第29話 クリスマスの災難 5
体が一瞬、浮いたような錯覚をした。
目の前で愕然としている男は体勢を低くしているためか、円のようにあおられずに済んでいるようだ。
よかった、と思うと同時に、視界の隅に映った陸のあまりに悲痛な表情に少しばかり胸が痛む。
咄嗟に剥き出しの床材を掴んだのは、生きようとする動物の本能だろうか。
だが女の握力で持ち堪えられるはずがない。すぐに力を失った手がズルリと滑った。
元々、円は生への執着が薄いのだ。
必死に耐えようとはどうしても思えない。
別にここで頑張る必要はないのではと、頭の中を締観がよぎる。
ズル、とさらにずり下がりかけたところで、腕を掴まれ落下が止まった。
掴まれた腕の先には――やはり陸の姿。
何て皮肉だろうと思わず笑ってしまった。これでは前世の再現ではないか。
――本当に、変わらない。馬鹿な男……。
あの時は唾棄すべき偽善だと切り捨てた。
けれど、今は不思議とそんな感情は湧かない。彼ならば我が身を顧みず手を伸ばすだろうと、心のどこかで分かっていた。
「円さん捕まって! 早くそっちの手も!」
苦しげに顔を歪めながら、それでも彼は手を離さない。
きっと諦めることはないのだろう。
重みに耐えかね陸が体勢を崩した。
このまま巻き添えにすることはできない。円は弱く首を振った。
「……手を、離して。このままじゃあんたまで落ちちゃう」
か細い呟きは彼の逆鱗に触れた。
陸はカッと目を見開くと、聞いたこともないような大声で叫んだ。
「いいから上がって来い、円!!」
荒っぽい口調に、反射で体が動いていた。
陸の手にもう一方の手を伸ばし、足をかけられる窪みに爪先をねじ込む。何とか全身を持ち上げようとすれば、突然引き上げる力が強くなった。
陸の背後から、爆弾魔の男も一緒になって引っ張ってくれている。
一気に安全な場所まで持ち上げられ、円は無事生還することができた。
しばらくは脱力感でいっぱいだった。
助けた方もそんな調子で、誰も言葉を発することができない。必死に息を整えて落ち着いた頃、円はようやく口を開いた。
「ありがと……助けてくれて……」
陸は一瞬やるせない顔をしたかと思うと、乱暴に円を抱きすくめた。
爆弾騒ぎの前は頬に触れることを躊躇う素振りすら見せていたので、いささか戸惑って目を瞬かせる。
「り、陸……?」
「馬鹿! 円さんは馬鹿だ!」
ぎゅうっと抱擁が強まった。
「前にも言った。僕は、あなたがいなきゃ生きていけないって。生きていく意味なんか、ないんだって……」
彼の力の強さに、思わず顔をしかめる。
まるで逃がすまいとするかのようだった。あるいは、泣いてすがる子どものような。
「あなたの言う通り、決していい世界じゃないけど、あなたがいるから生きていける。あなたとだから、世界が意味を持つんだ」
……円は、彼からの想いを正しく理解していなかったのかもしれない。
繰り返し告げられていた『好き』の言葉。
純粋な好意は嬉しかったけれど、その意味を深く考えることなく聞き流していた。
彼の頬に手を添え、顔を上げさせる。
陸はとんでもなく情けない顔をしていた。
明るい茶色の瞳は、涙をいっぱいに溜めて潤んでいる。唇を噛み締めると、彼は再び肩口に顔を埋めた。
「あなたが側にいてくれれば、それだけでいいんだ。隣で笑ってなくてもいい。いつもみたいに不機嫌そうにしてたって、ちょっと見ていて恥ずかしくなるくらい斜に構えていたって、僕はいいんだ」
「……あんたが今まで私をどんな目で見てたのか、よく分かったわ」
あんまりな評価に円の頬が引きつる。
穏やかな笑顔と物腰に隠されているが、彼の性根も相当曲がっている。
それでも眼差しは無垢で澄んでいるのだから始末に負えない。
歪んでいるかもしれないけれど、痛いほど真っ直ぐ円だけを向いている。
だからこそ、抗えないのだ。
陸は泣きそうな顔で笑った。
「あなたは隣にいてくれるだけでいいんだ。そうしたら僕が、笑顔に変えてみせるから」
彼の笑みがふわりと溶ける。その頬を涙が一筋伝ったのは、気のせいじゃないはず。
「ーー円さんが……生きようとしてくれて、よかった」
抱き締める力は痛いくらいだったけれど、抵抗はしない。
陸の体はかすかに震えている。
円は目を伏せ、彼の体に両腕を回した。
「……あんたが、選ばせたんでしょ」
考えての行動ではなかったけれど、円はあの瞬間、確かに選んだのだ。
陸の手を取ることを。
そっと耳元で囁くと、彼は弾かれたように顔を上げた。
「え……今なんて……」
「まあ、他にもしがらみがあるしね。家族もできたし、今はミラロスカもいてくれるし」
『ラティカ』であった前世とは違い、円には守りたいものがたくさんある。
それでも言いわけめいてしまったのは、陸が期待に満ちた顔を近付けてきたためだ。
「でも、僕が一番の理由なんでしょ?」
「すぐ増長しないでくれる?」
「だって、円さんがデレるなんて貴重だし」
「デレてない!」
嬉しそうな笑みが何とも腹立たしい。
苦虫を噛み潰していると、陸がおもむろに頬をなぞる。途端、ピリッと痛みが走った。
「頬、少し切れてる」
爆発の時、何かの破片でもかすったのだろう。目を据わらせ冷気を漂わせ始めた陸が、へたり込む男をゆっくりと振り返った。
「円さんを傷付けるなんて、やはりこの男、生かしておくべきでは……」
「陸、誰彼構わず喧嘩は売らないでよ」
呆れて制止をかけたのは円を引き上げる際、彼が確かに一助となっていたからだ。
そもそもの元凶と言ってしまえばそれまでだけれど、一応恩義は感じている。
それでも陸は納得できないようで怯える男を依然睨み続けていた。
「何でそんな急に心狭くなってるのよ?」
「円さんに関しては、一ミリたりとも譲るつもりがないからね」
「な……」
どんな状況であってもぶれない姿勢に、円の頬は自然と熱くなる。
「うう。やっぱりリア充、爆発しろ……」
無意識にいちゃつく二人の隣で、憐れな爆弾魔は世の無常を嘆いた。
◇ ◆ ◇
その後しばらくは警察署に行ったりと忙しかったが、被害者なので証言さえ終えれば解放された。
両親やあの日会った友人達には心配をかけたが、ほとんど怪我もなかったため今となっては元通り。
年が明け、紫峰学園の冬期休暇も明けたので、久しぶりの登校だ。
円と陸は駅までの道のりを並んで歩く。
「ようやく日常って感じね」
「うん。でも僕はちょっと不満かな。結局デートも台無しになっちゃったし……」
陸が漏らしたため息が、冷たい空気に白くくゆって溶けていく。
まだまだ暖かい季節の到来は遠い。円はマフラーに深く顔を埋めた。
「テレビで大騒ぎされるような事件だったのに、こうして普通に生活できるだけよかったじゃない」
犯人は、実刑を免れないかもしれない。
最後には穏やかな顔で連行されていった彼は、自分の罪を受け入れているようだった。
けれど、それなりに言葉を交わしただけに後味の悪さが残っていた。
「円さん、あの男は自業自得なんだよ」
「分かってるわよ」
「全然分かってない。円さんの頭の中を他の男が占めてると思うと、それだけで僕は嫉妬するんだよ」
また呼吸するがごとく甘い言葉を言うから、円は一瞬絶句した。
「そ……れとこれとは話が違うじゃない」
「違わない。円さんには、永遠に僕だけを見ていてほしいんだ。それにデートを台無しにしたあの男の罪は重い」
「それ一番どうでもいい罪でしょう……」
どうでもいいが、他人に迷惑をかけるのだけは切実にやめてほしい。
円はやや早足になり、声を低めて呟いた。
「……それにどうしても不満なら、またどこかに行けばいいだけのことでしょ?」
「え?」
「あんたが自分で言ったんでしょ。冬はスノボでもすればいいんじゃないかって。夏は海に行けばいいし、秋はまた秋祭りに行けばいいじゃない」
円の方から出かける提案をしたことに驚いたのか、デートと強調された部分を否定しなかったことが意外だったのか。
陸が呆然と立ち止まる。
狙い通りの反応に、円は会心の笑みを浮かべた。不敵でも皮肉げでもない、子どものようにあどけない笑顔。
初めて陸に見せる心からの笑み。
「あ、早くしないと電車来ちゃうわよ」
いつまでもぐずぐずしていては遅刻する。
真っ赤になって座り込んだ義弟の心境など気付きもせずに、円は颯爽と歩き出した。
転生して宿敵と義姉弟になるパターンのヤツ。 浅名ゆうな @01200105
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