第19話 閉じ込められて
颯哉に指示された体育倉庫は、第三グラウンドのすぐ近くにあった。
第三グラウンドは学園の外れにあるため、円は初めて来る。
普段は主に野球部が使用していて、照明塔など設備が充実していた。
倉庫内も野球ボールや山積みになったタイヤ、グラウンドを整備する大きなトンボなどが面積を取っている。
球技大会の会場になっていないため、今日は辺りに人影もない。誰かに聞くこともできず、円はひたすらストップウォッチの置き場を探していた。
「うぅ。お腹が空いて力が出ない……」
どこかのヒーローのようなことを呟きつつ、五分ほど経っただろうか。
積み上げられたタイヤのさらに奥の戸棚に、円はようやく目的のストップウォッチを発見した。
これでやっと昼食にありつけるが、食堂で食べるにはギリギリの時間だ。
前の高校では節約のため毎日弁当を持参していたが、今は慶一郎の優しさに甘えて学食を利用していた。
理由はひとえに、陸の分の弁当を、何が何でも作りたくないからだ。
似たようなおかずから関係を特定されたくないし、何よりわざわざ陸のため、というところに引っかかってしまう。
夕食などは家族全員分を用意するためまだ気にならない。
だが円にはどうしても、嫌いな男のため弁当を作るという行為自体に拒否感があった。
――もう葉月は食べ終わってるだろうな。
たまに学食に付き合ってくれる変わり者の友人を思い出す。
いや、彼女は生徒会のファンらしいので、もしかしたら先ほどまでの追走劇にもしれっと参加していたかもしれない。だとしたら、ようやく昼食を食べ始めている頃だろうか。
一人自分のペースで食べるのも好きだが、くだらない会話をしながら食べる時間も好きだ。円は早足で重い扉へと向かう。
ガチャッ
なぜか開かなくて、思わず眉をしかめた。
先ほどよりも強い力で引いてみても、やはり開かない。
嫌な予感がヒタヒタと近付き、背筋が強張っていく。それでも信じたくなくて、ガチャガチャと何度か扉を引いた。
「あ、開かない……」
円はよろけるようにして、陸上用のマットに座り込んだ。
これも嫌がらせの一貫だろうか。
色々懲りて人の気配には注意していたのに、空腹のためか鈍くなっていたらしい。
円はうんざりした気持ちをぶつけるように、扉を力任せに蹴り飛ばす。
返すがえすも、スマートフォンをバッグに入れっぱなしにしていたのは痛かった。競技中は使用禁止と実行委員が声高に叫ぶため、逆らうのも面倒で従ってしまったのだ。
大雅め、と恨む気持ちはあれど、しかし円にそれほどの焦りはなかった。
球技大会に使用した用具の片付けがあるから、最悪夜になる前には出られるはずだ。
卓球は既に負けているため、最低限の役割なら果たしている。誰かに迷惑をかける心配はなかった。
気候的にも過ごしやすい時期なので、三、四時間くらいなら耐えられるだろう。
飲み物を持ち込んでいなかったことだけが悔やまれるが、数時間程度で死ぬわけでもない。このくらい、前世の記憶がある円には修羅場とも呼べないものだ。
「とりあえず、お腹空いた……」
マットに行儀悪く寝転ぶも、眠れる気はしなかった。
考える時間だけはたっぷりあるので、嫌がらせの犯人についてつらつらと考えてみる。
偶然、だろうか。
叫んでも誰にも声の届かない、第三グラウンドの体育倉庫。生徒会以外の誰にも知らせずに、のこのこやって来た円。
円に嫌がらせをしたい何者かにとっては、垂涎ものの状況だ。けれどこんな好機が、偶然で起こり得るのだろうか。
スマートフォンを持っていた可能性だってあるし、何より円がここを訪れたのはただの偶然だ。
――その偶然を、知り得た人は少ない。それにスマホを持ってないって知ってるのは、身近な人物しかあり得ない。
予備のストップウォッチを取りに行くことを知っていたのは、生徒会役員。
つまり犯人は、役員の中にいるということにならないか。
けれどそれぞれある程度の面識はあるが、恨まれるほどの接点はない。
消去法で省いていくと、思い当たるのはやはり陸しかいなくなってしまうのだ。動機は前世の恨みだけで十分だろう。
陸の穏やかな笑顔を思い出す。
ほんの少しだけ下がる目尻と、緩やかに弧を描く唇。まるで愛しいものでも抱き締めるみたいに、温度を持った眼差し。
不意に胸が締め付けられた。なぜ、こんな時に彼の顔が浮かぶのか。
痛い。痛いのは怖いから。不安だから。
嫌い嫌い。大嫌い。
――だけど、本当に嫌いなのは?
いつの間にか眠っていたらしい。
ふと目を開けると、辺りは薄暗くなっていた。一瞬の目眩を追い払うように頭を振る。
のどは乾いているし空腹は限界だし、そろそろトイレも行きたくなってきた。日が落ちかけているからか少し寒気がする。
日没の速度に合わせて、倉庫内が急速に暗くなっていく。
部屋の隅からじわじわと闇が侵食してくるようだった。囚われて、意識まで後ろ向きになってしまう。
――変なの。転生して、暗いのなんか怖くなくなったはずなのに。
暗い中にいると、前世を思い出す。ミラロスカに出会うまでの、みじめな人生を。
暗くて寒くて、誰も助けてくれなくて、ラティカはいつもひもじかった。
眠りさえ怖かったのは、目蓋を閉じれば二度と起きられないのではと不安だったから。
一度絶望に囚われたら、どこまでも落ちていく思考回路。
あっけなく切れた家族との繋がり。あの頃の恐怖がまざまざと蘇ってくる。
死ぬのと同じくらい生きるのも怖いくせに、みっともなく生にしがみつき続ける、無様な幼子。心のどこかで終わりを欲しながらも、狂いそうな孤独を噛み締める。
なぜこうまで苦しみながら生きるのか。救いはどこにもないのか――。
背中を、冷たいものが駆け巡った。
妄想と現実が曖昧に溶けて交ざっていく。このままじゃおかしくなりそうだ。
「――誰か!!」
円はまろぶように立ち上がると、重い鉄製の扉にすがり付いた。何度も何度も、両手が痛むのも構わず叩き続ける。
「助けて! お願い、ここから出して!」
錆びて剥げた塗装が、こぶしをチクリと傷付ける。僅かに血がにじんだ。
それでも気付いてほしくて、必死で。
助けて。誰か、誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か――――。
円は愕然と目を見開いた。振り上げたこぶしが宙で行き場を失う。
――いない。誰も。だって、ミラロスカがいない。私を唯一救ってくれた母さんが、この世界にはいないんだから。
「……っっっ!」
吹き荒れる激情ををやり過ごすようにうずくまった。
なぜかひどく寒くて震えが止まらない。
心が貧しいから、いつまでも不幸だし救われない。分かっていても変えられないのだ。歪んだ心で人を疑い続けて。
分からないから不安なんて詭弁だ。
分かるために、理解するために歩み寄ればいいのに。
――転生しようが平和な世界で生きようが関係ない。私は、『ラティカ』は……。
きっと、一生独り。
その時、目の前の扉が勢いよく開いた。
まるで絶望の淵から引き上げるように。
霞んだ視界に映る人影は、逆光でよく見えない。その人物は倒れている円に驚いたようだったが、すぐに抱き上げられる。
何か問いかけられた気がしたが、意識が朦朧として上手く聞き取ることができない。
冷たい地面に随分体温を奪われていたのだろう、温もりがひどく心地よく、目蓋が急激に重くなっていった。
優しい胸に体を預けていれば、不思議と強張った心がほぐれる。
円は知らず知らずの内に、誰にも漏らすことのない本音を呟いていた。
「私は……誰も信じられない私が、一番嫌いで、信じられない……」
「――信じられないから、不安なの?」
静かな問いかけを、今度は理解できた。
そうなのだろうか。誰も信じられないから、こんなにも不安なのか。
円はゆるく首を振った。違う。
「……信じたいから、怖いの……」
信じたい。いつからか、陸を信じたいと思うようになっていた。
閉じた瞳から、涙が一筋流れ落ちる。
円を抱き上げた人物が、慎重な手付きでそれを拭う。そのまま頭を撫でる手付きは少し乱暴だった。
温かな温度。
鼻先をくすぐるのは、落ち着いた花と石鹸の香り。澄んだ月のように凄烈な気配。
途方もない安心感に包まれ、円はゆっくりと意識を手離した。
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