第20話 夢うつつ

 朦朧とする意識が夢と現実を行き来する。

 あまりのひもじさから勇者一行の魔術師に変装し、食事を分けてもらった記憶。テレビアニメを現実の出来事と信じ、日本には魔法があるのかとしきりに騒いだ幼い頃。

 あらゆる過去がごちゃ混ぜになって、今の自分が何者であるのか、その境界さえ曖昧にぼやけていくようだった。

 何度か目が覚めたり、また眠ったりを繰り返したように思う。

 気付いたら自室のベッドの上で、閉じられたカーテンの向こうは静まり返っている。

 時刻は深夜になっているのだろうか。

 傍らに人の気配がした。ゆっくりと顔を動かすと、豆電球のみの暗がりに、陸の心配げな表情が浮かんでいた。

「……大丈夫? 円さん」

 ペットボトルが手渡され、無言で受け取る。起き上がる気力はなかったので、唇を湿らす程度に飲み込んだ。

 陸が額に手を当てる。ひんやりとした体温が心地良い。

 彼の手は、ついでのように頭を撫でると離れていった。あまりに億劫で文句も出ない。というか、そもそも勝手に部屋に入らないでほしいのだが。

「災難だったね。円さん、覚えてる? あなたは体育倉庫に閉じ込められていたんだ。見つけた時には気を失っていて、軽い脱水症状を起こしていて」

 陸が枕元で、静かに口を開いた。

 言われてようやく現状を把握した。言われてみれば、今日は朝から水分をとっていなかったと気付く。

 体育倉庫内を肌寒く感じたのは、もしかすると熱のせいだったのだろうか。今も頭の芯は重く、体はひどくだるかった。

 円を助けてくれたあの優しい腕は、一体誰だったのか。気になったが聞かなかった。

 うわ言のように、何か恥ずかしいことを漏らしてしまった気がする。もし陸自身だと答えられたら、顔を合わせていられない。

「寝ながらでいいから、聞いて。球技大会が終わったあと、円さんがいないことに気付いて、役員全員で捜したんだ。元気になったら改めてお礼を言いに行こうね」

 寝物語のように顛末を語る陸の声は、夜のとばりを破ることない穏やかな低音。

 静けさにポツリと音の粒が落ち、円の部屋に染み入るようだった。

「問題は、これが故意に行われたってこと」

 僅かに声が険を帯びる。

 どんな顔をしているのかと首を動かすと、陸は慌てて表情を取り繕った。

「ごめん。えっとね、代わりのストップウォッチが、第一体育館に届けられていたんだよ。そのせいで気付くのが遅くなった。これは、明らかに意図的な工作だ。事情を知った上で、あなたに悪意を持つ何者かが行ったんだと思うけど、さすがに悪質すぎる。――でも、安心して。僕があなたを守るから」

「……え?」

 ようやく発した声は掠れていた。

 もう一度ペットボトルを寄せられ、少々躊躇ったものの口を付ける。

 これだけ甲斐甲斐しく世話を焼かれると、何とも気恥ずかしい。

 陸はそのままの体勢で説明を続けた。

「会長からはもう許可を取った。明日からしばらくは、業務を免除してくれるそうだ」

「それはつまり、四六時中あんたにつきまとわれるってこと? 絶対嫌」

「こればかりはあなたの頼みでも聞けないよ。そもそも嫌がらせだって、黙認すべきじゃなかったんだ。こんなふうにエスカレートして、あなたを傷付ける結果になった」

 憤慨している彼こそを疑っていると知ったら、どんな顔をするだろう。

 前世では何度彼を討とうとしたか知れない。ラティカに巻き込まれ『虚』に落ちたことも、彼の中では遺恨があるはずだ。

 憎まれていて当然なのだ。

 それなのになぜ陸は、自分こそが傷付いたような顔で、悔やんでいるのだろう。

 苦しい。体育倉庫に閉じ込められた時よりずっと苦しかった。

 すうっと、一筋の涙が頬を流れ落ちる。

 何が悲しいのか分からないまま、あとからあとから溢れて止まらなかった。

 陸がゆっくりと瞠目していく。円は目を逸らし、口を開いた。

「……『ラティカ』が『ルイス』を決定的に嫌いになった理由、分からないでしょ」

 僅かに身じろぐ気配がしたが、頑なに彼の存在を閉め出した。

 心が痛い。涙が止まらない。

 熱のせいだろうか、感情が奔流のように荒れ狂い、制御できなかった。

「あんたは、あの教会を覚えてる? 何の罪もない子ども達を人柱にしていた、無慈悲な村人達を」

 勇者一行が、旅の途中に立ち寄った寒村。円はどうしたって忘れることができない。

「あの教会で生きる子達がどんな気持ちだったか、あんたには分かったはずよ。あんたは、孤児だったんだから」

 他のどこにも行き場がないから、逃げたくても逃げられない。

 教会がどれだけ恐ろしい場所か知っているのに、忍び寄る死に怯えながら暮らし続けるしかなかったのだ。

 孤児ではなかったけれど、ラティカには痛いくらい彼らの気持ちが分かる。

 分かってしまう。

「なのにあんたは、大人達の要求を平然と受け入れた。彼らを責めることなく守った。……なぜ、あんなことができるの? 私は許せない! 子どもを食い物にする大人達を! 他人を利用して、保身ばかり考えている傲慢な人間を!」

 こんなふうに、正面から本音をぶつけたのは初めてかもしれない。

 あくまで冷静に、全力で向き合おうとする陸をかわし続けていたのに。

「あんたの考えてること、昔から理解できなかった! 恵まれてたあんたにも、きっと一生私の気持ちなんて分からない!」

 彼に悪態をついたってどうしようもないことは分かっている。

 八つ当たりだと十分理解しているのに止められなかった。取り繕う言葉も出てこない。

 家族に恵まれなかったのはラティカと一緒なのに、彼の人生は幸せに溢れていた。単純に、そんな嫉妬もある。

 ルイスは温かな家庭に引き取られたから。勇者として尊敬され、誰からも親しまれ、愛されていたから。

「――ルイスが、恵まれていた?」

 聞いたこともないほど低い声だった。

 陸の潜められた声は、ぞろりとねばついた不穏をはらんで響く。

 けれど円は泣き疲れたためか、急速に思考が霞がかっていくのを感じていた。目蓋が重くて開けていられない。

 眠りに誘うよう、陸の手が目元を覆った。

「……そうだね。確かに、恵まれていた方だったと思う。飢える心配はなかったし、十分愛されてもいた。それで満足できなかったルイスが、欲張りだったのかもしれない」

 満足、できなかった?

 どういう意味か問い返したいのに、あやす手付きがあまりに心地よくて、どんどん夢の世界へ引き込まれていく。冷たい手がとても気持ちいい。

「あなたにどう思われようと、僕は必ず手に入れるよ。前世からずっと求めて止まなかったものを――――」

 眠りに落ちる瞬間、どこか切実な声が聞こえた気がした。


   ◇ ◆ ◇


 次に目覚めた時、側にいたのは母だった。

 外はすっかり明るいようだ。

 さっきまで陸がいたような気がしたが、あれは夢だったのだろうか。

「大丈夫? 何か食べられそう?」

 優しい手付きで髪を撫でながら問われる。円はクスリと笑い返した。

「お母さんに、病人食作れるの?」

「失礼ね。私はこれでも、れっきとした看護師なんですからね」

 軽口を叩くと、祐希奈は唇を尖らせながらもホッと肩の力を抜いた。

「熱もだいぶ下がったみたいね。これなら休み明け、普通に登校できそうだわ。今日は一日ゆっくり休んでなさい」

 球技大会の翌日は、振替休日になっていたはずだ。そこから察するに、それほど長い時間眠っていたわけでもないようだ。

 頭がスッキリ冴え渡っている。意識がはっきりしている感覚は久しぶりだった。

「それじゃあ、おかゆでも作ってくるわね」

「鮭のやつがいい」

「贅沢な子ね。梅干しか玉子でいいでしょ」

 呆れながらも、きっと母はリクエスト通り鮭がゆを作ってくれるのだろう。

 部屋を出ていく彼女の背中を見送りながら、円は小さく微笑む。

 ココアブラウンの上掛けに顔を埋めると、柔軟剤の香りがする。甘い花の香りに目を閉じながら、頭に浮かぶのは義弟のこと。

 ――夢で、よかった……。

 円は心から安堵の息をついた。

 記憶が曖昧で、何を話したのかよく覚えていない。けれど、子どものように泣きわめいてしまったような気がする。現実だとしたらひどい醜態だ。

 自らの目元に触れる。

 ひんやりした手の平の感覚だけはやけに鮮明で、円は不思議と胸が疼くのを感じた。


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