に怖気づき、大司教の言葉を咄嗟に飲み込むことが出来ない。
その様子を見て、ウィルは憐れむような笑みを浮かべると、猫撫で声で少女に声をかけた。
「おやおや、どうしたの? 逃げなくていいの? グズグズしてると、死ぬぜ。」
ウィルは大司教を押し倒すと、マーガレットに向かってナイフを振り上げた。彼女は、ようやく背後に向かって走り出し、大司教はランタンを消滅させると、追いかけようとするウィルを阻止した。ランタンは消え、右目は元に戻っている。
ウィルは後ろに遠のいて間合いを取り、剣を構える大司教を挑発する言葉を言い放った。
「可哀想に。お前、嫌われたかな?」
大司教は、一段と険しい表情を出して、淡々と返す。
「元々好かれていない。余計なお世話だ。」
「そんなでいいのかい? あの子、いい子そうじゃないか。」
ウィルが言う。
「そうでもないぞ。礼儀知らずのひどい小娘だ。」
大司教はそう言うと、ゆっくりと地面に膝をついた。
「まぁ、どっちでもいいね。」
ウィルは体勢を低く構えながら言うと、勢いよく地面を蹴って走り出した。大司教はナイフの攻撃を剣で受けると、剣から手を離して後退し、距離を取った。
剣は、まるで見えない手で操られているように斬撃を繰り出し、ウィルのナイフを弾いて行く。
ウィルはナイフを大きく振って、剣を弾き飛ばすと、大司教に向かって行こうとした。しかしその時、目の前に三本の枝が飛びかかり、ウィルが慌てて横にかわすと、その隙に、剣が彼の手からナイフを叩き落とした。巨大な木を背にして動揺する彼を畳みかけるようにして、大司教がウィルの顔面を思いきり蹴り飛ばす。
ウィルは背後の木に叩きつけられ、力尽きたように倒れ込んだ。
「諦めろ、ウィル。誰の命令であろうと、あの子を殺すことは認められない。俺は守るよう命じられているし、第一、神に背くことになるぞ。」
大司教が言葉をかけるが、ウィルは返事をしなかった。彼は、倒れ込んだまま歯を食いしばり、目を泳がせながら唸り声を上げていた。立ち上がろうとしているが、何もない地面や空を手で探っている。
大司教は、しばらく眉をひそめて見つめると、それ以上は何も言わずにその場を立ち去った。
マーガレットは、少し離れた場所に呆然と立ち尽くしていた。大司教が近づく度に、怯えるようにして後ずさる。
大司教は不機嫌な顔つきで、震える少女を見つめた。マーガレットは、口を開いて声を絞り出す。
「だ、大司教様……。あの、今の方は──。」
「計画変更だ。」
大司教は少女の言葉を遮って言った。マーガレットは耳を疑った。
「な、えっ……?」
「計画を変更すると言ったのだ。ゴティークへは向かわない。寄らねばならない場所がある。来い。」
大司教はそう言って、森の中へと歩き出す。しかし、マーガレットは足を進めなかった。放心状態のまま、眉間にしわを寄せた男を見つめている。大司教は振り返って言った。
「何してる? 早く来い。」
マーガレットは答えなかった。
「聞こえないのか? 来いと言っとるんだ!」
大司教は怒鳴りつけるが、マーガレットはマントの裾を握りしめて佇んでいた。
「わ、私……。あなたを……。」
少女の弱々しい声に、男は荒いため息をついて言った。
「もういい! 何も言うな。何も言わなくていいから、黙って付いてくるんだ。」
「ど、どこへ……?」
「ここでは言えん。その内話すから、来い。」
大司教はゆっくりと歩き出した。マーガレットは大司教が見えなくなる間際になって、ようやく彼を追いかけた。
その頃、ウィルはまだ倒れていた。唸り声は止み、据わった目でどこか遠くを見つめながら、静かにすすり泣いていた。
やがて、彼は嗚咽を上げながら辺りを見渡した。2人の姿はもう見えず、焦げた森の中では、生き残った風と水、そして土が命の営みを粛々と続けていた。灰色の煙が天を目ざして木の幹を駆け上がる。片目から涙を流す男は、生命と本能に溢れた世界の中、冷たく横たわり続けた。
ただ一人であった。
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