第13話 迫る危険

 円は志郎と別れ、一人帰路につく。彼の気遣いに触れて久しぶりに足取りも軽い。

 最寄りの駅舎にたどり着き、ホームに向かう。電車の待ち時間の間にスマートフォンを確認する。

 以前通っていた高校にも友人と呼べる存在はいなかったので、連絡を取り合うのは専ら家族のみだ。今も母から買い物を頼むメッセージが入っていた。

 パン粉と挽き肉。玉ねぎ。

 休日なのでハンバーグでも作ろうと考えているのかもしれない。下味や成形など、帰った途端手伝わされそうだ。

 スーパーに寄るルートを頭の中で計算していると、突然背中に強い衝撃を感じた。

「!?」

 ぐらりと体が傾き、一瞬後に浮遊感が襲ってきた。ホームに入る電車がひどくゆっくりに見える。

 咄嗟に、爪先に力を込めた。

 浮きかけた足をぐっと踏み締める。

 上体は勢いに逆らえず傾くが、両膝を無理矢理ホームに着けば、何とか電車の前に転がり落ちずに済んだ。

 目の前を通り過ぎていく車両。

 本当に、ギリギリのところだった。

 すぐに背後を振り返るも、いかんせん帰宅ラッシュのため人が多すぎる。

 端から見れば、女子高生がただホームで転んだだけに見えただろう。まばらにいた人の誰も、円に関心を払っていない。

 乗客を乗せ終えた電車も、何事もなかったかのように動き出した。

 けれど転倒しただけでないことは、自分が一番よく分かっている。

 ――今、絶対誰かに押された……。

 今さら心臓がドクドクと早鐘を打ち始め、手足が震え出す。冷や汗が止まらなかった。

 全身に力が入らなくて立ち上がれない。

「大丈夫!?」

「……陸?」

 駆け付けた人物に、円は目を瞬かせた。

 陸は血相を変えて傍らに座り込み、容態を確認する。

 彼が大騒ぎするので、降車客の視線が集まり始める。彼の存在感のためでもあるだろうが、あまり大ごとにしたくなかった円は苦い気持ちになった。

「あんた、何でここに? 球技大会の準備で忙しいんじゃないの?」

「ちょっと体調が悪くなって早退することにしたんだけど、僕より円さんこそどうしたの!? 怪我はない!? 貧血!?」

 どうやら彼は、背中を押された決定的な場面は見ていないらしい。これだけ混雑していればそれも当然と思われた。

 ――でも、偶然にしてはタイミングがよすぎない……?

 泣きそうに歪む義弟の顔を、円は乾いた目で見つめた。

 これも、些細な嫌がらせの一貫なのか。

 それとも……。



 結局、買い物には陸が同行した。

 ようやく立ち上がれるようになったとはいえ危なっかしいと言って、嫌がってもついて来たのだ。

「ただいま」

 家に帰ると、ようやく肩の力が少し抜けた。母のいるここは、安全な場所。

「おかえりなさい。あら珍しい、今日は帰りが一緒だったのね」

「ただいま、母さん。明日は球技大会だから早く帰れたんです」

 それは、生徒会役員以外の生徒に限ったことだろう。

 サラリと嘘をつく義弟に口角が引きつったが、円は無言を貫いた。家庭円満のために、ここで冷たい態度を取りたくない。

 洗面所に向かう円の後ろで、祐希奈と陸はまだ盛り上がっている。

「いいなぁ、球技大会。保護者も見に行ければいいのに。キャアキャア言われながら活躍してる陸君が見たいわ」

「僕、バスケはそれほど得意じゃないです」

 前世での身体能力を引き継いでいるくせに、謙遜も甚だしい。

 円はついチクリと嫌みを言った。

「とか言いつつ、どうせあんたは運動神経のよさを発揮するんでしょ。体育の授業でも女子に騒がれてるの知ってるよ」

 たれ込みに、祐希奈はますます興奮した。

「キャー、素敵! 騒がれてる陸君にお母様として特別扱いされて、若い女の子達からの嫉妬を一身に浴びたーい!」

「お母さんは神経太すぎでしょ」

 我が母ながら言動が恥ずかしすぎる。円は呆れながら自室に向かった。

 制服を着替えると、やはりハンバーグ作りの時間となった。

 なぜか陸も参加していて、しかも何でも要領よくこなすから面白くない。何なら母よりできているのではないだろうか。

「あんた、料理したことあったの?」

「ないよ。調理実習くらい。でも」

 ハンバーグの種を丸めながら、陸はそっと円の耳元に口を寄せた。

「前世で育ったのが、街の食堂だったから」

 彼が突然前世の話題を挙げるから、焦った円は祐希奈の様子を横目で確認する。

 フライパンのハンバーグに集中しているため耳打ちは全く届いていないようだが、少し不用心すぎる。

 非難するようにじろりと睨むと、陸はこっそり肩をすくめた。

 円の転生を信じてくれた母なら、驚きはしても嫌がりはしないだろう。けれど前世の円達の殺伐とした関係は知られたくない。

「あなたも何度か、うちの食堂でご飯を食べていたよね」

「……そういえば、そうだったわね」

 勇者ルイスは孤児だった。

 けれど小さな食堂を営む優しい主人に引き取ってもらい、主人の娘と三人で仲よく暮らしていたのだ。

 呼び込みをする賢い犬までいて、食堂はいつも繁盛していた。笑顔に溢れていた。

「……円さん?」

 突然黙り込んだ円を、怪訝に思った陸が覗き込む。だが彼が何かを言う前に声を上げたのは、祐希奈だった。

「円! 円ちゃん! ホラ、肉汁が透明になったわよ!」

「わっ、ちょっと」

 母にぐいぐいと袖を引かれ、コンロの前に立たされる。フライパンには、ふっくらと膨らんだハンバーグが二つ並んでいる。

「よし。ちゃんと火が通ったみたいだから、こっちのお皿に移していいよ。次も自分で焼きたいなら陸に見ててもらって。私はこっちでじゃが芋潰してるから」

「了解!」

「崩さないようにね」

「頑張る!」

 大好きな慶一郎や子ども達のために頑張る姿は、全く微笑ましい。

 円は義弟とのやり取りで強張っていた心がほぐれていくのを感じた。

 夕食の準備は早々に終わり、三人でのティータイムとなった。

 円はコーヒー。陸と母は、最近彼女が趣味で作っているハーブティを選んだ。

 今日のブレンドはハイビスカスとローズヒップに、林檎や苺などのフルーツビッツを加えたもの。紫を帯びた赤い液色は美しいし、甘味もあって飲みやすい。

 料理は壊滅的な祐希奈だが、ハーブティに関してはセンスがある。

 普段ならゆっくり楽しめる時間なのだが、今日は早々に自室へ引っ込む予定だった。

 ブラックのコーヒーを早いペースで飲んでいると、円の心境を察した陸が立ち上がる。

「そういえば、生徒会の書類仕事を持ち帰ってるから、夕飯前に片付けて来ないと。すいません。ハーブティ、上でいただきますね」

 陸がいれば楽しめないのは事実だが、本人に気を遣われるのは気まずい。

 押し付けがましく目配せをされたわけでもないのに、つい俯いてしまう。

 陸の足音が遠ざかっていくと、円はマグカップをテーブルに置いた。そのタイミングで、祐希奈もティカップから口を離す。

「学校は、楽しい?」

 今までの明るさとは打って代わった穏やかな声。円はすぐに答えられなかった。

「うん、そこそこね」

「……そう」

 無難な返答を見越していたのかもしれない。祐希奈は少し寂しげに微笑んだ。

 見ていられなくなり、カップの底のコーヒーを飲み干して逃げるようにリビングを出た。自室のベッドに身を投げ出し、腕で視界を覆い隠す。

 考えることが多すぎて頭がいっぱいだった。胸を塗り潰すのは後悔と罪悪感、自分自身への否定。

 ――何で私は、こんなふうにしか生きられないんだろう……。

 見えない手に襲われた時、恐怖で震えた。

 駆け付けてくれた陸の存在に、本当はどれだけ安らぎ、救われたか。

 彼の心配は偽りないものに見えた。

 円を心から案じ、胸を痛めているように。……それなのにこうして疑う気持ちが拭えないのは、前世でのわだかまりがあるからだ。

 陸がどんなに言葉を尽くしても、誠意を見せても。疑うことしか知らないで生きてきたラティカの感覚が全てを否定する。

 以前彼は、前世は関係ないと言っていた。

 けれど円はそんなふうに考えられない。

 前世のラティカの考え方も、生き方も、全て引っくるめて今の円に繋がっている。

 そうでなければなぜ、記憶を持ったまま転生しなければならなかった?

 家族として歩み寄ろうとしている相手を疑うなんて、悲しいことだ。

 気遣いも優しさも、素直に受け取ることができればいいのに。

 それでも、大嫌いだった頃の記憶が、どうしても歩み寄りを止まらせる。そんな態度がどれほど周囲を傷付けたとしても。


 ……不穏な空気を孕んだまま、球技大会の本番を迎えようとしていた。


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