第9灯 雨音の牢
早朝──。
例によって濃霧に包まれた森は、穏やかな朝の到来によって、その命の循環を活発なものにした。眠りについていた多くの精霊達が目を覚まし、力強い歌を響かせて他の精霊に呼び掛ける。この歌声こそが、精霊の言語であり、人間達の聞く川のせせらぎや木の葉のそよぐ自然界の音そのものなのである。精霊の力をその身に宿した人間のみが、その真の歌声を聞くことが出来ると言う。
ブリジットは既に目を覚まし、朝食の準備に勤しんでいた。テーブルには、胡桃のケーキに野いちごのジャム、そして眠気覚ましのハーブティーが並べられている。目の覚めるような爽やかな香りが辺りに充満し、じめじめとした霧の力を打ち消した。
ベラは、カウンターの奥で毛布を被って眠っており、時々蛙のような声で唸りながら寝返りを打っていた。ブリジットが起きるよう声を掛けるが、黙って寝そべるのみだ。
ブリジットがベラに3度目の声掛けをした時、入口の扉が開き、おもむろに大司教が入って来た。緑色の目は、警戒するように辺りを見渡し、一層鋭くなっている。手には一通の手紙が握られていた。
「手紙を出して来た。5日もすれば、鳥も戻って来るだろう。」
大司教はそう言うと、何かを探すように家の中を見回し始めた。
「アイツは?」
「外だよ。」
そう答えたのはベラだった。
「野菜のスープを作ってるんだろ? ここまで匂いがして来てる。」
ベラが起き上がりながら言うと、ブリジットは手を叩いて飛び跳ねた。
「あの子はホントに働き者だね。助かってるよ。礼儀もあって、積極的で。」
「積極的なのは認めるが……。」
大司教が苦言を呈そうとした時、裏口からマーガレットが現れた。手にはトレイを持っており、その上に置かれた4枚の皿には、柔らかく煮込んだ野菜のスープが湯気を立てている。
「出来ました! あら大司教様、おはようございます。これで揃ってますね。」
マーガレットがスープをテーブルに並べると、一同は席に着いた。大司教を除いて。
「アンタも座ったら? スープが冷めてしまう。いちごのジャムもあるよ。アンタ好きだろ?」
ブリジットが声をかけるが、大司教は入口付近の壁に寄りかかって、座ろうとはしなかった。
「いや、いい。」
それだけ言って、ゆっくりと首を横に振る。
ブリジットは再び何か言いかけたが、ベラが彼女の肩に手を置いて止めた。
「いいって言ってんだから、放っときゃいいのさ。全く、協調性なんてあったもんじゃないよ。」
大司教は、ベラの言葉をあしらうように肩をすくめた。マーガレットは、気にしていては苛立つばかりだと考えていたので、あまり大司教のことを思わないようにして、黙ってスープを口に運んだ。
朝食が済むと、マーガレットは身支度を整えて小さな薬屋の表に出た。この日は霧が晴れても小雨がちらつき、しっとりと潤う灰色の森の中に、腕を組んだ大司教が立っていた。
「お待たせして申し訳ありません、大司教様。」
マーガレットは、マントについた雨避けのフードを目深に被り、急ぎ足で大司教に駆け寄った。歩みを進めるたびに、足元の草にこびりついた雫が飛び跳ねる。大司教は、組んだ腕を指で忙しなく叩きながら待っていた。
「遅い。」
彼はマーガレットに目も合わせず言うと、眉をひそめる少女を置いて、家から出てきたブリジットの方へと歩いていった。
「悪いね。色々準備してたら遅くなってしまったよ。」
ブリジットは革製の袋を手に持ち、高らかに笑ったが、大司教は呆れたように腰に手を当てた。
「どうして女は、こう支度に時間がかかるのだ。」
「アンタだってこの前ちんたら準備してただろ。文句があるなら、アンタも食事の後片づけくらい手伝っとくれ。」
「どうせ役に立たないと言って弾くんだろう。で、その袋はなんだ?」
「あぁ、これはアンタのじゃないよ。アンタには必要のないものさ。嬢ちゃん! ちょっといいかい?」
ブリジットはマーガレットの元へ歩み寄ると、手に持った袋を開いてみせた。中には、葉先にかけて新緑から鮮やかな赤に変わっている、奇妙な木の葉がぎっしりと詰まっていた。
「これはね、外傷用の薬草だよ。軽く湯通ししてからすり潰して使うと痛み止めにもなるからね。この先大変だと思うけど、何かあったら役立てとくれ。」
「まぁ! とても高価なものではありませんの? タダでは頂けませんわ。」
マーガレットがそう言うと、ブリジットは腹を抱えて笑い出した。
「タダなんてとんでもない! それは初回限定のお試し品。一種の宣伝料だよ。ねぇ、ベラ!」
ブリジットが叫ぶと、家の窓からベラが顔を覗かせ、しゃがれ声で話し始めた。
「こんなにもてなしてやったんだ。ことが済んだら、ちゃんとうちの宣伝するんだよ。袋の内側に、うちの宣伝文句書いてあるから。」
ブリジットが続ける。
「もし、薬草が切れてまた必要になったら、手紙を送ってくれれば、郵送も出来るからね。賞品の受け取りと同時に、代金をお支払いいただきます。試してみて気に入ったなら、どうぞご贔屓にぃ。」
「……検討致しますわ。」
マーガレットは半ば呆れた表情を浮かべる。
二人が出発してしばらくしても、雨が止む気配はなかった。霧のように柔らかかった雨は次第に大粒になって行き、涙を流す黒い雲の向こうから唸るような轟音が聞こえている。天高く伸びる木々が雨の猛攻を防いでいるが、パラパラと流れ弾が零れ落ちるので、二人は額を拭いながら進む羽目になった。
「
マーガレットは重く広がる雲を見上げながら呟いた。
「厄介なものだ……。」
大司教もそっと精霊へ文句を零す。
しばらく歩き続けると、森の中の岩壁に小さな洞窟を見つけた。大司教がその中に入っていったので、マーガレットもそれに続く。ここは良い雨宿りの場だった。洞窟の中は湿っぽいが風がなく、僅かに寒さをしのげる。マーガレットはフードを脱ぎ去り、ホッとひと息つきながら濡れたマントを絞った。
「さて、今後について話そう。」
大司教が口を開いた。
「まず、お前の今の状況だ。はっきり言って安全ではない。昨日、お前を殺しにやって来た泣いている男がいただろう? ──ウィルというんだが──奴は教会のある部隊の一員だ。それが来たということは、教会の関係者がお前の命を狙っている可能性がある。」
「私を? 何故……?」
「それは分からない。今は確認のしようがない。しかし、あの部隊の規律上、今後別の刺客が送られてくることは間違いない。よって、教会と接触することは危険だ。向こうがこちらの動向を探りやすくなるからな。より教会と繋がりが薄いルートで向かうしかない。えらく遠回りだし、悪魔や盗賊に出くわす危険も高まってしまうが、致し方あるまい」
「あの、私が狙われているのでしたら、シルキーはいかがでしょうか? 彼女も狙われる可能性は?」
「なんとも。彼女についているのは俺の部下だ。信頼はしているが、今回ばかりは疑ってかかることにしよう。第一と第二それぞれの教区長と連携をとるよう言ってある。何かあれば、誰かしら鳥を飛ばして手紙を寄越すだろう。今はそれしかできん」
マーガレットは気落ちした。シルキーと離れて行動する羽目になってしまった上に、それぞれに危険が迫っているのだ。しかし、大司教の言う通り、今できることはこれが限界なのである。
「そうですか……。しかし、シルキーは私が生まれる前からスターミル家に仕える大切な人物です。彼女のことは昨日にでも教えていただきたかったのですが。」
大司教は、それまで背中で手を組んでいたのだが、呆れたような表情で腰に手を当て出した。
「俺は今、自分の部下ですら信用せずにいるんだぞ。あの姉妹がいる中で、そんな話ができるか。それなりの取り引きがなければ、いかなる人物も頼れない。」
これは最もだと思ったので、マーガレットはそれ以上言及せず、濡れた髪を掻き上げながら話題を逸らすことにした。
「それで、これから私達はどちらへ?」
「そこだな。いま言ったが、取り引きなしには誰も頼れん。しかし、今後も俺たち二人きりで行くには限界がある。契約を交わして、誰かしらの手を借りねばならん訳だ。
この森を抜けると『第二教区』に入る。『ナツガレオ』という街に覚えがあるから、そこに向かうこととする。」
「ナツガレオ……。大きな街だとうかがっておりますが。」
マーガレットが言った。
「まぁ、それなりにだな。だが、街の中では隠れて移動することが難しい。お前と俺は、素性を隠す必要がある。そこの連中は、バンベガンのように俺の顔を知らないから、なんとか誤魔化せるはずだ。お前は巡礼者のまま、俺はお前に付き従う聖堂兵見習いとでも言っておこう。」
「えぇ……!? 大司教様が
マーガレットは本当に嫌だった。なにぶん、普段の大司教が高圧的な態度をとるので、それを覆すのは気持ちが悪くて仕方がないのだ。しかし残酷だが、大司教本人にその様子はない。
「そうだ。普段の関係が垣間見えては困る。多少は偉ぶれよ。」
大司教はそう言うと、止む気配のない雨を確認してから続けた。
「それと、俺の呼び名を決めておこう。俺はセンスがないから、お前がやれ。適当でいい。ありきたりな名前でも、それが俺の名前だ。」
無茶なことをいうものだ。少女は、そう心の中で悪態をつかずにはいられなかった。マーガレットはしばらく悩んだが、切羽詰まったときはどうにも閃かないもので、身近な人物の名をあげるしかなかった。
「へ、ヘンリ──。」
「ダメだッ!!」
マーガレットが名前を言い切らない内に、突然大司教は声を荒らげた。驚いて動かなくなったマーガレットを激しい剣幕で見つめていたが、その内我に返り、顔をしかめながら声を絞り出した。
「……それはお前の父親の名だろう。身内の名前はダメだ。……悟られる。」
大司教はそう言ったかと思うと、硬い地面に腰を下ろし、何を言わなくなった。マーガレットはゆっくり体を動かし始め、雨音で掻き消されるような小声で、そっと応えた。
「考えておきます──。」
雨は次第に強くなり、洞窟に座り込む二人を鬱屈した世界に閉じ込めた。雨の叩きつける音がやかましく響いているのに、二人にとっては、永遠の静寂のように感じられた。その内二人は、ほんの一瞬互いの存在を忘れた。
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