第21話 受けて立つ

 寝込んだ翌日には体調も回復した。

 両親には詳しい事情を説明していないので、学園を休まずに済んでホッとしている。

 ただ問題もあった。

 なぜか陸が登下校からついて回ろうとするため、非常に迷惑しているのだ。

 目立つ彼と行動を共にすれば、ますます顰蹙を買うのは目に見えているというのに。

 義弟から、用具室の一件は悪質な悪戯だったと説明を受けている。

 だが、ドキリとしたのは内容ではない。一度、同じ話をどこかで聞いたような気がしたからだ。

 はっきり思い出してしまうのも怖いので、円は徹底的に陸を避けていた。登下校の時間もランダムにずらしている。

 また、役員達への礼は既に済ませていた。

 彼らは誰一人として、円の迂闊さを責めたりしなかった。無事を喜んでくれる姿に、一瞬でも疑惑の目を向けてしまったことへの罪悪感を抱くほど。

 特にかんなの喜びようはひとしおで、円の方が戸惑ってしまうほどだった。

 ただ、一通り喜んで落ち着いた彼女は、用意した菓子折りが少々不満だったようだ。

「せっかくなら、円ちゃんの手作りお菓子がよかったな。次はぜひ食べさせてよ」

 円が料理を嗜むという情報は、一体どこから仕入れたのだろう。学園には弁当を持参していないので、陸からか。

 とりあえず、要望には頷いておいく。

 世の中には他人の手作りを苦手とする者もいるが、本人からの希望があるなら出し惜しみをするようなものではない。

 特に、迷惑をかけた直後でもあるのだし。

 あれから、クリアになった思考で今までの経緯を思い返してみた。

 極限状態だったためだろうか、生徒会役員ばかりを疑ってかかっていたが、冷静になれば可能性は一つでないことに気付く。

 生徒会室内の会話を盗み聞きすれば犯行は誰でも可能だし、それでなくとも円のあとを尾けさえすれば目的地は簡単に割り出せる。

 ――むしろ、気にすべきは……。

 整然と考えれば、答えは簡単に見えた。

 円の身近な人物ならば、誰であろうとできることなのだと。


   ◇ ◆ ◇


 球技大会から二週間が経った。

 今のところ、あれ以上の問題は起こっていない。決して平穏とは言えないけれど、毎日の小さな嫌がらせが続いているのも変わらずこれまで通り。

 登校した円がいつものように下駄箱のごみを片付けていると、珍しく硬い紙片の感触に当たった。

 それは汚れたノートの切れ端などではなく、一通の綺麗な封筒。

 荒らされた下駄箱の中で、清潔感のある空色の封筒はむしろ異色だ。

 円はにわかに緊張し、便箋を取り出した。

 名前の記入などはない。二つ折りになった紙が、手の中でカサリと乾いた音を立てる。

 記されていたのは、たったの一行だった。

『放課後、屋上にて待つ』

 特に不穏な内容でもない、簡素な文章。

 けれど円は几帳面な細い文字から、並々ならぬ敵意を感じた。筆圧の高さや、微妙な筆致の乱れのためだろうか。

 両親と、それから義弟の顔が浮かぶ。

 それでも円の中に、回避するという選択肢は浮かばなかった。

 教室に到着すると、珍しいことに葉月が既に着席していた。

「おはよう、円ちゃん」

「おはよう。今日は早いのね」

 陸の観察は休みだろうか。

 席につきながら視線で問うと、彼女は軽く肩をすくめた。

「ちょっと今日は、委員会の雑用があってね。それよりどうしたの? 何か、ピリピリしてるね?」

 無邪気に首を傾げる友人に話すべきか迷いながら、円は口を開いた。

「……犯人からの呼び出しがあったの」

「犯人? って、例の体育倉庫に閉じ込められた時のやつ?」

 問いかけに、素っ気なく頷く。葉月の表情が不安げに揺れた。

「……行くの?」

「行くよ。……これで、けりをつける」

 円は、友人と目を合わせなかった。

 あくまで窓の外の、ありふれた景色から視線を外さない。

 校門付近を見渡せる教室からは、のどかな登校風景を眺めることができる。当たり前の日常に、誰かの軽やかな笑い声が響く。

 けれどそれらを見つめる円の視線は、淡々とした声とは裏腹に鋭かった。

 葉月はますます表情を曇らせる。

「一人は、危ないよ。もしかしたら何かまた、危害を加えられるかも……。そうだ、私じゃ役に立てないだろうけど、せめて陸君や役員の誰かに伝えておくべきじゃ――」

「ありがとう。でも、ある程度の危険を犯さないと、真実は掴めないから」

 心配はありがたいが、これ以上事態を長引かせるつもりはなかった。

 このままでは、陸を疑おうとする自分から変われない。

 今は弱い自分のままでいる方が、危険よりもずっと恐ろしかった。

「これは、私と犯人の問題。もう、他人を巻き込むつもりはない」

 弱さを切り捨てきっぱりと言い切る。

 葉月は言葉を失ったように、それ以上引き止めることはなかった。



 季節は日増しに夏へと近付き、空には迫ってきそうな入道雲が居座っていた。蝉の鳴き声が耳鳴りのようにわんわんと響く。

 日没が遅くなってきたため、部活動に精を出す生徒もチラホラ増え始めている。

 きっと大雅は今日も、楽しそうにボールを追いかけ回していることだろう。

 放課後。円は一人屋上にいた。

 ただ立っているだけでも汗が噴き出してくる。こんなうだるような暑さの中で、犯人と対峙することになるとは思わなかった。

 どこにでも付きっきりでいる義弟をまくのは、本当に苦労した。

 彼がついてきてしまえば、おそらく犯人は出てこない。

 円にはその確信があったため、あらゆる嘘を駆使する必要があった。

 最終的にはファンの群れに突き飛ばしておいたので、おそらく追いかけてくる心配はないだろう。

 最近は、生徒会役員達もやけに過保護だ。

 円が嫌がらせを受けていると知られたために、犬猿の仲だった大雅にまで同情される。

 優心は毎朝かかさず体調を訊いてくるし、志郎など気付けば無言で尾け回していて半ば不審者だ。

 かんなは男性陣と異なり気遣いが細やかで、不用意に円との接触を持たないよう心がけている。

 だが毎晩SNSで連絡を取る時は、まるで心配性な母親のようになっていた。

 態度を変えないのは、会長の颯哉だけ。

 けれどそれが無関心からでないことは、何となく理解している。

 彼の優しさには、以前に触れたことがあるような感覚を覚えていた。

 ――あれは……。いや、今はそんなこと考えてる場合じゃないな。

 とにかく、彼らは心配しすぎなのだ。

 これでは生徒会の業務まで疎かになりそうだし、何よりこれ以上迷惑をかけたくない。

 そういった点からも、円は早々の決着を望んでいた。

 迷惑をかけたくない。

 そう考えるようになっただけでも、円は変わったと思う。以前は他人なんて、もっとどうでもいい存在だと考えていた。

 この事件の解決をきっかけに、人間性が劇的に変わるなんて期待はしていない。

 それでも、一つの区切りになることは予感している。

 誰も頼れなかった、信じられなかった前世。その因縁を乗り越えるために。

 そう。今の円には確信があった。……犯人が、誰であるのか。

 足音がゆっくりと近付いてくる。

 軽い、けれどしっかりとした足取り。

 円は静かに瞑目し、相手の到着を待った。

 気分は昂っているが、心は凪いでいる。

 やがて、一人の女生徒が姿を現した。

 見知った姿に驚きはなく、むしろやっぱりという気持ちに近い。円はあくまで落ち着いたまま、その人物と対峙した。

「驚かないのね」

 普段の彼女とは違い、底冷えするような声音だった。もう円への悪感情を隠すつもりはないらしい。

「……身近な人間は、全員疑ってたから。あなたも例外なく、ね」

「ふーん、冷たい女。そういうところ、全く変わらないのね。昔から大嫌いだった」

 低く呟きながら、少女は――葉月は、ゆっくりと眼鏡を外した。

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