1日目 12月18日 23:00 遭遇

 部活動も講義も終わった僕は、アルバイト先の弁当屋へ向かった。


 『にものや』は店名にもあるように、煮物の美味しい弁当屋だ。筑前煮が特に美味しいと評判らしい。


 いつもどうり5時間程度のシフトにはいる。ご飯時ということもあり、店内には数人のお客様がガラスのショーケースを眺めている。


 特に混雑するでもなく、がらんどうになるでもなく、退屈な五時間は過ぎていった。


「上がり作業入ります。」

「かしこまりました。」


 パートのおばさんに声をかけ、僕は高濃度アルコールとペーパータオルを手に取った。


 少々寒い店外に手を擦りながら制服のまま出ると、アルコールを窓にかけ、ペーパータオルで拭き取る。今日の上がり作業は窓の清掃だ。


 トイレ清掃よりかは遥かにましだが、できればこの季節、暖かい店内に引きこもっていたい。


 そんなことを考えながら、ふと、僕は夜空を見上げる。明るいビルの群れに押されて星の瞬きはほとんど見えないが、月だけは気高く、明るく、煌々と輝いていた。


_______昔の人は、月明かりで夜道を歩いていたと聞くけれども、現代人は絶対にできないのだろうな……。


 そんなことを思いながら、記憶の中にある故郷の夜空と見比べ、僕は深くため息をつく。


 吐き出した息は、真っ白に凍りついていた。


 ◇◆◇


 裏のスタッフルームで着替えをしているとき、僕は、あることに気がついた。


「マズい、明後日提出の課題レポートを部室のロッカーの中に置き忘れた……!!」


 レポートの提出点はかなり高い。テストでそれなりの点数は出したので、留年することはないだろうが、先生にネチネチと嫌味を言われることになるだろう。


「ちょっと嫌だな……。」


 物理力学の教授のハゲ頭を思い浮かべ、僕は深くため息をついた。もし、ため息をつくことで幸せが逃げていくのであれば、今僕の幸せはとっくにゼロだ。


 仁年大学はここから3駅の卯月駅にある。そして、今の時刻は21:00。急いでいけばギリギリ開いている……かもしれない。


 ダメなら明日、徹夜覚悟でレポートを仕上げなければならなくなるだろう。寝不足で耐えられるほど陸上部は甘くない。


「……取りに行くか……。」


 僕は、もう一度深くため息をつき、リュックサックを背負った。


 ◇◆◇


「すいません、誰か、誰かいませんかー?」


 間口が広いという宣伝のためなのか、ただただ不用心なだけなのか、開きっぱなしの校門から入った僕は、守衛室に向かう。不審者と思われてはひとたまりもない。


 幸いにも、帰る直前だったらしい警備員のおじいさんがひとりお茶を飲んでいたため、事なきを得た。

 僕は部室のロッカーから課題レポートを取り出す。


 さて、帰ろう。


 警備員のおじいさんに、「ありがとうございました。」と声をかけてから、僕は仁年大学を出た。



_______今思えば、レポート何て取りに行かなければよかったのだ。遅れて提出することだってできたし、甘んじて物理力学の教授のお叱りを受けることだってできた。止めておけば、良かったのだ。


 ◇◆◇


 暗い夜道を、卯月駅に向かって半ば駆け足で進む。腕時計を見ればもう23:00。明日まであと一時間である今、道を歩く人はほとんどいない。


 音は、僕がアスファルトの歩道を蹴る乾いた音だけ。たまに遠くから車のエンジン音と電車のガタゴトという騒音が聞こえるだけ。


 静かな、夜だった。


 ああ。静かな、夜











「うわぁぁぁぁあああああ!!!足が!俺の足がぁぁああ!


 ヒッ!!止めろ!止めろ止めろ、ヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメ_______


っあああああああああああああああああああああああああああああああああああ"あ"あ"あ"あ"!!!!」


「!?」


 右の道から闇夜を切り裂く、断末魔の絶叫が聞こえてくるまでは。


 思わず立ち止まり、右の路上を見る。すると、生暖かい風とともに、異臭が漂ってきた。

 小学校の頃に、さんざん遊んだ鉄棒のような、あの、鼻につく異臭。


 そして、最後の悲鳴とともに、



 ぐちゅり、



 という水っぽい異音。それには、何かがへし折れるような、鈍い、鈍い音も混ざりこんでいた。



 ……その時、雲に隠れていたラグビーボールのような月が、顔を出した。


 ああ。月明かりで、人は夜道を歩けるらしい。現実逃避か、僕はそんなことを思いながら、その路地を、その光景を、呆然と見つめていた。


 街灯もないうす暗い路地を月明かりが優しく照らし出す。


 『ソコ』にのは、服のついた、肉の塊。小さい塊が三つに、バスケットボール程度のまあるい何かが一つ。それに、バラバラになったソーセージのようなが5,6本。


 それが、異臭の根元、真っ赤な海の上にバラバラと、ごろごろと、ぐちゃぐちゃに、転がっていた。


「………ァ!!」


 叫びそうになった僕は、『ソイツ』を見つけて、自分の口元に手を当てた。




 ヌメヌメとした、異臭の根元がこびりついた……あれは、斧、だろうか。


 返り血を浴びた真っ黒なトレンチコートをまとった、遠目でも長身に見えるその男。顔には、乾いたどす黒い血のついた笑い顔のマスク。


 その男が、ふるふると、震えていた。


 僕は、がくがくと、今にも崩れ落ちそうな足と腰を必死に堪える。押さえる。


 僕は、本能で理解していた。



 あの男は、恐怖で震えているのではない。


 罪悪感で崩れ落ちそうなのでは、ない。




 いつの間にか、音一つなくなっていた夜空に、その音が響き渡る。







 ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!







 黒板を引っ掻くのに似た、生理的に受け付けられない不快な


 あの男は、歓喜で、狂喜で、込み上げる笑いを噛み締めるために、震えていたのだ。




 12月13日。その日、僕は殺人鬼『斧男』と、出会った。遭遇、した。

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