1日目 12月18日 23:10 逃走

 返り血を浴びた真っ黒なトレンチコートをまとった、遠目でも長身に見えるその男。顔には、乾いたどす黒い血のついた笑い顔のマスク。


 そして、ヌメヌメとした、異臭の根元がこびりついた……あれは、斧、だろうか。


 血の海の上で狂ったように、_______いや、きっと、狂っているのだろう_______笑うその異様な男に、僕はただひたすら、それこそ、逃げ出すという選択肢を忘れてしまうくらいに恐れた。恐怖した。


 口元に手を押し当てたまま、腰が抜けないように、その場にへたりこまないように、現状を維持することで精一杯。肌はすっかり総毛ち、呼吸が乱れる。



 ふと、笑い声が止んだ。


 僕は笑い顔の仮面をつけた男から目を離せない。


 男はひとしきり笑うと、かったるそうにその場から離れようとする。


_______あ……来る………


 こちらに向かってくる男。まだ、僕の存在には気がついていないらしい。


 一歩。



 二歩。





 三歩。



 プツン。



 距離が2メートルほど縮まったところで、ぷつり、と金縛りが、均衡がほどけた。

 現状を維持しようとする理性よりも、本能的な恐怖が、逃げ出したいという意志が、僕の金縛りをふりほといたのだ。


「うわぁぁぁぁあああああああああ!!!!」


 大声を上げて、走る。

 後ろは見ない。見たくない。


_______何だ?何だ!!?


 ペースもフォームもない、まさに転げるような走り。来た道をとにかく、文字通り必死にかけもどる。


 頬を撫でる風が冷たく、痛い。吐き出す息が白く曇り視界を遮る。肺が冷えた空気でピリピリと痛む。


「ヒャハッ、ハハハハハ!!!」


 僕の叫び声が聞こえたのか、後方から生理的に受け付けられない笑い声が聞こえてくる。


 反射的に振り返える。振り返ってしまった。

 そして、理解した。迫ってきていた。笑い顔の仮面が、血まみれの斧が。


「ひぃっ!?」

_______冗談だろ!?あいつ、


 少なくとも十メートルはあったであろう猶予を、男はどんどん削り取っていく。


 だが、大丈夫だという自信が僕にはあった。


_______校門が、あと五十六歩で見える!


 腕をふり、足を動かす。思考がかすみ、心臓がおかしくなりそうだ。


 でも、走る。走り抜ける。


_______あと二歩!


 地面を蹴りつけ、右に曲がる。


 校門が見え、僕の顔がひきつった。

 幸運の女神は、どうやら僕に恨みがあるらしい。



 校門は、閉まっていた。



 ……後方からは、かなり近い距離であの奇妙で気持ちの悪い笑い声が聞こえてきている。



 勝手に倒れそうになる足。昨日を停止させようとする心臓。役目を放棄しようとする肺。諦めろとささやく脳に体。



 だが、僕は、吠えた。出そうになる弱音を噛みきった。


「くそがぁぁああ!!誰が諦めるか!!」


 僕はスピードを落とさない。落とせない。


 校門の高さは1メートル30センチ。登ろうと思えば乗り越えられるような高さだが、一瞬でも足を止めた時点で僕は、あの不気味なお面男の斧の錆びに変わり果てる。


_______だろ!?佐々木直人!!


「俺はっ!!」


 門まであと20歩。タンタンと足を弾ませるように動かす。多少遅くなるが、止まって仮面野郎に捕まるよりかは遥かにましだ。


「仁年大学のっ!!」


 踏み切り足はどっちだ?右だった?左だった?霞んだ思考では考えられない。むちゃくちゃに足を踏み出し、地面を蹴る。


「陸上部員だっ!!」


 ふわりと、からだが浮き上がる。ひねりを加えて背中を地面に、門に向ける。


 ばぎゃんっ


 地面から体が浮いたとほぼ同時に、ありえない音がすぐそばから聞こえる。

 その音とほぼ同時か、ジリリリリリリと、ベルのような音が鼓膜を揺さぶる。


「ぶへっ!」


 金属質なその音の残響が消えるよりも先に、130センチ背面飛びを成功させた僕は、コンクリートの地面に重力の働きで叩きつけられた。


 衝撃を殺すために、できるだけあの男から離れるために、二三度ごろごろと地面を転がり、倒れたまま門の方を見る。


 そして、僕は悲鳴をあげた。


「嘘だろ!?どうして金属製の門がひしゃげてんだよ!!」


 僕が先ほど踏み切った地面、正面の門が、「一」の字にひしゃげていた。


 現実離れしたその光景に、僕は咳き込みながら目がそらせない。


 斧を持った男は、暫く門を乗り越えようかと足をかけたり、斧を持ちかえたりとせわしく動いていたが、ベルの音に警戒を抱き、舌打ちを一つ残してその場を離れた。


 直後、僕の意識は、プツリと途切れた。


_______こんなところで、夜を明かしたら、凍死しそうだ……。


 白んだ頭でそんなことを思いながら、僕の意識は黒に染まった。

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