魍魎記(もうりょうき・本当は怖い自然の逆襲)

上松 煌(うえまつ あきら)

魍魎記(もうりょうき・本当は怖い自然の逆襲)

       1


いきなり、ストンと落ちるように日が暮れた。

秋の陽はつるべ落としだ。

シーズンギリギリ。

いわゆる「まづめ時」の釣果に、時を忘れていたのだから、ま、仕方ない。

左に沢音を聞きながら、薄暗がりでワンタッチ・テントを設置した。

わずかに高台で、シャガの群落に囲まれている。

少し上流は切り立った滝で、クライム装備がなければそこで行き止まりだ。


馬蹄型のここは、初めて釣り上った場所だが、印象はいい。

雨模様の湿った天気のせいか、ヤマメの食いが良かったからだ。

ただ、どん詰まりの地形のせいか、まとい付くような夜気が少々不快だ。

それでも自然のなかでは、ぜいたくをいえばきりがない。

きれいな婚姻色の、むっくりしたいいカタを2匹、軽く塩をふって串焼きにする。

あたりは濡れているからたき火ではなく、エスビット・ストーブのラージサイズだ。

安酒を片手に至福の時に突入する。

(え?)

古い干物のような食感で、変に臭い。

ここからは見えなくとも、上流に廃棄物処理場でもあるのだろうか?

とにかくヤマメの香りではない。

試しに、もう1匹をそのまま骨酒にしたが、朽ちた動物のような腐肉の味がした。


 パラパラと雨音がする。

また、降り出したのだろう。

オイル・ランタンを掲げて外を確認する。

雨粒がやけに白っぽい。

しかも地面や草葉に当たって、霰か雹のように跳ねる。

手で受けてみた。

冷たくはない。

(え?)

コールマンの大光量の灯りに正体が見えた。

人間の歯。

小さな小さな乳幼児の歯だった。

それがあたり一面に降りかかる。

外に放り出し、思わず入り口を閉じた。


 びっくりはしても、冷静さを失うほど未熟ではない。

源流釣りに限らず登山などでも、幻覚幻聴は日常的に起こる。

人間の精神は弱い。

人里を離れ、自らのテリトリーを失うだけで疑心暗鬼は妖怪を作り出すのだ。

背筋がざわつく予感がして、クーラー・ボックスを開ける。

10匹以上のヤマメを確認して愕然とした。

すべて左目が抜けていた。


       2


このヤロウ。

恐怖よりも、してやられた感がある。

カワウソの仕業だ。

この動物はなにも四万十川だけに生息するわけではない。

人知れず全国にいる。

ヤマメの目が好物で、バレないよう必ず片側だけ抜いて食う。

多分、幻の乳歯の雨に気を取られている隙に、やすやすと目的を果たしたのだ。

ヤツラのサルのように器用な指先は、クーラー・ボックスくらい簡単に開ける。

ただ、目的を果たせば、開けたものをわざわざ閉めることはしない。

ボックスのフタはきちんと閉められていたような…?


 酒は止めにした。

酔っていると感覚が鈍り、化かされやすくなる。

特に文明に慣れきった現代人は、ちょっとした不条理でたちまち平常心を失う。

自ら、ツマんでくださいと言っているようなものだ。

ワ~ンという耳鳴り。

満タンのオイル・ランタンがホロホロと暗くなる。

あえてそれを無視して、あたりに気を配る。

さっきは味覚を狂わされたが、カワウソが執着してくるところを見ると、美味いヤマメなのだ。


 いきなり、夜明けのように外が白々する。

一見、怪現象だが、山ではよくあることで、柳田國男の遠野物語では「シロミの山」が有名だ。

地底の岩盤などの崩壊によるプラズマの漏光らしく、山梨県嵯峨塩鉱泉の「前の山」で数回経験している。

あわてず騒がず、状況を観察する。

テントの生地を通して、あたりのシャガの葉が揺れなびくのが見える。


 (え?)

光がどのように当たっているのかは知れないが、その影は幾重にもテントを取り巻いている。

先端が5枝にわかれ、周り中、いく百となく揺らぎ招くさまは、間違いなく幼児の手だ。

だが、その動きはビラビラ、ゆらゆらと、内部に骨を持たない葉そのものだ。

「ふ、未熟者め。動きにまで手が回らないのか」

余裕が生まれる。

周りのありさまより、クーラー・ボックスを注視する。

白い光は間もなく消えた。


       3


 ドザァ~っと風が渡り、木の葉が舞い落ちる。

(え?)

軽いポテポテ、ポタポタという音がテントのあちこちからする。

外はもう暗いから、その正体がわからない。

明らかに枯れ葉や雨ではない。

もっと実態のあるなにか。

柔らかい果肉の、たとえばドドメ(クワ)の実のような?


 テントの天井近くに下げたオイル・ランタンが、いきなり高く燃え上がった。

ツマミを回す間もなく、正常に戻る。

それでも化学繊維の布地には熱気でみるみる穴が開いた。

ボロボロという感じで、何かが大量に転げ入って来る。

(え?)

思わず立ち上がる。

天井が低いから、かがんだ頭から浴びる感じになって、ちょっとあわてた。

丸まっちいカタチが床に落ちると伸びる。

尺取り虫? 

いや、違う気がする。

上半身から下半身にしがみついたソイツらを灯りで見て、心底ぞっとした。


 ヤマヒル。

のたくるヤマヒル、ヒル、ヒル、ヒル、ぬめ光るやまひる、ひる、ひる、ひる、ひる、おぞましい山蛭。蛭。蛭。蛭。蛭。蛭。蛭。蛭。

素肌の頭、顔、首、肩。

服の背、胸、腹、腰、尻、腿、脛、足首。


 びっしりとついた赤褐色に黒い三本筋が、いっせいに伸び縮みする。

獲物を求めるかのように立ち上がる、最大10センチの伸縮の先には、凶悪な吸血口を持つ。

身の毛がよだち、髪が逆立つ。

これほどの数は見たこともなく、目にするだに気色悪い。

さすがに硬直して動けない。

思考停止し、切迫した脳味噌のどこかで、かすかにヒル避けスプレーが浮かぶ。

だが、ザックの上にも床にも、折り重なるおびただしい赤褐色。

嫌悪で足すら踏み出せない。

ハッと我に帰って、必死で体中からむしり落とす。

両掌に不気味な弾力と、えぐいようなヤマヒルの臭気。

伸縮性に富むその体は、登山靴で踏みにじったくらいでは千切れないほど丈夫だ。

今にも吸血がはじまる気がする。

これだけの数に吸われたら、いったいどうなる?

最悪、否応なくミイラ化だろう。

自分自身の身震いするような想像に、自分で恐怖する。


       4


 外、外に出るしかない。

いや、待て。

化かされているはずだ。

こんな現象は現実にはありえない。

目を覚ませ。

熱気で唯一、ヤツラが取り着いていないランタンをわしづかみにする。

(熱っ)

緊急時の過激な行動だった。

思わず掌を押さえ、前かがみになってやけどの痛みに耐える。

これで正気にもどるはずだ。

祈る気持ちでそっと目を上げる。

だめだ!


 周り中を異様な色に埋め尽くして蠢く、顎ヒル目ヒルド科。

基本、この環形動物に寄生虫や病原体、毒はないというが、まれにアレルギー反応が出る。

これは噛まれた部分を中心に、蛇にでも巻きつかれたかのように青黒い帯状の変色が出るらしい。

おまけに皮膚がうろこ状に変化するというからえげつない。

恐ろしいのは、これだけ数に吸血された場合、体内に注入される溶血液はどのくらいになるのか?

出血がとまらずヤマヒルにうもれて死亡もありえる。

冗談じゃない。

死に物狂いで、一歩踏み出す。

靴下の下で変なキュゥィ~というかすかな声と、張り付くような不気味な弾力。

もろに伝わる、ニュウ~っと伸びる気配や堅く丸まる蠕動(ぜんどう)。

気色悪さに総毛立ちながら、入り口のジッパーを引き開ける。

ウザウザとさわめく音が急に高くなった。


       5


 (え?)

地面が茂みが、ランタンの灯りにゾワゾワと蠢く。

重なり合いうねり合い、びっしりと敷きつめたようなソイツらが、一定方向に前進しているのだ。

見渡すかぎり、光の及ぶ限りの世界がのたうち這い進んでいる。

現実とは思えない。

文字通り、この世のものではなかった。

戦慄が理性を完全破壊する気がする。

放心状態で突っ立ったまま、指一本動かすことが出来なくなった。

  

 視界いっぱいの揺れ動くぬめり。

折り重なって盛り上がり、おびただしい列がうねり進む。

熱帯では軍隊アリの進軍が恐ろしいというが、これのほうがはるかに不気味で、生理的にたちが悪い。

周り中のウザウザが、軽めのワシャワシャという音に変わり、やがて川下のほうへ移る。

這いずる音はしたいに小さくなり、遠ざかってやがて消えた。

それで気づいた。

現実だ。

これは化かされたのでも、脳の誤作動でもない。

現実の自然現象だったのだ。

話によれば、ヤマヒルは秋の終わりに暖地を求めて、数百メートルも山を下るという。

その大移動に遭遇したのだ。

緊張がやっと解けてあたりを見回す。

吸血の跡がないか、自分自身を確かめる。


 無傷だった。

あれほどいたヒルどもは必死にテントの穴を抜け、仲間とともに這い下って行ったのだ。

ヤツラの人間を嗅ぎつける嗅覚は、外気にも鋭敏だ。

膨大な量の仲間が放つ匂いもテント脱出の一助になったのだろう。

おかげでこっちも助かった。

ウゾウゾと足の裏でのたうつ感覚。

そうだ、踏みつけたままだ。

硬直したままの足を引きぬくようにどけると、人間の体重くらいじゃビクともしない個体は、いっせいに伸縮しながら全速力で、開けっぱなしのテントを出て行った。

全身の脱力でよろめく。

それでもへたり込む前に床を確認するのを忘れなかった。

しばらくは物を移動するたびに警戒する。

だが、見る限り、もうヒルは一匹もいなかった。


       6 


 とにかくテントの穴を布テープでふさぎ、茶を入れて気を落ちつけた。

クーラー・ボックスを確かめるとヤマメは無事だ。

あの大移動ではカワウソもびっくりで逃げたのだろう。

やっと平穏が戻った気がする。

寝袋を広げ、中も外も入念にヒルよけスプレーで清める。

興奮で寝る気もしないが、夜が明け次第、沢を下るつもりで横になった。

それでも暗いのはイヤだから、オイル・ランタンを微弱にしてある。

うとうとしたころ、右手首が変にチクチクしたかと思うと、だるいようなむずかゆさを感じた。

眠くてしばらく放置するも、次第にガマンできなくなってくる。

寝ぼけ眼でかきむしる。

ズニュルっとした違和感。


(え?)

がばっと跳ね起きた。

ランタンの明かりに丸々と血ぶくれたヤマヒル。

幅・厚み2センチ、長さ8センチもあるヤツが脈動する静脈に吸いついていた。

ハッとして、瞬間的にランタンに押し付ける。

そいつはヒャンッという感じでポロリと落ちた。

あれたけの数が移動して行ったのだ。

血に飢えた貪欲なヤツの一匹くらい、見落としていてもおかしくはない。

テントの外に放り出した。

傷口の溶血液をざっと絞り出してから、流れる血をタオルで押さえる。

これから2~3時間は止まらないだろう。

大きめの傷テープを出して張りつけた。


       7        


まだ、0時前だ。

帰途に着く明日にそなえて。もうひと眠りはしておきたい。

再び寝袋に潜り込む。

目を閉じると、どこか遠くでカンカンという音がする。

規則的でどこか人為的な響き。

(え?)

思わず耳を澄ませてしまう。

昔の樵人(そまびと)が木を伐採する音そのままだ。

だが、これは以前に、群馬で経験したことがある。

「天狗倒し」という、深山の怪音に違いない。

この斧音の後には必ず、ドドド~ンという大木の倒れる音がして終了になる。

どういう自然現象なのかは知らないが、そういう経過をたどるのだ。


だが、これは近づいてくる。

深夜にもかかわらず急速に接近して、まるですぐそこ、テントのすぐかたわらで聞こえる。

カンッ、カンッ、カンッ。

ズザサッ、ズザザザサッと、大木が倒れる直前の梢のざわめきまで聞こえる。

こっちに倒れてくる気がして、背中がゾクゾクする。

あり得ない。

理性がささやく。

また、カワウソだろう。

人をたぶらかすこの動物は、昔からしつこく化かすので有名だ。

ヤマヒルの大集団が去ったので、またクーラー・ボックスを狙ってきたに違いない。 


 メキッ、ギシシシ、バキバキッ、ギギギシィギュ~ォ、ドザザザザァッ。

幹が割れ裂け、枝や葉が引きちぎれる音だ。

思わず首を縮めてひれ伏す。

ドガラガラ、ドドド~~ンッ。

間違いなく現実的な倒木の音とともに地面が震える地響き。

ぞっとするほどリアルだったのは、テント内にフワリとした葉風が生暖かく吹き渡ったことだ。

木が倒れたのは外部だから、本来なら内部に葉風はありえない。

カワウソの仕業なら悔しいが、心底、肝をつぶした。


 あたりがシ~ンとすると、今度は気になって仕方がない。

あれだけリアルな音と地響きと風圧だ。

外はどうなっているのだろう?

一応、サバイバルナイフの刃をむき出しにして、クーラー・ボックスの上に置く。

カワウソよけだが、効果はまぁ、不明だ。

ランタンの光量を最大にして、そっとテントを引き開ける。

灯りに照らされて近くの木や茂みが浮かび上がる。

見渡しても変化はないようだ。

少し安心する。

夜の闇を恐れてはテント泊などできないから、周りの暗さはそれほど苦にならない。

そっと踏み出す。

靴下から感じる夜露にぬれた草はいつもどおりだ。

周りは実に平穏だった。

大きなものが倒れたあとの荒れた感じは全くない。

眠気をさそうような深夜のせせらぎの音も変化ない。

やっぱり、ただの自然現象なのだ。

安堵のため息をついた時だった。


       8


 (え?)

光。

青白い光がまっしぐらにやってくる。

火の玉?

目の残像のせいだろうか、薄く尾を引いている。

恐怖はないが、あんまりいい気分ではない。

1メートルくらいの大きさで、ファササッと羽音を立てて対岸の木にとまった。

ワギャアァ。

ひと声鳴いた時、パラパラと火の粉のようなものが落ちた。

これでわかった。

妖怪でも化け物でも心霊でもない。

正体は「ヤマドリ」だ。

これはキジのメスのような色と形で、キジが平地に住むのと違い、山で暮らしている。

「ヤマドリが光る」

「ヤマドリは火の玉を飛ばす」

昔から言われるこれらは、帯電した静電気のせいで、主に尾が光るのだそうだ。

さっきの火の粉は抜け落ちた羽毛らしい。

夜に飛ぶ鳥は多いから、人魂現象の一部は、こうした鳥の生体電気かも知れなかった。


 ワギャアアァッ。

すぐ後ろの声。

一瞬、ビクッとする。

ヤマドリか?

ランタンを掲げて振り向く。

(え?)

ほんの3~4メートル先に人がいる。

深夜だし、ぞっとするような胡乱な気配があった。

それでも服装に見覚えがある。

きのう、車を本流の駐車場に置いたとき、追分になっている向こうの沢から上がって来た人だ。

赤っぽいレンガ色の上下に、ビニールのようにテカテカしたあずき色のベストを着こんでいた。

笑顔のいい人で、会釈をした時の明るい顔が印象に残っている。

今もその笑顔を向けていた。

矢継ぎ早の不慣れな現象に、精神的に痛めつけられたあとだ。

その人がなぜそこにいるかも不思議に思えないほど人恋しくなっていた。


       9


「こんばんは」

その人が先に声をかけて来た。

「ここに来なきゃならない理由が出来ちゃって…」

言葉を濁して、ちょっと気弱にニコニコする。

なぜか、ピンと来た。

「ああ、アレですか?アレに出くわしたとか?」

「ええ、アレです」

やっぱり同じように、ヤマヒルの大移動に遭遇したのだ。

きっと釣り具もテントも放棄して、ほうほうの体でここまでたどって来たのだろう。

とにかくテントに招き入れた。

50歳くらいの人で、自分より一回り以上は年上のようだ。

急いで茶を入れてふるまう。

その人はあわてていたのだろうか?

いきなり茶をすすりこんだ。

「ワァツッ」

コッフェルを放り出して、猛烈に熱がっている。

こっちもびっくりしてタオルなどを差し出した。

「猫舌なもので…。本物の猫ちゃんの舌ならかわいいですが、人間がコレじゃね。すみません、ほんとに」

テレかくしの言葉にも人柄の良さを感じる。


思い付いて、クーラー・ボックスを見せた。

「けっこう、釣果があったんです。どうです?良ければ味見を。焼きますよ」

「いや、うれしいな。あっ、わたし、比留間(ひるま)と申します。地元なんです」

その言葉に、こっちも急いで名乗る。

「鳴沢です。ああ、比留間(ひるま)さんは確かにこの辺に多いお名前ですよね」

心楽しくなって、酒も洗いざらい出した。

比留間さんはヤマメを一匹々、丁寧に見てくれている。

「うん、いいカタですね。これは生にかぎるな」

クーラー・ボックスを覗き込むと、なんだか魚がやけに劣化している。

真夏ではあるまいし、今頃の気温でこんなに鮮度が落ちるだろうか?

「え?今、焼きますよ。ちょっと生じゃ危なそうです」

「いやいや、おかまいなく。大丈夫、問題ない。ああ、みんな片目がないな。カワウソでしょ?こういうのが美味い」

「ええ、危うく化かされるところでした。でも、ボックスのフタは閉まってた気が…」

「あはは、カワウソは今、数いますから。天然記念物なんてウソ。学習していてフタくらい閉めますよ。じゃ、ちょっと失礼して…」

1匹をうれしそうに口元に運ぶ。

本当に生でほおばる気らしい。

地元の食べ方なのだろうか?


じゅぽっ、びちゃびちゃちゃじるじるじゅるじゅるじゅぅ~じゅじゅじゅっ。

異様な音が響いた。

かじるのではなかった。

吸いついてすすり上げている。

ちょっと戦慄した。

生魚の生臭い臭気があたりに漂う。

やっぱり鮮度はかなり落ちている。

あっけにとられた視線に気づいたのだろう。

「慣れないかたは驚きますよね。でも、これが美味い。やってごらんなさい」

魚のぬめりと体液と本人のよだれでべちゃべちょの手で、ヤマメを取って差し出す。

その口元も顎から汁のしたたる胸元もテラテラとぬめ光っている。

そのさまや服の色は、なんとなくヤマヒルを思わせる。

「いえ、けっ…こうで…す。いや、ほんとに…でも、だめ。…あ、いや、で、では…ひとつ…。いや、違うっ。いらな…い…。お、お…お相伴…を」

自分で自分が自由にならなかった。

気色悪さに全身で拒絶しているはずなのに、手はヤマメをつかんでいる。


       10


 (え?)

比留間さんの顔が変わって見えていた。

横に離れた小さな目。

突起状の、変に光る感情のない目。

一瞬、カワウソ?と思った。

だが、突出した感じの小ズルそうな丸い目ではない。

いや、化かされているなら正体は判別できないはずだ。

ヤツラでないと考えるのは早計過ぎる。

やはり、カワウソか?

だとしたら、たやすく化かされてはいけないのだ。

思考が撹乱される気がして途切れる。


生臭さが強烈に鼻に来た。

もう、半分腐りかけている気がする。

反射的に猛烈な吐き気。

それでも自分の手はヤマメを口元に運んでくる。

神経が理性が、嫌悪に震えあがって拒絶する。

口が意に反して吸いついた。

ちゅぱっ、ちゅるちゅるじるじるじるるるじゅるじゅるじゅぅ~。

異様に臭い、えぐくてにが甘い、生魚の腐汁が口いっぱいに溢れ、それを飲み込んでしまう。

体が拒否するのか、げぼっと吐いた。

だらだらと吐瀉液の混じった生臭い粘液が胸に流れる。

「あれ、鳴沢さん、もったいない」

比留間さんがそれに吸いつく。


 ちうちうちゅっちゅっちゅうぅうじるぅ~。

異様な光景だ。

ぞわぞわと鳥肌がたっているのに、口をほとばしる言葉はまるで別人だ。

「あ、すみませんねぇ、…ほんと、もったいない…恐縮です」

自分のセリフを心底疑った。

ちゅばっちゅっちゅっちぱちぱちっちっちっちっちちぃ。

「ほ~ら、みんな吸い取りましたよ。いや、美味かった」

比留間さんは異様にちっこい目をうれしそうに細めた。

そして几帳面にあいさつする。

「じゃ、もう、お休みください。わたしは失礼しますから。では、また」

そう言う体全体が、妙にうぞうぞ蠢いて見えた。

頭も手足も赤っぽいレンガ色の服にうずもれていく。

立ち上がるかわりにドタンと腹這うと、体が相撲取りのように膨張した。

羽織ったベストが、ぬめ光りながら全身をおおう。

そのままゾリゾリと蠢動しながら、彼はテントを這いずり出て行った。


       11


 空のクーラー・ボックスが見えていた。

頭がボーッとしていて、やたらと楽しい記憶だけが残っている。

「比留間さん、いい人だったなぁ」

つぶやいた背中が無意識にぞくりとする。

(え?)

何か重大なこと、思い出さなければならない肝心なことがあるはずだった。

鋭敏になった危機感が繰り返しそれをささやくのだ。

それでも弛緩した脳味噌は、間延びした感覚にしがみつきたがる。

「ああいう人と友達になりたいものだ」

自分で無意識に言って、また、ぞわりとした。

徹底して拒絶しなければならない何かが、比留間さんの滞在中にあったはずだ。

でなければ、失われた記憶にこんなに戦慄はしないだろう。

だが、思い出せる限りのそれは、霧のように漠然として、実態が浮かばないのだ。

考えようとすればするほど、無性に眠気がさしてくる。

すべてがどうでもよくなってくるのだ。

あくびが立て続けに出る。

もう、寝るしかない。

考え事は明日でいい。

寝袋に手を伸ばして引き寄せた。

一瞬、潜り込もうをした体が止まった。


 ワギャアアァッ。

(え?)

テントの真上での叫び声。

ワギャアアァッ。

ワギャアアァッ、ワギャアアァッ。

ワギャアアァッ。

立て続けの声はヤマドリだろうか?

眠気も吹っ飛ぶような嫌な声だ。

泣きじゃくる赤ん坊の声に似ている。

もう、クーラー・ボックスにはヤマメはないから、よもやカワウソではあるまい。

ちょっと息を殺して様子を見る。

異様なワギャアはまだ続いている。

これでは眠れないから、全く迷惑な話だ。

しばらく聞き耳をたて、ほかにも怪しい音がないかを探る。

声は薄気味悪いが、ただ鳴いているだけだから害はなさそうだ。

またもやランタンをかかげて、不承不承外をうかがった。

ザササササ~という葉ずれの音。


 やはり鳥か?

目の前の杉の大木。

真っ赤な何かが幹を上下している。

近いから、ランタンの明かりは十分届いている。

(え?)

赤子?

向こうも気付いたらしく、幹から移動してくる。

赤剥けのぬらぬらした粘液を杉の枝に引きずって、そいつがこっちを見下ろした。

ワギャアアアアァッ、ワギャアアアアァッ。

ワギャアアアアァッ。

突ん裂けんばかりの大声だ。

威嚇だろうか?

さすがにぞっとした。

まちがいなく生後10カ月くらいの赤ん坊だ。


ぬれぬれの赤裸(あかはだか)で、しかも顔には縦に目がついている。

プラナリア、なぜか扁形動物のソイツにそっくりの顔つきだった。

縦に狭く並んだ寄り目にはプラナリア同様、眼球を形成する水晶体(レンズ)がない気がした。

目を合わせたまま、しばらくは動けなかった。

ワギャアアァッ。

ワギャアアァッ。

声とともに、いきなり真っ赤な体が伸びた。

枝に腹這った首がにゅう~っと、獲物を狙う蛇の如く垂れ下がって来る。

避けようにも体は見込まれたカエル状態ですくんでいる。

たらたら~っとしたたる粘液。

赤ん坊の乳臭い匂いというのだろうか?

甘ったるい、ぬめっとした臭気が濃密に漂ってきた。

妙なことになんとなく焦げ臭い悪臭も。

ソイツの顔はもう、上から触れんばかりだ。

プラナリアに捕食されるアカムシになった気がした。

息がつまり、硬直した背中を冷や汗が流れる。


       12


あきらかにソイツがニタリと嗤った。

大人より体温の高い赤子の生暖かい息が顔中にかかり、思わずムセた。

それで一瞬、体が自由になった。

必死で後じさって距離を取る。

ワギャアアアアァッ、ワギャアアアアァッ。

多分、嘲笑だったと思う。

ソイツは思いっきり喚いてから縮み、ザササササ~と樹冠を目ざして消えて行った。

しばらくは動けなかった。


一体、あれはなんだったのだろう?

醜悪な声はヤマドリに似ていなくもない。

あの時、飛んできた青白い火の玉は、鳥の静電気ではなかったのだろうか?

とにかく薄気味悪いヤツだったが、人を脅かすだけで去っていったのは幸いだった。

赤子の姿で人をたぶらかす「山の怪(やまのけ)」は、実際に幾つかいる。

筆頭は「オボ」というモノだ。

これは山中にひとりでいると、なぜか周り中から赤ん坊の泣き声がわき出す。

とくに夕暮れ時が多く、肝をつぶして逃げれば逃げるほど後を追って声が大きくなる。

山じゅうに鳴り響くほどの声になるというが、姿は見せない。

つぎは「山わろ」。

山に住む童(わらべ)の意味で、10歳ばかりの子供の姿をしているといわれる。

川に住むカッパが山に入ると「山わろ」になるらしいが、赤子の声で泣くとは聞いたことがない。


いちばん可能性の高そうなのが「川赤子」の気がする。

川や沼、大きなため池などに住み、泣き声を上げて人をたぶらかし、水に引き込んでしまう。

だが、よく考えてみればここは確かに、水に関連する渓流はあるものの、ヤツは杉の上にいた。

その他、子供に人気の「子泣き爺」も赤ん坊の声で泣くが、姿は老人だし、マイナーな「ノツコ(野にいる子供)」も声だけの妖怪だ。


そうなると残りは現実的な動物になる。

カワウソやキツネ・タヌキも赤ん坊の声をまねて化かすことがあると言う。

だが、クーラー・ボックスにヤマメもない今、動物の行動とは思えない。

深夜であることを考えると「ぬゑ」はどうだろう。

これは虎ツグミという鳥のことだ。

じゃあ、火の玉はヤマドリではなく、「ぬゑ」だったのだろうか?

それでも疑問は残る。

「ぬゑ」は実に気味悪い声で鳴くというが、赤子の声という伝承はない。

まして、自分の姿すら見せない鳥だ。

赤ん坊の姿で人目に触れることはないだろう。


       13


 ドッパァ~ンン。

いきなりの水音。

突っ立ったままだった自分が、ハッと我に帰る。

もう、逃げ腰だ。

冗談じゃない。

これ以上の怪異はたくさんだ。

バシャバシャ、バシャバシャという続けざまの水音。

かなり大きな生き物が沢に落ち込んだ感じだ。

この辺にはいないというが、熊だったら目も当てられない。

あわてたせいか、ズルッと転びかけた。


「ちょっとっ、だれかっ。助けてっ、だれかぁ~」

(え?)

続けざまの救助要請の声。

どう考えても人間の声だ。

ちょっと人には見せられないくらいの及び腰だが、とにかく岸に向かう。

心の中では、他人様の救助どころではないくらい怖じ気づいているのに、助けを呼ぶ声には本能的に体が反応してしまう。

灯りを高くさし上げた。


「どうしましたっ?」

自分でもあきれるくらいの愚問だ。

川の中央あたりで登山者らしい男がバシャバシャあばれている。

流されておぼれるほどの深みではないようだが、あわてているらしく、立ち上がろうとするたびにハデにすべって転んでいる。

まぁ、川苔はかなりすべるのは事実だ。

それでも冷静になれば足は着くのだから、気を落ちづければ命に別条はないはずだ。

たぶん、暗闇でうっかり川に落ちて、パニックになったのだろう。

ランタンの明かりに、かなり落ち着いてきたようだった。

「ハア、しょう…べん、ハアハア、しょっ小便に出てハアハアハア…それで…」

近くにテントでもあるのだろう。

本人もテレ臭いらしい。

必死に言い訳しながら、意識して平穏をよそおっている。

「いや、暗いと、だれしもこういうことがありますよ」

気持ちがわかるから、さりげなく慰める。

その人はこっちの岸に上がろうとして、やはり、急いだのだろう。


バッシャァァ~ン。

超派手にすっ転んだ。

「あいたぁ、痛たた~ぃ」

どこか打ったらしい。

情けない声に、水にぬれるのもかまわず手を伸ばしてやる。

「あ…あ、こりゃ…どう…もぉ、あぁ~りぃ~がぁ~~~とおぉ~おおおおおぉぉ」

いきなり、相手の声が異様にくぐもった。

おまけに不気味に間延びする。

まるで古い伸びきった磁気テープを再生したみたいな、薄気味悪い低音だ。

半身だけ水の中だからおぼれているわけではない。

同時にむんずと手をつかまれる。

ヮギャアア~~ッ。

思わず戦慄のあまり、さっきの赤子なみの叫声を張り上げていた。


       14


 手。

生きた人間の手ではなかった。

土座衛門。

どう見ても水の浸透圧で真っ白に膨れ上がった水死体のそれだ。

驚愕と恐怖で、反射的にランタンを叩きつける。

ブワッと顔にめり込んで落ちない。

ねとっとふやけたロウソクのような皮膚が破れた。

薄黄色のチーズ状の脂肪と、崩れた筋肉組織らしきものがプルリと吹き出し、ダラッと垂れ下がる。

壁に鼻をぶつけるような、ものすごい腐敗臭。


うそ。

うそだろっ。

さっきまで間違いなく人間だったのだ。

会話もしたし、風体も動作も全くの人そのままだ。

それが突如として、ゾンビの如く動く腐肉に変わったのだ。

夢なら覚めてくれ。

「は、離せっ、バカッ。たた、たす、助けてやっただろ~がっ」

「あぁ~りぃ~がぁ~~~とおぉ~おおおおおぉ~ごぉざあぁぁまぁ~すぅぅぅ」

実に不気味な声に、総毛立った。

何を言ってもムダだ。

コイツの言う、ありがとうは、感謝の言葉ではないのだ。

いや、感謝しているからこそ、かえって取り縋って来るのか?


死に物狂いの馬鹿力で岸辺を離れようともがく。

テントの中にはサバイバル・ナイフがある。

恐怖と憎悪を通り越して、怒りに変わっていた。

人の善意を仇で返す魍魎(もうりょう)め。

切り刻んでこまぎれにしてやる。

「ちっくしょおおおっ、許せねぇっ」

自分の体を力いっぱい引きもぎろうとすると、ソイツは白い餅かゴム風船のように長く伸びる。

冷え切った水死体の手が、ガッシリ手首をつかんだまま離れない。


するするとヤツの両腕が、胴体にからみつく。

まるで邪悪な白蛇に見込まれたようだ。

ラオコーン像のように引きはがそうとしても、異常に強い力で締め上げてくる。

じりっ、じりっと水辺に引き寄せられる。

膨れ上がり腐乱し、もとのご面相をとどめない顔に、ランタンが食い込んだままだ。

そのすぐわきの、白く濁って突出した目が瞬きもしないで見つめてくる。

悪夢以上の悪夢だった。

もう、堪えられなかった。

気味悪さで発狂しそうだ。

「助けてくれっ、だれか、だれかいないのかっ」

ついに暗闇に向かって死に物狂いの声を張り上げる。

同時に、どうせムダだと悟る。

こんな丑三つ時に人がいるとは思えない。

「くっそおぉぉ~、化け物めっ」

錯乱で声が裏返った。


       15


(え?)

声。

自分の悲鳴ではない声。

どこかで声が聞こえた気がした。

ズリッと、ヤツの力がゆるむ。

希望が蘇って力が倍加した。

蹴りを入れると同時に、体を半転させる。

腕を伸ばしてランタンを顔から引きむしる。

ジュポッ。

粘着質の音とともに、腐液とドロドロの人体組織片が飛び散った。

汚液でぬらぬらのランタンをそのまま大きく振って、力いっぱい脳天に叩き込む。

頭頂骨に当たったらしく、カーンとしっかりした音がした。

以外に骨のあるヤツだ。


 「さん。…沢さん」

声が呼んでいる。 

「鳴…さん、ね、ちょっと」

沼から浮き上がるような混濁した意識が、声につれて覚醒する気がする。

「どうしました?鳴島さん?」

だれかがそばにいた。


 (え?)

覚めた目に、きのうの比留間さんが見えた。

それと同時にあれほどの悪夢の記憶が、すうっと遠ざかって曖昧になる。

「あ…。なんか、夢見ちゃったみたいで…」

「そうですか。もう、朝まずめも過ぎましたよ。寝坊しちゃったんですねぇ」

本当に人のよい笑顔だ。

起き上がると、すっかり明るくなった外が見えた。

「きのうは楽しかったですね。だからというわけではないですが、友達をひとりお連れしました」

言われてみれば、彼の後ろにだれかいる。

よく見るとやっぱり50代くらいの人だ。

キリンのようにヒョロ長い体型で、ちょっと暗いカラシ色の上下にベージュのフィッシング・ベスト姿だ。

色合いは比留間さんよりシックだったが、妙なことにカラシ色には細かい横縞が入っていて、ミミズの体節を思わせた。

そういうイメージが浮かんだからだろうか?

ベストが環帯に見えてくる。

初対面の人に本当に失礼な発想で、急いで打ち消した。


       16


「鳴島さんですね。わたし、九谷(くがい)といいます。「ここのつ」の「たに」と書いて、くがいと読むんです。わたしも地元なんですよ。いきなりおじゃましてすみません。よろしくおねがいします」

比留間さん同様、この人も感じのいい人だ。

かなつぼまなこ、というのだろうか。

おちくぼんだ小さな目が、ちょっとひょうきんだ。

内心、夜が明けたら帰ろうと思っていたのだが、なんだか帰るのが惜しくなる。

どうせ三連休なのだから、あわてることはない。

ただ、テントがひとり用なので狭くて申し訳ない気がしたが、背の高い九谷(くがい)さんは半分はみ出しているほうが楽なようだった。

手土産にワンカップみたいな酒をたくさん持ってきてくれていた。

いろいろな種類を取り交ぜてある。

だが、中にはラベルが劣化したような古いものもあって、どこかの社からでも失敬したような感じだ。

ま、地元の人だから、自分が供えたものを回収してきた可能性もある。

深く考えないことにした。


 一方、比留間さんの持ってきた乾き物は、何の変哲もないフツーの市販品だ。

酒のツマミに頓着しない人らしく、ナッツ類やビーフジャーキなど、軽くて荷にならないものばかりを選んでいる。

自分も漬物やパック温野菜などを出して、楽しい酒盛りが始まった。

最初はご多分にもれず、釣果自慢や失敗談だ。

ふたりとも話が上手くて、本当に心から笑えた。

自分も少し話を盛って面白おかしく披露したが、彼らの相槌も突っ込みも、明るく節度のあるものだった。

こういう、気の置けない人たちとの交流はうれしいものだ。

三人とも大いに飲み、かつ、しゃべった。

話がいち段落したころ、九谷(くがい)さんが言いだした。


 「せっかくですから、地元の話でもいかがでしょう?このあたりにもけっこう、曰くのある地名が多いんです」

「彼、けっこう詳しいんですよ」

比留間さんもニコニコと言い添えてくる。

「そうですか。じゃ、お願いします」

よそからはるばる釣りに来た者にとって、その土地々の内輪話や伝承は興味深い。


話はいわゆる「忌み地」についてだった。

日本の森林は3割が国有林野で、残りは都道府県・町村・企業・寺社・個人が所有する。

昔から材木の伐採管理や釣りを含む狩猟、山菜きのこ採り・炭焼きなどで、官・民問わず山への出入りは多い。

さらに信仰やレジャー登山なども加わる。

地図を見ればわかるが、小さな枯れ沢にもそれぞれ名前が付いていたりするのだ。


「そうだなぁ、鳴沢さんも知ってる所からはじめましょうか。ほら、下の本流のところに駐車場あるでしょ。そう、あなたが車置いたとこ。あそこは明治のころは大きな屋敷があったんです。それがどうしたわけか株に手を出したとかで、つぶれちゃった。しばらくは屋敷も残っていたようですが、荒れ果てた家屋から老女の低い念仏やなんとも言えない悲鳴のような声が響いたりして、だれも近づかなくなり、子孫が持てあまして町に売ったんです。そのまま【潰れ屋(つぶれや)】って地名でしたが、バス停の名前では【綴れ野(つづれや)】になってますよ」

「そんな経緯があったんですね。実は山ん中に平らな駐車場作るの大変だったろうな、って思っていたんです」

「今でも【潰れ屋(つぶれや)】では、明治のころの印版の欠け茶碗がでるっていいますよ。やっぱり、土地柄がよくないのか、先だって赤ん坊抱いて焼身自殺があったのもそこです。まだ、ジャリにガソリンの跡が残っているんですって」

比留間さんも地元だけになかなか詳しい。

「ああ、お気の毒に。赤ちゃん道連れじゃ、よっぽどの事情があったんでしょうねぇ」

自然に同情の気持ちがわく。

それにこの赤ん坊の話はちょっと記憶に引っかかるような…。

だが、正直言って気色悪い。

雨模様で地面の色がわからなかったから、悪くしたら自分の車をそこに止めているかもしれないのだ。


       17


「あとはこの先の【猪這い山(いはいやま)】ですね」

九谷(くがい)さんが、向かいの滝の上流にある山を指さす。

「猪でも這って登るような険しい所があるからだって、今は言ってますが、以前は登山地図でも【位牌山(いはいやま)】になってました。滝の上から正面に見ると頂上近くの岩山が仏壇の位牌の形、そっくりなんです。沢登りやる人の間では有名ですよ。この山にも持ち主がいたんですが、ある時、気がくるってしまって、位牌山から飛び降り自殺しちゃった。それからは三年にいち度くらいは遭難や行方不明者がでますよ。不思議なことにみんな、そこの滝の下流で水死体で見つかる」

「水死体ですか?イヤな所にテント張っちゃったなぁ」

心底、ボヤいた。

初日にヤマメの食いがよかったのは、事情通はイヤがってこの沢には入らないからかもしれなかった。

それに水死体を食っている可能性のある魚はやっぱりごめんこうむりたい。

なんだか、ゾクゾクしてくる。

水死体、つまり土座衛門のイメージがやけにリアルに浮かぶのだ。

それでもこういう話は興味津々だ。


「ほかには何かありますかね?」

「そうですね。そんなこんなでこの沢は【魂沢(たまざわ)】って呼ばれてます。魂。霊魂の通り道ってことです。よくいう霊道ね。ここを釣り上った人は、夕まづめによく人魂を見るそうですよ。不思議なことも起きるって言います」

「ああ、そうそう。そういえば、比留間さんに会う前に」

記憶がよみがえって来ていた。

「火の玉を見ましてね。ヤマドリだと思うんですが。その前には「天狗倒し」にあって、あんまりリアルなんでびっくりしました。そしてさらに前にはヤマヒルの大移動です」

「あはは、大変でしたね。ずいぶん色々な目に会ったんですねぇ」

比留間さんと九谷(くがい)さんが同時に笑った。


 「いや、ほんとに不思議満載でした。ここにテントを張ったとき、まだ、雨が降ったり止んだりだったんですが、変な音がするんで外を見たんです。手に受けてみると、なんと子供の歯、小さな乳歯だったんです。乳歯の雨。ゾッとしました」

「そりゃ、驚きますよねぇ」

九谷(くがい)さんが同情的な声を出した。

顔つきはなんとも言えない複雑な顔だ。

何か知っているような?

いや、半信半疑なのだろう、無理もない。

「自分でも信じていないです。多分、カワウソが化かそうとしたんだと思います」

「いや、案外、カワウソじゃないかもしれませんよ」

比留間さんが真面目に言った。

そしで自分の口を開けて見せた。

「ほら」

昼間の光で見る彼の口には、小さな歯がずらりと並んでいた。

ネズミっ歯(ねずみっぱ)と言うのだろうか、大人の永久歯の大きさではない。

子供の時に、生え変わらなかった乳歯そのままだ。

軽い奇形かもしれなかった。

「あ、ホントですね。かわいい歯だなぁ」

「いやいや、これでも、ね。なんでも食べられるんですよ」

彼はちゅうちゅうちゅうと音を立てて、ツマミのノシイカをすすって見せた。

まぁ、確かにそうすればなんでも食べられる。

そういえば今まで、比留間さんは食べ物を噛んでいたようすはなかった。


       18


だが、何だろう?

背中がゾクゾクする。

なにかが記憶に引っかかっているのに、それが思い出せない。

比留間さんと最初に酒を飲んだ時、確かに何かがあったはずだ。

それがなんだったか忘れたが、とても生理的に堪えられない何かだった気がする。

でも、記憶は途切れたままで戻らない。

思い出そうとするとゾワリと鳥肌が立つのだ。

自分の様子が変だったのだろうか?

比留間さんと九谷(くがい)さんが真剣な目を向けてくる。

「あ、いや、すみません。なんか、思い出せない、忘れちゃったことがことがあったような気がして…」

取りつくろうように言って、ふたりを見回した。


比留間さんがニタリと笑った。

いや、本当に口をゆがめて邪悪に嗤ったのだ。

「鳴沢さん、忘れているなら思い出したほうがいいですよ。ほら、例えばヤマメとか…」

おぞましい記憶に、もろに頭をぶつけた気がした。

そうだ。

あの時、彼は生のヤマメに吸いついてすすった。

確か、自分もすすめられるままにすすって、半分腐敗した生魚の生臭さと食感に耐えられず吐いた。

その吐瀉物も、比留間さんは当然のようにすすり尽くしたのだ。

それはまぁ、忍びがたきを忍んで許すとして、さらに問題はそのあとだ。

それは口にするだに…。


 「ま、まさか、あ、ああああなた」

信じられない気持ちに言葉が急いて、思わずドモる。

「ええ。鳴沢さんが思い描いているソレ、そのままです」

比留間さんが心を読んだかのように言う。

自分の頭の中には彼がテントから去っていくときの、巨大でぬめ光るあの姿が浮かんでいる。

どう考えてもある生き物に酷似した醜悪な姿…。

ゴクッとツバを飲み込んで、その言葉が口に出る。

「ひ、ひ、比留間さんはヒル?ヤマヒル?」

夢だ。

たちの悪い悪夢なのだ。

これは現実ではない。

何が何でも自分を納得させたい。

なんだか、とんでもない事態が迫っている予感がひしひしとする。

背中のぞわぞわが、どうにも止まらないのだ。

「う…うそでしょ?あ…あ、あなたは人間だっ。だって、口も利けるし、ね。ね?いっしょに酒も飲んだじゃないですかぁっ」

「ええ、楽しかったです」

フツーに答えて、比留間さんは九谷(くがい)さんを振り向く。

「彼もヒトではないんですよ」


あっちゃ~という気がした。

だが、九谷(くがい)さんは最初から、なんとなくミミズのイメージがあった。

おっそろしくぶっ飛んだ失礼な発想で、自ら否定したのだったが、それが現実なら冗談ではすまない。

「イヤだなぁ、鳴沢さん」

彼は苦笑いする。

「わたしはミミズじゃありませんよ。クガイでわからないかなぁ?クガイビルって聞いたことないのかな?」

「いや、クガイさん」

比留間さんが口をはさんた。

「一般に和名はコウガイビルっていうんですよ。昔の女性が髪に挿した髪飾りですね。クガイビルは方言ですから、鳴沢さんが知らなくて当然です。ま、正確に言えばコウガイビルはヒルではないですけど」


 「そ、そういうことじゃないっ」

混乱する頭で怒鳴っていた。

きっと、酒の座興にからかっているのだ。

無理にでもそう思いたい。

「いったいどどうなってるんです?比留間さんも九谷(クガイ)さんも、何がしたいんです?これは夢ですか、現実ですか?わ、わ悪ふざけにも程があるっ」

ふたりは生真面目な顔で黙った。

少しだけ沈黙があった。

「まぎれもない現実ですよ」

やがて比留間さんがキッパリと言った。

なんだか、裁判官の最終判決を聞くようだった。 

「残念ながら鳴沢さんはもう、ここから生きて帰ることはないでしょう」


       19


 「はあああっ?」

全身が疑問符になった気がした。

「ちょちょちょ、ちょっと待ってくださいよ。なな、なにそれ?あなたがたは何者なんですかっ?きっ気易く生かすの殺すの言わないでくださいっ。ったく、なんの権利があって…」

「権利はあるのですよ」

比留間さんの言葉はまるで犯罪者をさとすようだった。

「『どんづまりに小屋掛けしてはいけない』。この古くからの戒めをあなたは知らないわけではないでしょう?」

「え?あ、ああ、確かに…」


そういえば思い出した。

小屋がけとは現代的に言えば、テントなどを張ってその場所に泊ることだ。

どんづまりとは行き止まりのことで、この沢で言えばすぐ先の滝がどんづまりにあたる。

馬蹄形のこの形は清浄な気が滞って、邪悪なものに変化するため、変事や怪異、恐怖や生死にかかわるようなことが起きやすいとされる。

おまけに、さらに先に【位牌山(いはいやま)】がそびえるので二重の穢れ地ということになるのだ。

数ある山中や源流で、なぜか不思議に遭難や行方不明、自殺や凶悪犯罪が続く所があるのは、大っぴらに語られはしないが、それに関連している。

自然に感情はないが、意思はある。

昔から伝えられる、山や原野、川、海などでの禁忌は、けっして故なきことではない。

圧倒的な自然に対峙し、その神秘を認知できる人は、それを経験値により本能的に察知する。

いわゆるヤバイ場所、入ってはいけないところがわかるのだ。

釣り人の中でもベテランや敏感な人は、絶対に立ち入らない場所のひとつや二つは持っている。


 「わ、忘れていたんです。わざとじゃない。過失です。故意じゃないっ」

「そうでしょうね。それはわたしたちも理解しますよ。だけど、たとえばここが厳しい冬山だったとする。あなたは軽装のまま、過失でそこに踏み込んでしまった。故意でなかったからと言って、あなたは酌量されるでしょうか?」

返事につまった。

比留間さんの言葉はよく理解できる。

わざとであろうがなかろうが、条件は同じなのだ。

人間の都合は通用しない。

冬山に限らず、究極の善意としての救助や探索であったとしても、自然は特別扱いはしない。

人間自らが生存に足る条件を満たさなければ、結果は淘汰なのだ。

つまり、必要なのは節度ある行動だ。

それを侵した場合、自然は当然の報いを与えるのだ。


 「待ってください。たかが小屋掛け、いや、テントを張って泊ったくらいで、生きて帰れないなんて…。今、現にわたしは生きているじゃないですか。帰してください。このまま帰らせてくださいっ」

だんだんに自分の言葉が悲壮味を帯びてくる。

どう考えても彼らが言っていることは、伊達や酔狂や戯言ではないからだ。

「あなたがた人間は、考えなしにさまざまなもののテリトリーに侵入して来る。その安易さには非常に危ういものがあるということです」

「いや、その言い方ではきっと、鳴沢さんはわかりにくいんじゃないかな」

九谷(くがい)さんが口を出した。

「いいですか、鳴沢さん。よく聞いて理解してください。いわば、あなたはどんづまりという網の中に自ら入り込んだヤマメです。わたしたちはあなたを捕えました。わたしたちは、あなたを食したいと考えている」

「ええええええ~っ?」

「ま、そういうことです」

にっこりと言う比留間さんの顔を穴のあくほど見つめながら、絶句していた。

これこそ最終通告だ。


       20


 「じょ冗談じゃないっ、勝手に決め付けないでくださいよっ。わたしは帰りますから。からかうのもいいかげんにしてください。ふたりとも悪酔いでもしたんですかねぇっ」

財布とキーケースとサバイバル・ナイフだけつかんでさっさと立ち上がった。

あとはすべて捨てて行くつもりだ。

高価な竿も仕掛けも、今となっては惜しくはない。

こうなった以上、一刻も早くここを去るのだ。

ふたりは黙ったまま止めようともしない。

意外なことに、むしろ道を開けてくれた。

全速力で沢を下る。

山仕事の人たちの踏み跡がついているから、楽に進める。

本流まで一本道だから、迷うこともない。


 道を急ぎながら、なんとなく右手が重だるく痛む。

ふと見て、顔色が変わった。

手首を中心に、指先からひじのあたりまで、真っ赤にはれあがっている。

五本の指がすべて、掌にヒルが吸いついた姿そのままに見えるのも不気味だ。

巻きつくように青黒く変色し、皮膚がウロコのように盛り上がっているところは、内部が膿んでいるのだろうか。

話に聞くヤマヒルの吸血によるアレルギーだった。

とにかく出来るだけ急いで車に戻り、医者に駆け込むしかない。

それにしても、ずいぶん遠いような気がする。

一日前に釣り上ったとき、魚影を追いながらでも、せいぜい3時間半ほどだった。

今、ほとんど小走りで下っているのに、【潰れ屋(つぶれや)】の駐車場に近づいている気がしない。


 ザワワワワーッと梢を風が渡る。

地表ではあまり感じないが、上空には気流の流れがあるのだろう。

まわりには人っ子ひとりいないのに、木々は何かの気配のようにさわめく。

何か得体の知れないものに見込まれている気がする。

道を急ぎたいのだが、体がすくみ上がって足取りがおぼつかない。

どんよりとした、まつわりつくような重苦しさがきりきりと自分を取り囲むのがわかる。

しまいにまわりの景色にすら、怖気を振るうようになった。

曇天のように、よどんだ重量のある暗さが怖い。

ひたすら怖いのだ。

それでも生唾を飲み込む感じで前に進む。

とにかく、なにがなんでも下りたい。

駐車場には自分の車が待っているのだ。


 (え?)

何か聞こえた。

低い、つぶやくような何か。

無理に足を進めながら、自然に耳を澄ませてしまう。

声、人の声だ。

「……ぶつ…な…だぶつ…なむあ……ぶつ…」

念仏だった。

低い低い、消え入るような老女の声だ。

「…みだぶつ……あしたに紅顔ありて…夕べには白骨となるぅ……なむあみ…なむあみ…

弥陀ふかく…頼みまいらせ……念仏申すぅ…なむあみだ…ぶつ」

一瞬にして、全身に鳥肌が立った。

ざぁっと音がした気さえした。

縁起でもない、葬式で有名な「白骨の章」のくだりだ。

こんな山中では場違いすぎる。

だが、思い当たる。

九谷(くがい)さんが話してくれた念仏の老婆だ。


 無意識に震えだしていた。

だが、この現象が起きるということは、ひょっとしたら、そろそろ【潰れ屋(つぶれや)】が近いのではないだろうか?

不安に怖気づいた気持ちはなんとか希望に縋ろうとする。

不気味だが、声はただひたすら追って来るだけに過ぎない。

とにかく実害がない限り、老婆の霊だろうが怨念だろうが、自分には関係ないと思いたい。

なにがどうあれ、駐車場にたどり着くのが先決だ。

車に乗って、家に帰り着きたいのだ。

そのために万難を排するのだ。

全身の力で歩を進めた。

この道しかないのだ。

これを下りさえすればかならず本流に行き着ける。

もう、その一念しか頭になかった。


       21


 フッ

聞きなれた音が聞こえた。

竿を振る音だ。

だが、本物の人間だろうか?

怖々、沢に目をやる。

間違いない。

すぐそば、木間がくれに釣り人の姿がある。

これから上流に釣り上ろうとしているのだろう。

よかった、やっと念仏の声も消えている。

人がいるということは、きっと駐車場も近いのだ。

歩をゆるめ、息を整える。


「で、さぁ」

「うふ、あははは」

「だから、…ってこと」

ずいぶん人がいるようだ。

女性の声も聞こえるところをみると、初心者かも知れなかった。

この賑やかさでは、魚はみんな逃げてしまう。

他の釣り人でもいれば本当にハタ迷惑だが、素人たちは釣果がどうのよりも、みんなでいっしょの行動に価値を見出すのだ。

そうであっても 渓流での傍若無人の話し声にはやっぱり腹が立つ。

早く通り過ぎよう。

また小走りになる。

だが、声は一向に遠ざからない。

まるで小学生の遠足の群れに突っ込んだように、あとからあとから湧いてくる。

(え?)

尋常じゃない気がする。

ためらったが、ぐるっと振り向いてみた。


 あわわわわわわ……。

空気の抜けるような情けない叫びだった。

自分の後ろには老若男女、30人ほどが追い迫って来ていた。

醜悪ではなく、むしろ楽しげな悪意のない顔だ。

それでも、腰が抜けそうになるほどの衝撃だった。

一見ごく普通に見える彼らの顔の下には、どう見ても体がなかったのだ。

「抜け首」。

妖怪図鑑なんかにある、挿絵そのままの形状だった。

「こんにちはぁ」

「「こんちぃ~、いいあんべえでぇ」

「ちわ~っす」

「こんちはっ」

空中を自在に飛び回りながら、口ぐちに挨拶して来る。

その声も表情も友好的なだけに、かえって意表を突かれ、脂汗が出るほど怖かった。


 冗談じゃない、フザけるなっ。

身をひるがえして駆け下る。

当然ながら首だけが、スズメバチの群れのように追って来る。

息が切れ、全身が重くなる

「こんちごきげん」

「こにちは~、こにちは~」

「こんにちはってばぁ」

足がもつれる。

逃げても無駄なのでは?

そんな考えがよぎる。

返事をしない限り解放されないのではないか?

これは賭けで、どうなるかは不明だが、あいさつをすればいいのでは?

この状態から逃れたい。

とにかく気味悪さでせっぱつまっているのだ。

考える間もなく、思い切り返事をしていた。


 「こ、こここんにちはぁっ」

ギギッ、ギャリギャリドドドドド~ン。

同時に雷鳴のような光と轟。

その中に、あきらかに

ドドドブワッハハハハハ~ン。

という大爆笑が含まれていた。


抜け首どもが一瞬に消える。

ビッシャアアアァ~ンン。

いきなりの激しい水音。

一瞬、ギョッとする。

だが、これはたしか、長野あたりで聞いたことがある。

特徴的な音で、カワウソが体を平べったくして、水に飛び込む時の音だ。

ヤツラはなぜかワザとこれをやる。

体の大きさに比べて異常に大きな水音は、近くにいるメスへのデモンストレーションなのだろうか。

とにかく正体はわかった。

「抜け首」は幻だ。

執拗に追いすがるようなやり口は、カワウソにツマまれた証拠だった。

ヤツラは人間の心理的動揺を察知し、巧みにつけこむ。

それにより、人はさらに疑心暗鬼に陥るという悪循環を、昔の日本人は経験上戒めてきた。

各地に残る伝承に頓着しないのは、現代人の驕慢であり愚行だろう。

落ちつけ、落ち着けと自分に言い聞かす。


 のどがひりつくように乾いていた。

カハァ、カハァと咳き込む。

息苦しくてめまいがした。

その場にしゃがみ込み、手で顔を覆う。

しばらく動けなかった。

「どうしました?」

若い女性の声だ。

それにもビクつく。

うっかり目を上げれば、顔の下には体がないのではないか?

「大丈夫ですか?お車ですか?すぐそこが駐車場ですよ」

駐車場?

なんという甘美な響きだろう。

そっと横目で様子をうかがってみる。

低いヒールにひざ丈のスカート、軽くニットを羽織って上体をちょっとかがめている。

うん、顔はありそうだ。


 おもむろに頭を上げた。

その人がちょっとニコリとした。

目が左右に離れ気味ではあるが、チャーミングな丸い目だ。

美人と言ってもいい。

やっと安堵する。

「いえ、もう、なんともありません」

「そうですか?」

言いながら、その人が不意に脇を向く。

そのままギチギチときしみながら、マネキンの頭のように真後ろを向いていく。

(え?)

ビビリながらも目が離せない。


 あの古典的オカルト映画「エクソシト」そのままだった。

ウソだろ、また人間ではないのか?

「ごぉ気分がぁ~おぉ悪いんでしょおぉ?」

今までの優しい声色が、のたくるような男の声に変わっていた。

ぐるっと一回転した顔には目鼻がなかった。

「のっぺらぼう」。

コレだった。


 とにかく逃げた。

もうたくさんだ。

死に物狂いで走るうしろで、

「ビャ~ハッハハハァ~」

という、勝ち誇った笑いが聞こえた。

そして再び、

ビッシャアアアァ~ンン。

カワウソのしつこさには心底、辟易した。


        22


 行く手に青い人工物が見えた。

目にしみるくらい明るく感じた。

そこだけ禍々しさがないのだ。

これこそ、本当の地獄で仏だ。

連発する薄気味悪い出来ごとのあとで、救われた思いだった。

急いで駆け寄る。

ハッとした。

テント!

しかも自分のテントだ。

ドイツの登山用語で言う、リングワンデルング。

日本語で言う、堂々巡りだ。

「お帰りなさい」

冷静な声がした。

比留間さんと九谷(くがい)さんが、当然のように立っていた。


 こういうことだったのだ。

張り詰めていた気力が、プツンと断ち切れる気がする。

帰れない。

恐らく、もう家には戻れない。

自分はこの沢から、いや、この場から離れることはできないのだ。

変に悟った気持ちからくる自暴自棄的な落胆があった。

思考が停止し、あたりの景色が自分から切り離されて感じる。

たぶん、もう…食われるしか…。

気力がなえて、思わず座り込む。

「おわかりになりました?そういうことです」

比留間さんの落ち着き払った言葉だった。

穏やかだがきわめて冷酷な響きだ。

その言い草に、カッとなる。


「ふざけるなっ、わかるわけがねぇだろうがっ、おまえら。第一、ヒルの分際で人様を食い殺すだと?どうやって食うんだよ。頭から丸呑みかっ?」

事ここにいたっては敬語など使っていられない。

遠慮なく怒鳴り散らした。

彼らは人間ではなく、ヒルなのだ。

わかっているはずなのに、心は無理にでも人と認めようとする。

本性を認識するのはあまりに恐怖だからだ。

だが…いくら否定してもムダだ。

彼らは確実に人間ではないのだ。

「ああ、彼には知る権利がありますよ」

公平面して、九谷(くがい)が比留間を振り返った。


「そうですね、そうでした」

子供にでも諭すように、ヤツも腰を下ろした。

九谷(くがい)も座り込んだので、膝詰談判のような形になった。

「わたしはヤマヒル、つまり、血吸いビルです。ですから、あなたの動脈からの酸素いっぱいの、新鮮な血液をいただきたい。あなたは自分の体の構造をご存じですか?心臓の左心室から出た動脈血は、すぐ上の上行大動脈に流れ込みます。位置は胸の真ん中に胸骨ってありますでしょ?その後ろですね。そのまま鎖骨下で湾曲しますから、そこまで行かないうちに、第二肋間のあたりの皮膚を食い破るんです」

比留間は口を開けて、乳歯そっくりの小さな歯並びを見せた。

「そこからやや下向きに心臓直近の上行大動脈に到達します。心臓左心部から直接吸ってもいいんですが、心臓をかじっちゃうと、活きのいい人は拍動が強すぎたりするもんですから。せっかくの美味しいところがこぼれちゃうんでもったいない」

言いながらヤツはうれしそうに含み笑いをした。

まるで我々人間が魚やエビの生き作りの味を語る時のような、幸福感に満ちた顔つきだった。


「ああ、そうそう、あなたの右手ね。わたしがちょっと味見したんですよ。静脈血だったけど、まぁ、美味いのなんの。新鮮で栄養たっぷりな動脈血なら、もう、ほっぺたが落ちますな、きっと」

くそっ、比留間だったのか。

あのままランタンに押し付け続けて、焼き殺しとくんだった。

「彼は肉食なんですよ」

うながされて、九谷(くがい)がかなつぼまなこをしばたいた。

「ええ、肉は大好物でして。わたしは吻(ふん)を伸ばしましてね、消化液を出して溶解するんです。鳴沢さんの場合は若くて健康そうでいらっしゃるので、手始めにみぞおちのあたりから、臓物をいただこうかなぁ」

すっとんきょうな目つきで、よだれがこぼれそうな顔付きをする。

しばらくあいた口がふさがらなかった。


       23


 「ちくしょうっ、友人面して油断させやがって…」

「いえいえ、いきなり襲いかかれば、あなたは怖がるでしょう?だから、まぁ、わたしたちは人間ではありませんが、それなりの関係を築いておこうとしたのです。だって、あなたがただって食用の家畜を、食べる前に慈しみ育てるじゃありませんか。それから鳴沢さん、あなたの右手のアレルギー、全身に回りますよ。万が一にもあり得ませんが、もし、わたしたちから逃れて街に帰ったとしても、医療では治せませんから。結局、無駄に命を落とすのです」

親切ごかしの比留間の言葉は、だから素直に自分たちに食われろと言っているのと同じだ。

だが、捕食されるほうとすれば、たとえ命を保てなくても帰りたいのだ。

こんなところで心臓を動かしたままの生殺しみたいな、気色の悪い方法で食われたくなんかない。


「本当に、お気の毒です」

九谷(くがい)がそばから言い添えた。

引導を渡すその言葉は、人間が食肉動物に道義上かわいそうだと言っている、その心理そのままだった。

「けっ、それで温情をかけたつもりかよ。よけいな御世話だっ。おまえらがそのつもりなら、おれは抵抗するよ。当然だろ?ああ、そうですかとニコニコ食われるバカがどこにいる」

「ええ、どうぞ。抵抗は当然です」

しゃあしゃあとした返事に心底腹が立った。


腰にあるサバイバル・ナイフの扱いは、多少心得ている。

腫れあがった右手では素早い動きは無理だが、幸いにも利き手は左だ。

瞬時に立ち上がり、手はじめに比留間に切りつける。

手ごたえあり。

だが、ヤツの動きには変化がない。

ヤツはきのうの夜中、テントから去る時そのままにドタンと転がった。

あのときのようにみるみる体が膨れ上がり、ぬめ光るベストが全身を覆う。

数秒ののちにはあんこ形力士くらいある、おぞましいヤマヒルが、乳歯をむき出して、そこにいた。


 一方、コウガイビルの九谷(くがい)も醜悪に変化していた。

三メーターはある長い帯状の体は幅が10センチくらいしかない。

それでも左右に張り出した頭部は優に30センチはあった。

その頭をアナコンダのようにかかげて狙って来る。

このヒルは通常の動きは鈍いと聞く。

が、攻撃力はどうだろう?

見るからに比留間のヤマヒルより素早そうだ。

はじめて本物の恐怖が自分を支配した。

容易ならない相手だと認識する。

だが、逡巡してはいられない。

食われる前に倒すのだ。

コイツは距離を詰めたほうが、かえって動きが鈍くなるはずだ。

意を決して懐に飛び込む。

九谷(くがい)が撓めた頭を回してくる一瞬の隙に、片目のあたりをそぎ落とす。

地面に落ちた切片はジタバタもがいている。

ざまぁ。

結果につかの間、勝ち誇る。


 (え?)

次の瞬間、絶望した。

再生だ。

コウガイビルはミミズやプラナリア同様、再生力が異常に旺盛だったのだ。

現に地面の切り身は転げまわりながらしだいに胴体を形成し、頭を半分落とされた本体は何事もなかったように欠損部分を複成している。

ナイフは武器にならなかった。

いたずらに数を増やして、敵を利するだけなのだ。


       22


 自分がひるんだのを見て、ヤマヒルの比留間が抜け目なく吸血口を向けて来た。

コイツは伸縮自在の体を持ち、這い進むスピードも素早い。

やっかいな相手だが、通常、ヤマヒルは吸いつく瞬間はそれほど機敏ではない。

飛び下がって距離をとった。

一方、コウガイビルの九谷(くがい)は、もたげた頭を地面に這わせて、傍観の姿勢をとる。

おそらく攻撃方法が違うので同志討ちを避けるためだろう。

新たに誕生した切片のほうは、まだ再生の途中だ。

けっこう時間がかかるらしい。

それはこっちにとっても都合がいい。


ヤマヒルには、今一度、ナイフを使ってみるつもりだ。

さっきの攻撃では、ナイフが武器として有効なのか、いまいちわかりにくかったからだ。

ニュウ~ム。

という感じで吸血口が伸びて来た。

案の定、コウガイビルほど素早くはない。

飛び違いながら、口先を切断する。

やった!

(え?)

吸血口が落ちない。

それどころか、きれいな細い線が1本、スッと入っただけで3秒もすれば元に戻ってしまう。

ダメージは全くないようだった。

ナイフでは比留間を倒せないのだ。


 失望と混乱

それでもコウガイビルと違って、ヤマヒルは数が増えたりしない。

それだけが救いだ。

今度は九谷(くがい)が頭をもたげてきた。

律義に、交互に襲撃するつもりらしい。

海にいるシュモクザメのように左右に離れた扁平の頭がやけに目につく。

コイツは目を持たず、人の肉眼では見えないほど微細な、眼点というもので物を感じる仕組みだ。

その頭部には触覚器など神経の詰まった脳を持つはずだ。


 ナイフを自分の腹のあたりでヒラヒラさせる。

光を反射させて誘ってみたのだ。

思った通り、閃く光には反応する。

グィ~ンっとトンカチ頭を下げてくる。

間一髪のところで、真上から脳天に刃先をぶち込む。

脳のあたりを思い切りえぐってから、素早く引きぬく。

巻きつこうとした胴体の一部が腕に触れ、べたっと張り付く。

吸着する感覚に、戦慄して力いっぱい身を振りもぎる。

腕にまつわりついたままヤツの一部が引きちぎれ、ウネウネと蠢動する。

取り除こうとした指にも、執拗にねばりついている。

おぞましさにナイフでこそげ落とし、肌を粟粒立たせたまま、九谷(くがい)に対峙した。


 ダメだ。

ヤツの脳は損傷しなかったのだろうか?

ゆらゆらと頭を振り立ててはいるが、痛手をくらった感じはない。

どう見ても軽い脳震盪を起こした人のようにフラついているだけだ。

これではもう、次の攻撃は思い浮かばない。

万策尽きた落胆で、自分の動きが止まった。


       23


 自然に、本体から切断された片割れに目が行った。

地面に腹這って、1メートルほどに順調に再生しているようだ。

まずい。

ためらってはいられない。

コイツの始末が先決だ。

これ以上、でかくなられてはやっかいすぎる。

九谷(くがい)にフェイントをかませ、横に飛んだ。

一撃で片割れの頭を地面にくぎ付けにする。

うねって胴体を振り回したが、短いのでこっちに被害はない。

ざまぁ。


 ニュワ~ン。

無音だったが、音がした気さえした。

再生中のヤツは木の周りの雪が解けるように、ナイフ回りの体を楕円に広げた。

そしていとも簡単に突き刺された刃を抜けた。

頭にはしばらくその穴があったが、また、ニュワ~ンという感じで元の姿に帰って行った。

小さな未熟なヤツでもこのありさまだ。

ヤマヒル同様、コウガイビルもどうあっても、ナイフでは倒せない。

絶望的な現実だった。

もう、食われるしかないのか?


 テント!

そう、テントだ。

テントにはオイル・ランタンがある。

希望がよみがえった。 

ヤツラは火に弱いのだ。

勝算はある。

ランタンの位置を横目に見ながら、じりじりとテントに近寄る。

一気に飛び込み、わしづかみにするや、外に飛び出す。

テントごと巻きつかれてはたまらないからだ。


 素早くジャケットを脱ぐ。

給油口からオイルを注ぎ、松明状に堅く丸めてライターで点火した。

油煙の臭いで、早くもヒルどもが怯む。

やった!

狙い通りだ。

モゾモゾと蠕動するが、後退は苦手らしい。

先ず、比留間に迫る。

コイツは茶ぐらいの熱さでも大騒ぎしたのだ。

火で脅しつけながら、ナイフの刃を焼く。

尺取り歩きで避けようとする行く手をさえぎり、突起状の目と目の間に灼熱のナイフをぶち込む。


 キ、ユゥゥイィィィ~~。

チューブから何かを絞り出すような、変な声だった。

しめた、効いている。

だが、ひどい悪臭だ。

ゴキブリと糞尿と生ゴミとプラスチックを、いっしょくたに炉に放り込んだような刺激的な臭気だ。

うえっぷ、と吐きそうになりながらも、それに耐える。

比留間は堅く縮んで丸まろうとする。

人間では抗えない強靭な力で、ズルズルと引きずられる。

ナイフを引き抜こうにもびくともしない。


 いきなり、吸血口がニュンッという感じで伸びた。

とっさに乳歯が並んだ口の中に、松明を突っ込む。

カウンターだ。

ヤツはゴムまりのように跳ね上がり、頭を振り立てた。

ナイフが手を離れ、はずみで自分が転がった。

九谷(くがい)が間近に迫っている。

炎を目前にしても、同志のヤマヒルのために逃げないのは健気だ。

危険を感じて、瞬時に地面から立ち上がる。

寝技はヒルには厳禁なのだ。

とくにコウガイビルには捕食されるミミズのように巻きつかれてしまう。


 しだいにジャケットが燃え尽きてくる。

つかんでいる手指が熱い。

ヤマヒルの比留間はヤケドはしたものの、致命傷ではない。

自ら粘液を分泌して傷を覆っている。

おそかれ早かれ癒えてしまうにちがいない。

今はもう冷えたナイフは、とっくに地面に抜け落ちている。

早急に拾わなくてはいけない。

ヤツラには効かなくとも、とにかく武器であることには変わりがないからだ。


そばにいる再生途中を火を振り回して脅す。

熱さにびっくりしたのだろう。

ソイツは捕食するときみたいにピョンと飛んで、テントに転げこんだ。

たまたまだったが、絶好のチャンスだ。

考える間もなく、体が動いた。

テント内に松明を放り込む。

案の定、燃えやすい化学繊維はたちまち火ダルマになった。

ヒュィィ~、みたいな弱い声とともに、ヒルの悪臭が立ち込める。

ジタバタしているのだが、とろけたテント地が張り付いてどうにもならないのだ。


一方、比留間と九谷(くがい)は明らかに強く警戒していた。

距離を取って、風上側に逃れている。

だが、戦闘意欲は失っていない。

逃げようとすればたちまち襲って来るはずだ。

ヤツラに目を据えながら、長袖のネルシャツを脱ぎ、オイルで先端を湿らせた。

テントの炎で火をつける。

もう、上半身は裸だ。

このシャツが燃え尽きれば、燃えるものはフィッシング・ボトムと下着、靴下だけになる。

今のうちに燃え上がる火の勢いを武器に回り込んで、できればテント側に追いやりたい。

そして隙を見て、ぬめ光る全身にぶちまけてやる。

ランタン・オイルはそのために残してあるのだ。


 比留間の上体が突然、跳ね上がった。

まるで棒立ちになる暴れ馬さながらだ。

ヒヒ~ンといういななきすら聞こえそうな勢いだった。

そして背中に頭がつくほど体をそらし、その反動で思い切りぶっ倒れて来た。

ヤツの捨て身の戦法だった。

完全に不意を突かれた。

ドッス~ンという感じで下半身がはさまれ、腰をひどく打った。

ランタンが手を離れ、吹っ飛んで無駄にオイルをまき散らした。

まだ勢いのいい火を突きつけて、後ろにずって逃れる。

立ち上がれない。

ちくしょう。

焦りで一瞬だけ、九谷(くがい)の存在を忘れた。

これが最後だった。

文字通り、運のつきだ。


 攻撃力のコウガイビルが鞭のようにしなって、上体に巻きついた。

同時に頭部をブンッと振って、燃えるシャツを弾き飛ばす。

あっという間もなかった。

三メーターの九谷(くがい)が、余すところなくベッタリと張り付いている。

吸収腔は頭でなく胴体にあるようで、ヤツの言葉通りみぞおちのあたりが小さい高温のフライパンを押し当てられたように猛烈に熱くなった。

いや、熱気ではない。

消化液だ。

生体の反応として、反射的に体がはじけ上がり、転げまわってしまう。

ミミズになった気がした。

先ず皮膚が、次いでその下の筋肉が、やがてさらに深部の横隔膜がとろけて吸い上げられるのがわかる。

「熱いっ、アツッ、痛ってえっ、痛てえええええええっ」

猛烈ななにかの熱源が、肝臓のあたりに焼きつく感じに、のたうちまわる。

それがしだいにねじ切るような重量のある絞扼感に変わる恐怖。

苦し紛れにナイフを九谷(くがい)に突き立て引き裂くが、水飴を攻撃しているみたいに数秒もすれば元に戻ってしまうのだ。


 苦悶の脂汗が全身を流れる。

異常に早い鼓動に激しくせき込む。

叫べるうちが花だったのを、今になって知った。

言葉が出なくなる。

「ああ~」とか「い~っ」などの単音のうめきだけになるのだ。

獲物が弱るのを見て、比留間がムニュウ~ッと口を伸ばしてくる。

自分の第2肋間あたりを腕でガードしながらナイフを握りなおす。

ふざけるなっという反発が、気力を倍加させていた。


ヤツは肋骨の隙間を抜けるために、楕円形で小ぶりのおちょぼ口になっている。

チューブのようなそれを引っつかみ、渾身の力でナイフをぶち込む。

歯に刃が当たって、カチッと堅い音がした。

そのあたりを死に物狂いで引っ掻き回す。

ヤマヒルの動きがとまった。

効いたか?

さすがにさっきヤケドしたばかりの口は弱点なのか?

だがその実、比留間はただ困惑しているにすぎなかったのだ。


 ギニュウウゥっという感じで、ヤツが縮む。

その圧力でナイフが押し出される。

死力をつくして抗おうにも、力を振り絞るのにすら苦痛が倍加するのだ。

とろけはじめた内臓から逆流する溶解液に、漿液や体液、血などの混じったものがこみ上げてくる。

うまく呼吸を確保しないと、肺に吸い込んで苦しい。

ペッと異物を吐きだすように、比留間が刀身を体外に出す。

小さな突起状の目が吸血の期待に輝いて、自分を見下ろすのがわかった。

ヤツはもう、容赦しなかった。

ガードしている腕と巻きついている九谷(くがい)を避け、脇の下あたりに頭を叩ききつける。

そのまま伸縮自在の弾性の強い体を利して、こじ開けるように腕の下に潜り込む。


 心臓を狙ってきたのがわかった。

悠長に動脈血をむさぼっているヒマはないのだろう。

今はもう、コウガイビルの消化液で臓腑は融解の度を増してきている。

心拍の異常を示す、口から飛び出そうな激しい期外収縮が立て続けに起きているのは、近い将来の心停止を予測できる。

その前にできるだけ左心室からの鮮血を堪能しておきたいのだ。

心臓が止まってしまえば、血液はその瞬間から腐敗が始まるからだ。


 胸骨よりやや左の第3肋間のあたりを食い破られる。

ぬめりと弾力のある冷たい吸血口が、圧倒的な力で侵入して来る

押しひしがれた肋軟骨がきしむほどだ。

もう、どうすることも出来なかった。

定まった運命を享受する以外、為す術はないのだ。


 最後に残された手段として、ナイフを自分に向けた。

ヤツらに思う存分、美食を楽しませるつもりはない。

一刻も早い絶命が自分の望みだ。

刃を肋骨と平行に握り、むしゃぶりついている比留間の口の脇から、必死の力で突き込む。

瞬間、骨が削れるジャシッという音とともに胸筋が固く締まる。

それに邪魔されて傷は3~4センチと浅い。

ほとんど同時に、心壁を噛み破られる心筋梗塞のような激痛と、引きつるような呼吸不全。

無意識に地面を掻きむしる指に手のひら大の石が触れる。

死に物狂いでつかんでいた。

巌のように重く感じるそれで、ナイフをくさびのように胸に打ち込む。


じゅぉじゅぉじゅぉじゅじゅじゅじゅ~。

ヤマヒルの吸引がはじまる。

脳下垂から血の気が引く気がする。

しだいに手足の指先から体温が抜け、虚血の酸素不足でつかんだ石を支えきれず、打ちつける手元が狂った。

刀身が斜めに動いて、やっと心臓に達し、鮮やかな赤がほとばしった。

ざまぁ…。

意識下でヤツを嘲笑する。

「あああっ、もったいないっ」

比留間の叫びが聞こえた気がした。  


                             おわり


 





                             

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魍魎記(もうりょうき・本当は怖い自然の逆襲) 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

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