第6灯 祓魔の失態

 ピンと張り詰めた夜の闇に、鈍い音が響き渡る。人の生き血一滴すら啜らない大司教の剣は、その身に入った大きな傷を月光に煌めかせ、その鋭い太刀筋を対する悪魔に向けた。


 悪魔はそれを目で追うことなく、真っ直ぐ前方を見据えたまま腕で受け止め、かわしていった。その豪快な容姿からは想像もつかぬ艶やかな動きは、まるで大司教を嘲笑うかのように軽快だった。


「このッ──!」


 大司教が剣を振り上げると、悪魔は巨大な手でその刃を掴み、冷ややかな星に向かって高く飛び跳ねた。月光を遮り空にかかる暗雲のように、剛腕の悪魔の体は大地に影を落とす。


「は、速い──! あの悪魔、ガッシリとした図体の癖に素早いぞ。」


 小心者のレイカー神父は、腰を抜かしながらも教会の入口を這いずって、この戦いを見ていた。その手は、無意識の内に祈りのポーズを取っていた。厄介なものである。


 悪魔は剣の刃を空中で大きく振り回し、大司教を振り飛ばした。


 しかし、剣はたちまち悪魔の手からその姿を消し、落下していく大司教の手に収まる。


 立ち込め始めた霧で、その顔は霞んでいた。


(この野郎……素早い動きだけじゃない。弱点の心臓が見つからないよう、動きを最小限に抑えていると見た。──知能が高い!)


 大司教はそう言うと宙で後転し、体勢を整えて着地した。


「だが、そう長くは持つまいな!」


 彼は剣を振るって霧を断つと、悪魔に向かって走り出す。悪魔は避ける素振りを見せない。正々堂々迎え撃とうという宣言なのか、体を低く構えて敵の攻撃を待った。


 悪魔は再び剣に掴みかかるが、今度はそうはいかなかった。大司教は剣の筋を掴まれる直前でずらし、腹立たしいが反撃を妨げたのである。それは、黒い腕に指一本くらいに深い傷をつけた。

 すると、大司教の動きが一瞬鈍った。その隙をついて悪魔はすぐに反対の腕を伸ばし、今度は大司教の胴体を掴んだ。


「何──!?」


 その黒く屈強な手は、大司教の首から下をすっかり包み込むと、油を搾り取るように握り締めた。骨の碎ける乾いた音が響く。


 それでも、大司教が動かなくなることはなかった。気を失うこともなく、痛みを感じている素振りすらもない。ただ、悔しそうな無様な表情を浮かべるのみである。大司教は考えていた。この手を振りほどく術を、考えていた。


(おのれっ……! なんだ、この腕は? 鋼鉄のように硬いぞ。しかし、さっきの感触が妙だ。硬さのあるものを斬った感触ではない!)


 大司教は辺りを見渡したが、教会の近くには川があるのみだ。


「大司教の剣は、彼の体と一緒に握られている……。しかし、剣を手の外に出すことは可能なはず。何故、剣を出さない?」


 レイカー神父が言った。その枯れ木のような首筋に、べっとりと汗を伝わせている。

 大司教が剣を出さなかった理由とは、実に単純なものである。


(コイツ、やたらと俺の剣を狙ってきていた。手順を踏んで、俺を始末しようとしているかもしれん。焦ってはならない。剣を折られてはマズイ)


 その内、悪魔は手を大きく振り上げて、大司教を地面に叩きつけようと試みた。


「おい、そこの悪魔!!」

 剛腕の悪魔に、掠れた声が向けられた。教会で震えていた神父が、頼りない佇まいで悪魔を挑発したのだ。当然、悪魔はこれに乗るほど愚かではない。

 しかし、悪魔は油断していた。神父が声を上げた瞬間、悪魔の注意が逸れたその一瞬だった。悪魔が神父に振り向いた途端、レイカー神父の足元から銀色の光線が放たれた。それは、悪魔の顔面に直撃する。


 悪魔は痛々しい咆哮を上げ、顔を振り乱した。大司教を離した手で顔を覆い、悲痛に唸りながら後ろへよろめいた拍子に、後脚がのかかった川に浸された。すると、濡れた脚はぶよぶよにふやけ、血豆が破けるように黒い液体が溢れ出した。悪魔は苦しみの声を上げる。なんと悲惨なことか!


 この一瞬を勝機へと変えたのは、皮肉なことに大司教の方であった。彼は、悪魔の手が開いた隙に、剣を自分の手元へ戻し、苦しみ悶える悪魔に切っ先を向けて、勢いよく落下して行く。これで終わりだと言わんばかりに。


 ──悪魔の目は、幸い傷ついていないとも知らず。



 着地の重い音と共に、剣先は深々と突き立てられた。辺りに、亡者の香りをまとった風が巻き起こる。


「何っ……!!」


 大司教は目を見開いた。その目は既に赤い輝きを失い、大きく鋭い両目から緑色の瞳を覗かせていた。


 既に悪魔は消え失せていた。そこには、灰色の空と銀色の濃霧、そして湿った地面に深く突き刺さった剣があるのみだった。


 ──悪夢の時間は終わりを告げた。夢魔の一人は逃げおおせた。


 大司教は力なく膝をつき、川辺の大地を貫く剣にもたれかかった。うなだれながら大きく息をつき、しばらくすると、大司教は手を合わせて祈り、普段見せる厳しい表情を浮かべて立ち上がった。剣も消えた。


「レイカー、一体何をしていた? 夜更けに外をウロウロと。死にたいのか。」


 大司教は、未だ教会の中で震えている男に語りかけた。この臆病な司祭は息を荒らげて立ち上がると、時々詰まらせながらやっとの思いで言葉を発した。


「は……は、はい。実は……、以前奴が現れた際に、一つ気掛かりなことがございまして。」


「……言ってみろ。」


「はい……! ある村民からの証言なのですが、あの悪魔は川から離れた住居を優先して襲っていたそうです。どんなに手が届く距離でも、川に近い方は後に回して破壊していたとか。気になったのです! それは何故か。確かめた方が良いと。」


「それがさっきのか……。」


 大司教は落ち着かない様子で川を見つめた。銀色の水面には、あの淀んだ黒は映っていない。


「だからと言って、迂闊に外に出るんじゃない。奴はリスクを避けようとしていたのであって、川を恐れていたわけではないのだ。……また来るやもしれん。すぐに対策するよう教区長に伝えておく。多少時間がかかるが、俺はここにはいてやれない。くれぐれも死なないよう。」


「神に祈っております……。」


 大司教は、教会内の少女を起こした後、再び手紙を書きに鳥小屋へ向かった。


 

 大司教とマーガレットはバンベガン村を後にすると、再び切り開かれた森の道を進んでいた。大司教があまりに速く歩くので、少女はついて行くのに必死にならねばいけなかった。


「大司教様、どうかされましたか? 何か──。」


「何もない。」


 大司教は足取りを緩めることなく、マーガレットの言葉を遮って答えた。マーガレットはこれに腹を立てた。

 のっぺりと広がる重く厚い雲、体の至る所から苔でも生えてしまいそうな湿気が、その心情を促したかもしれない。


「態度悪いわね、鬱陶しい……。」


 少女の心が静かに爆発した音を、大司教は聞き逃さなかった。


「──何だと?」


 大司教は立ち止まり、鋭い目つきで彼女を見つめる。しかし、マーガレット心は感情の火の海と化していた。


「なんですの? 私は何か理不尽なことを申しておりますか? この際なのではっきりと申し上げますが、あなたの態度を見て不満を抱かぬ者は少ないかと思われます。苦言を呈されたご経験がないのですか?」


 大司教の顔が険しくなった。


「言いたいことがそれだけなら、さっさと来い。お前が離れすぎていると、俺が目を配ってやれんぞ。」


「大司教様の足があまりにも速いので、ついて歩くのが難しくなっているとお気づきではございませんの?」


「では、前を歩け。」


 マーガレットは大司教を睨みながら大きく前へ出ると、当てつけるように大股で歩き出した。大司教はついて行くのに苦労はしなかったが、目の前の少女を避けるように、距離をとって歩いた。


 その二人を、一つの赤い目が木の上から追いかけた。


 マーガレットは道の途中、春の若葉を纏う木の枝が音を立てていることに気づいた。彼女の左側から、柔らかく乾いた音が鳴り響く。

 マーガレットは左を向いて音に警戒したが、森の中には何も見えない。気のせいかと視線を前方に戻すと──。


こんにちはネナ・ハンヌヴェス! お嬢さん。」


 少女の目の前に、一人の男が立っていた。


 歳はマーガレットと大差なく、優しく笑みを浮かべていたが、筋肉質な体つきには似合わない病的な白い肌がなんとも奇妙だった。

 金色の瞳を持つ右目は血のように赤く、人間のものと同じ左目は大粒の涙を流し、左頬をびっしょりと濡らしていた。


「一人なの? 危ないと思うけどね。誰かに襲われたら大変だ。」


 男はそう言うと引きつるような笑顔を浮かべ、恐怖を覚えたマーガレットは無意識に後ずさる。男は少女に詰め寄るようにして、近づいていった。


 その時、誰かが少女の肩を掴んだ!


「よう。驚いたな。」

 大司教はマーガレットを強く引き寄せると、男に向かって語りかけた。


「朝だってのに、今日は随分と元気そうだな。何か……いい事でもあったか、ウィル?」


 大司教の語り口は落ち着いてはいたが、その声音には希望が見られなかった。


 ウィルは、突然顔を手で覆ってうなだれ、笑い出す。大司教と同じ教会のペンダントと、聖職者がよく身につける白いケープが──首元はスヌードで隠れていたが──彼にも見受けられた。


 男の笑いは、やがて嗚咽へと変わる。


「あったかもしれない……。あったということにしたい……。」


 大司教は、マーガレットを自らの背後に回らせた。泣き続ける男に向かって、厳しい口調で問いただす。


「では、お前は何をしに来た? 何故、お前がここにいる? 用があるのは誰だ?」


 ウィルは、ぴたりと泣くのをやめると、顔を上げてマーガレットを見つめて答えた。


「アンタには悪いニュースかもね。」


 大司教はマーガレットを抱きかかえて、森の中へと入っていった。仄暗い新緑に立つ大きな木に、その身を隠す。


「ここにいろ。絶対に顔を出すな。」


 大司教はそう囁くと、目では捉えられぬ速さで離れた木の前に躍り出た。


 ウィルはゆっくりと歩いて大司教と対峙した。その手には、二本のパン切りナイフが握られていた。

 頬を伝う涙が顎から滴り、淀んだ空気を映すナイフに落ちた。


「こっちも聞きたいんだけど、なんでアンタが彼女といるんだい? 今、一番会いたくなかったのに。」


 ウィルが尋ねると、大司教は剣を握った。互いに相手の出方を伺いながら、大司教は口を開く。


「そんなこと聞かんでもいいだろう。それより、今の俺はすこぶる機嫌が悪い。早いとこ消えるんだな。」


「ダメダメダメ。質問にちゃんと答えないのはお前の悪い部分だぜ。」


「言い方を変えて、もう一度言うぞ。帰れ。」


 大司教とウィルは剣を交えた。


 大司教の攻撃を、ウィルはナイフを巧みに利用して弾き飛ばす。彼の立ち回りは、大司教とは異なり隙が大きいが、軽々しく精密な動きで確実に相手を跳ね除けていた。


 やがて、ウィルのナイフが大司教の頬を掠める。大司教は隙をついて剣を振り上げ、切り上げられたウィルは大きく後ろによろけた。

 大司教の頬に傷はなく、彼は少し後ろに下がると、背後の太く尖った枝を切り落とした。すると、枝は地面にぶつかる前に消え、それと同時にウィルに鋭い枝が飛びかかった。


 鷲の爪のような枝はウィルの額を突き抜けたが、彼は何食わぬ顔で姿勢を立て直し、深く刺さった枝を掴む。僅かに時間はかかったが、額の枝は抜かれ、ウィルの額には傷一つなかった。


 ウィルは引き抜いた枝をナイフの代わりにして、大司教に力強く突き出した。大司教は剣を振り、ウィルの腕ごと枝を弾き飛ばしたが、体勢を崩したはずのウィルは、勝ち誇った表情を浮かべている。彼は枝から手を離し、それは大司教の肩にぶつかる。


「おっと──!」


 大司教が声を上げたのも束の間、ウィルは一つ指を鳴らす。


 突如、枝が黒く染まったかと思うと、そこから真っ赤な炎が吹き出し、大司教の体を包み込んだ。

 彼は今まで上げなかった、悲痛の叫び声を発し、マーガレットはそれを聞きつけた。


「大司教様──?」


 彼女は不安定によろめく炎の塊を見つめた。

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