第24話 そして、再び日常。

 頭上には今日も鮮明な青が広がっていた。

 生命力の色濃い木々達は深緑の葉を繁らせ、刺すような強い日射しは足元に黒い影を作る。熱せられたアスファルトの上では逃げ水が揺らめき、鳴りやまない蝉時雨がうだるような暑さを強調していた。

 夏休みまではまだまだ遠い。円は玄関先で、恨めしげに空を見上げた。

「行ってらっしゃい。円、陸君」

「気を付けて行くんだよ」 

 今日も安定の仲のよさを見せつける両親は、互いの腰を抱き合っている。

「はーい、行ってきます」

「行ってきます。父さん、母さん」

 手を振る二人に見送られ、円と陸は並んで歩き出した。

 しばらく無言で進むと、学園指定のバッグからおもむろにあるものを取り出す。

「はい」

「え? これ……」

 目を瞬かせる陸に無理矢理押し付けたのは、ネイビーのランチボックスだった。

「色々迷惑かけたし、お礼。おにぎりも入ってるけど、手作りがキモくなければ食べて」

「あなたが作ってくれるご飯を、僕が気持ち悪いって言ったことある? 何ならおにぎりを握ったその手だって舐められるけど?」

「それは私が嫌!」

 あれ以来、彼は好意を隠そうともしない。

 真正面からぶつけられる想いに、円はまだ戸惑うばかりだ。

 ――でも、困るとか嫌ではないし……。

 最近は、あの時颯哉に止められなかったらどうなっていただろうと、時々考える。

 彼の瞳の色や触れ合う体温を思い出し、落ち着かない気持ちになったり。

 持て余す感情に動揺していると、陸が口を開いた。

「……ちなみに『ラティカ』の時、『ミラロスカ』にご飯を作ったことはあるの?」

 円は赤い頬に気付かれたくなくて、必要以上に頷いた。

「そりゃあね。あの人信じられないくらい無茶ぶりするから、毎日が戦争だったわよ。急にオグル地方の野菜が食べたいって言い出したり、行き付けの食堂で出されてる数量限定メニューを熱々のまま持って来いなんて言われた時にはもう……」

 つい愚痴に熱が入り始めたところで、やけに静かな隣に気付いた。

 あれ以来のもう一つの変化が、義弟の颯哉への敵対心が増したことと言えるだろう。

 実は今までも危ぶんでいたらしいのだが、現在は颯哉に少しでも近付こうものならじっとり監視されているような状態だった。

 そこは前世の養い親なので多めに見てもらいたいところだが、苦しそうな顔をされるとつい言い訳めいたことを口走ってしまう。

「あ。で、でも、会長には手作りのものをあげたことなんてないからね? 当たり前だけど、そんなに仲良くないし」

 一体何を言っているのかと無性に恥ずかしくなり、段々頬が熱くなる。

 けれどこの程度ですぐに機嫌を直すのだから、彼の方も大概だ。

 陸は気を取り直したように微笑む。

「あなたはよく世界が嫌いだと言っていたから、色々と考えてみたんだ。まずは今度の週末、二人で近峰神社に行ってみない?」

 いかにも円のためと言わんばかりの口振りだが、近峰神社ということは、つまり。

「……その日確か、お祭りじゃなかった?」

「うん。母さんに浴衣を着せてもらって、花火デートをしようね」

 やっぱりか、と円はいい笑顔の義弟を見つめる。デートと言ってしまっている辺り、全く本音を隠しきれていない。

「高校生にもなって姉弟で浴衣着てお祭りなんて、気持ち悪いと思われるのがオチね。周りはデートなんて思わないでしょうし」

 その前に、学園の生徒に見られでもしたら大ごとになりそうだ。円と陸が義姉弟であることを知る者は、未だに少ない。

「他にも、海に行ってみるのもいいよね。秋には紅葉も楽しめるし、それにクリスマスのイルミネーション、お正月。そうだ、冬はスノボでも挑戦してみる? 円さんとなら、きっと全部楽しい」

 陸が、晴れやかに笑う。

『ルイス』の時は、こんなに幸せそうな彼を見たことがない。

 夏のせいだけじゃない熱さを感じて、眩しい笑顔から無理矢理視線を引き剥がした。

「……さすがに、姉弟で出かけすぎでしょ」

 逃げ腰になる円を、陸が覗き込んでくる。

「円さん。姉弟ってことに引っかかってるみたいだけど、血が繋がっていなければ義理の姉弟は結婚できるんだよ。色々条件はあるけど、僕達はどちらも養子縁組の手続きをしていないから問題ない」

「そうなの?」

 思わず立ち止まって問い返すと、今度は陸の方が戸惑いを見せた。

 なぜか視線を避けられ、円は首を傾げる。

「陸? どうかした?」

 彼の頬には、かすかに朱が差していた。

 口元を押さえながら潤んだ瞳で見つめられれば、つられて赤くなりそうなほどの色気に当てられる。

 陸は往来だというのに、体温を感じられそうなほど距離を詰めた。

「そんな可愛い反応されたら、誰だって期待しちゃうよ。円さん、僕との結婚を考えてくれてたの?」

「はぁ!? どうしてそうなるのよ!」

「どう考えてもそういう話だったでしょ」

「てゆーかもっと離れなさいよ! 家の近所で何するつもり!?」

 押し問答を繰り広げていると、道の向こうから見知った顔がやって来た。

「素晴らしい! 今朝もお二人は、周囲を幸せにするほどの仲睦まじさですね!」

「そうか?」

 妖精のように可憐な容姿でわけの分からない感動を叫ぶのは、優心だった。今朝は珍しく、苦い顔で首を傾げる大雅も一緒だ。

「おはようございます。陸、円さん。晴れ渡った美しい空にお二人の瑞々しい声が響いて、まるで小鳥達のさえずりで目を覚ました朝のように爽快な気分になりましたよ」

「おはよう。てゆーかもう、どんな気分なのか想像もつかないわね……」

 ホッとしたような邪魔が入ったような、何とも言えない気持ちになりながら円は挨拶を返す。彼に他意はないため、怒るだけ体力の無駄だ。

 ムスッとしている大雅と目が合った。

「……おはよう。今日は朝からボールを追いかけなくていいのかしら?」

「朝練が休みになったんだよ。おかげで朝から嫌な顔と遭遇しちまったんだから、自主練でもしてた方がマシだったがな」

 嫌がらせを知った直後はやけに気遣ってくれたのに、彼の態度はすっかり元通りだ。

 和やかに言葉を交わす陸と優心の横で、嫌み合戦のゴングが鳴った。

「あら、もうムカつく男に戻っちゃったの。少し前までは殊勝な態度だったのに」

「友達ゼロで敵だらけの女が虐められてるっつーのに、憐れで嫌みなんか言えるかよ」

「ハンッ。あんたなんかに憐れまれたら、人間おしまいよね」

「なら実際、人間終わってんじゃねーの? お前みたいな女がいいなんて、俺は陸の気が知れねぇよ」

 ニヤニヤと見下ろされ、ぐっと言葉に詰まる。敵だらけなのは事実なので、今回は旗色が悪い。

 けれど大雅ごときに負けるなんて業腹だ。円はすぐに作戦を変更した。

「そうなの? 私は昔から、大雅が一番男らしくてカッコいいと思ってたのに」

「あ、あぁ?」

 大雅は目に見えて動揺した。

 ぶっきらぼうだが、自分を嫌う相手も放っておけない人情に厚い性格は前世からまるで変わっていない。そんな彼をいい男だと感じていたのは本心だ。

 円はことさらいい笑顔を作った。

「そういえば、ムキムキマッチョな軍団にもやたらモテてたわよね」

「あれはオレが集めたわけじゃねぇし、モテてたわけでもねぇ!」

 兄貴分として慕われていたことくらい分かっている。しかもこれはあくまでからかっただけで、意趣返しの本番はここからだ。

「――ふぅん? 円さん、メイズみたいな男が好みだったんだ?」

「……へ、」

 冷気の漂う笑顔を浮かべた陸が、大雅の背後に幽鬼のごとく張り付いていた。

 嫌がらせに、わざと陸の前で褒めてみた。

 義弟が誰彼構わず喧嘩を売るのは、もちろん折り込み済みだ。

 円にすら制御しきれない義弟は、もはや誰にも止めることはできなかった。

「オイ陸、何だその恐ろしい殺気は!?」

「僕は羨ましいなんて、思っていないよ? 全然」

「だから俺はあんな女何とも思ってねー!」

 大雅の悲鳴を背中に聞きながら、円は優心の肩を叩いて歩き出した。



 電車を降りても言い合いを続ける二人に、さすがにうんざりしてきた。

 ――てゆーか私、何でさっさと先に行かなかったのかしら。今までは普通に別行動してたのに……。

 馬鹿馬鹿しい我慢をしていることに気付いた円は、彼らに断りを入れようと振り返る。

 すると、人だかりが視界に入った。

「あなたの周りは相変わらずうるさいわね」

 取り巻きをゾロゾロ引き連れて現れたのは、葉月だった。

 美貌を惜しげもなくさらした彼女は、色んな男に言い寄られて忙しいらしい。

「おはよ。それはこっちの台詞だけどね。日課の観察はもうやめたの?」

「嫌みな女ね。もう二度とあんな無駄なことに、若さを浪費したりしないわ」

 葉月は、陸の観察をパッタリとやめた。

 嫌がらせからも潔く手を引き、その代わりに本音を隠さなくなった。 

「あなたと違って、モテすぎちゃって困るくらいよ。まぁ、この美貌だし?」

「そうね。鍛えまくったせいで可哀想なくらい胸部がへこんでる以外、あんたの見た目は完璧だものね」

「へこんでないわよ! 少し自分の方が膨らんでるからって、何よ上から目線で!」

 口論が激しくなるよりも先に、上品な笑い声が二人を遮った。

「コラコラ。可愛い女の子が揃って、朝から男達を興奮させないの」

 番犬よろしく志郎を伴って登場したのは、かんなだった。実は幼馴染みだという彼らは、一緒にいることが多い。

「あれ、おはよう。かんなも志郎も、こんなところで会うなんて珍しいわね」

「おはよう、円。それはそうと大所帯だね。今日何か、朝からイベントでもあった?」

 大所帯と言いつつ自然と輪に溶け込んだかんなは、円の右隣を確保した。ちなみに左隣は葉月で、彼女の取り巻きは大人しく後方を歩いている。

「あのねぇ。特に何の日でもないのは、役員のかんなの方がよく知ってると思うけど」

「そういう意味じゃなくて、乙女ゲーム的な何かが起こる日ってこと。ダンスパーティとか王都へお出掛けとか誘拐騒ぎとか」

「かんなは本当に私をどうしたいの……」

 現実世界ではダンスパーティだの誘拐騒ぎだの、そう簡単に起こるものではない。

 懲りない彼女に頭を抱えていると、志郎がクン、と髪に鼻先を近付けた。

「円、いい匂いが、するな」

 昨晩、かんなに約束していたバタークッキーを作った名残だろうか。

 けれど志郎以外に指摘する者はいないので、彼の嗅覚が異常なのだろう。

 円は髪を押さえて後退った。

「よく分かりましたね。でも動物じゃないんだから、やめてくださいね」

「敬語は、いらない」

「いや、今はそんな場合じゃなくて」

 例の誰彼構わず喧嘩を売る円の番犬が、この状況で黙っているはずがない。

 案の定、背後から優しく肩を捕まれた。

「――『志郎』? 円さん、いつの間に名前で呼び合うような関係になってたの?」

「ホントに、何でこんなことになってるのかしらね……」

 円が遠い目をしていると、女子の黄色い声が一際高くなった。

「一体何の騒ぎかな?」

「うわ、最後のだめ押しまで来た……」

 人垣が彼のために自然と道を譲っていく。

 ゆっくり姿を現したのは、前世での性別詐欺が発覚したばかりの颯哉だった。

「おはよう。大丈夫? 後ろの方、何だかすごいことになってるけど」

 颯哉は、人前では今まで通りの態度に徹している。周囲で秋波を送っている女生徒達も、彼がまさかオネェとは思うまい。

 それでも大切な養い親のために、円も演技に付き合うのだった。

「おはようございます。会長のおかげで、見事な大名行列がたった今完成しました」

 生徒会役員が、まさかの揃い踏みだ。

 今注目度が急上昇している一ノ瀬葉月もいるのだから、後方を歩くファンがさらに鈴なりになっていくのは時間の問題だった。

 いっそさっさと学園にたどり着いてしまえば、通行の迷惑にもならないのだが。

 ……当初の予定では、目立たずひっそりと学園生活を過ごすはずだった。それがどう間違ったのか、朝っぱらからこの状態。

 けれど編入時とは、円の心持ちも確かに違っていて。

 それは、何度拒絶しても気にせず構ってくれる人達に、こうして囲まれているからかもしれない。

「そういえば、会長は私のこと、ずっと気付いてたんですよね? どうしてもっと早く教えてくれなかったんですか?」

 前世という言葉をぼかして聞くと、彼はこっそり笑った。

「あなたに世界を広げてほしかったからだよ。僕がいると分かれば、どうせずっとベッタリだろう?」

 口調は颯哉のものだけれど、慈しみに満ちた笑顔はミラロスカの時と変わらない。

 いつまでも子ども扱いされるのは不本意だが、今はまだ甘えていたい。円もファンに気付かれないよう、素早く笑い返した。

 けれどやはりここでも、厳しい監視を掻い潜ることは不可能だった。

「円さん。会長と二人きりで話すのは、禁止だって言ったよね?」

「陸、あんたいい加減しつこいわよ」

 手当たり次第絡みすぎだと呆れて注意するも、陸は途端に元気をなくした。

「だって……円さんが、僕以外の誰かを好きになったらと思うと、怖くて」

「ならないからもっと余裕を持ちなさいよ」

「え? ならないの?」

 俯いていた義弟の瞳が、キラキラ輝き出す。落ち込んでみせたのは演技だったのか。

「あ、あんたも含めてって意味だからね! 勘違いしないでよね!」

「円さんがデレた。実に見事なツンデレだ」

「デレてない!」

 からかわれて腹立たしいのに、陸の嬉しそうな笑顔を見ていると怒りが持続しない。

 義姉弟の他愛ないやり取りに、颯哉とかんなが笑っている。志郎はいつも通りの無表情だけれど、どことなく楽しそうだ。

 優心がいつものごとく感動を迸らせるのを、大雅が必死に押さえ込んでいた。葉月はそれに呆れ混じりの視線を送っている。

 彼らを見ている内に、いつの間にか円も一緒になって笑っていた。


 ――――さぁ今日も、うんざりするほど賑やかな日常の始まりだ。


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