第9話 ラティカ
娘が生まれたのは、国境沿いにある貧しい寒村のごく一般的な家庭だった。その夫婦は子どもだけには恵まれ、娘には兄と姉が六人もいた。
娘が生まれた時の両親の反応は、想像に難くない。彼らはそれ以降子どもを作ることがなかったのだから、分かりたくなくても分かってしまう。
娘は平凡な黒髪と――血のような赤い目を持って生まれた。
赤は、魔力の象徴。赤い瞳の娘は、両親にとって忌むべき存在だったのだ。
物心がつく頃には、自分がどれだけ愛されていないのか十分理解していた。娘には、兄や姉のような名前さえなかったのだ。
『あれ』、『それ』、『あいつ』、『お前』。
名前という記号のない子どもは、いつも物のように呼ばれていた。
兄弟も両親にならって、その内娘には話しかけなくなっていった。
「お母さん。畑の野菜にお水やってくるね」
村人に瞳の色が知られないための日除けを被りながら、六歳の娘は笑顔で口を開く。
娘は愛されたくて、少しでも必要とされたくて必死だった。みんなが嫌がる泥仕事も力仕事も、率先して引き受けていた。
それでも、母から返ってくるのは冷たい言葉と眼差し。
「やめてちょうだい。あんたが育てたら、野菜が毒になっちまう」
「……お母さん、私に魔力なんてないよ」
「それが本当だと、どうして思える? 私らを油断させるための嘘かもしれないじゃないか。人間じゃないヤツの言うことなんか、私は信じられない」
娘は残酷な言葉に耐えられなくなって、家を飛び出した。
冷たい毒は、家族の態度の方。
もうずっと、ずっと冷たくされ続けて、娘の心はすっかり磨り減ってしまっていた。
それでも、帰る場所は一つきり。娘にとっては、かけがえのない家族なのだ。
村の片隅にある大樹の根本で、娘は嗚咽を堪えることなく泣いた。
最近、とても恐ろしく思っていることがある。夜中に目を覚ますと、窓辺で両親が何かを話し合っているのだ。
灯りの一つも点けずにいるため、月明かりに浮かび上がる二人の横顔は暗い。内容までは分からないけれど、潜められた声はひどく陰鬱だった。
分からない。分からないけれど、なぜかとても怖い。
嫌な予感ばかりが胸に沸き起こる。
けれど娘は涙を乱暴に拭うと、畑へ向かって歩き出した。
いつか愛される、その時を願って。
状況が改善されることはなく、娘は七歳になった。
いつものように畑仕事から帰ると、家の中がやけに静まり返っている。兄弟もいない。
部屋の奥に、両親の姿があった。
「ただいまお父さん、お母さん。お父さん、今日は珍しくお仕事早かったんだね」
笑顔で歩み寄っても、二人は何の反応も返さない。それでも娘は笑い続けた。明るく振る舞おうとし続けた。
「見て! 今日はこんなにじゃが芋が獲れたんだよ。すごく立派でしょう? この時期の芋は皮が薄いから、剥かずにそのまま蒸かして食べようか? それとも、」
「お前」
切り捨てるように、娘の言葉は遮られた。父の声は重くて低い。
しばらくの沈黙の後、父はゆっくりと笑顔を作った。
「今日は特別に、親子三人で出かけよう」
本来なら、愛情に溢れているはずの言葉。けれど娘は、心が冷えていくのを感じた。体の芯から震えが走る。
父母の顔には、真夜中に見たあの空洞のような眼差しがあったから。
何も感じない心で大人しく彼らに従うと、連れてこられたのは村の果ての荒野だった。
そこに誰も寄り付かないのは、国境沿いであるため。国境の向こうは、恐ろしい魔族の領域だった。
「俺達は、少しここを離れる。お前の好きな野苺を摘んで来てやろう。絶対に迎えに来るから、いい子で待っていなさい」
いい子で待っていろなんて、今さら優しくしないで。野苺を積んでくるなんて、そんな悲しい嘘はいらない。子どもでも分かるくらい稚拙な嘘。
口で何と言おうと、彼らの手は娘の頭を撫でることさえしないのだから。
努力しても、努力しても、背中に手が届くことはなくて。
娘はもう、へとへとに疲れてしまった。
痛みすら感じない心ではもう涙も出ない。
「――――分かった。待ってるね」
娘はそう答えて笑った。
今まで育ててくれた彼らの恩に報いるために、せめて最後まで笑顔で。
迎えが来ることはないと知りながら、娘は両親を見送った。
……それから、どれだけ経っただろう。
次第に日が暮れ始め、荒野を闇が黒く染め上げていく。
娘は一歩も動かず立ち尽くしていた。
己さえ見失いそうな闇に呑み込まれようとしていた、その時。
「――こんなところで何をしているの?」
聞き惚れてしまいそうな美しい声音が、娘の目の前から聞こえた。
気配は全くなく、忽然とその場に現れたようだった。
「ここは魔族の領地と人間の領地の境界。お嬢ちゃんは早く帰らないと、親が心配するのじゃない? 魔族に捕まっちゃうわよ」
楽器のような声音が、楽しそうに言葉を紡ぐ。ちっぽけな存在を嘲笑っていた。
娘は、きっと笑っているのだろうその顔を見返すことなく答えた。
「その魔族が来るのを、待ってるの」
おそらく、相手は魔族なのだろう。
美しい女性の声で惑わす者。娘のことなど指先一つで殺してしまえるのだろう。
なのに不思議と恐怖は湧かなかった。
「魔族なら、私を食べてくれるでしょ?」
「……あなた、食べられたいの? 変わった性癖ねぇ」
家族とさえ会話のなかった娘には、魔族の難しい言葉は理解できなかった。だが、嘲られたことだけは分かる。
「お家が嫌なら、私があなたを連れ帰ってあげましょうか? 悪い子には、こわーいお仕置きたくさんしちゃうわよ~」
「いいよ。親にも必要とされなかった私を欲しいと言ってくれるなら、何でもいい。魔族でも、食べられてもいいの」
クスクス笑う声が、不意に黙り込んだ。
姿形さえ気に留めていなかった魔族の存在が、急に身近に感じた。
手を伸ばせば届きそうな距離にいる魔族の、夜に溶けそうな姿を瞳に映す。けれどそこには、おぼろげな影があるばかり。
「……あなた、名前は?」
影が再び口を開いた。
「ないよ」
「一応聞くけど、そういう教育方針の家ってことじゃないのよね?」
「違うよ。兄弟の中で私だけ、なかったの。ないまま、終わるの」
なぜここまで本音をさらしているのか考え、思い至る。
娘にこうして向き合ってくれたのは、彼女が初めてだからかもしれない。
その相手が魔族なんて皮肉だけれど、最期の出会いに感謝したい気分だった。会話を楽しいと感じたのは初めてだ。
魔族が再び黙り込んだ。けれど今度の沈黙は短い。彼女は楽しげに手を叩くと、思いもよらない提案をした。
「じゃあ、私が名前を付けてあげましょう。そうね、私がミラロスカだから……ラティカなんてどうかしら?」
途端、胸に熱い炎が灯った気がした。
ラティカ。その響きが胸の空洞を急速に埋めていく。
目が覚めた心地で、娘は改めて魔族の存在を認識した。おぼろげだとばかり思っていた姿が鮮明になっていく。
人ではあり得ない真っ青な髪を長く伸ばした、信じられない美女だった。
豊満な体を包む衣装は見たことがない形で、胸元や脚が大胆に露出している。
扇情的で、艶っぽい笑みが怖いくらい魅力的だった。娘は魅入られたように美女から目を離せない。
彼女の手が伸ばされる。長い爪は潤んだように艶やかな赤で染められていた。
魔族の指先が、驚くほど優しく娘の頬に触れる。生まれて初めて味わう温かさ。
ミラロスカと名乗った魔族は、鮮やかに笑ってみせた。
「ラティカ。私があなたを愛してあげる。誰よりも優しく温め、必要としてあげる。――おいで、私の可愛い娘」
娘は無意識に、震える手を伸ばしていた。
願っても願っても、この手が届くことはなかった。彼女には、届くのだろうか。
嘘でもいい。食べられても。
気紛れだろうと何でもよかった。……信じたかった。
「連れてって。……母さん」
ラティカはミラロスカの手をぎゅうっと握った。なぜか視界がぼやけて、彼女の笑顔が見えない。いつの間にか赤い瞳から涙が溢れていたことに気付く。
ラティカと名を与えられたことで、娘はようやく、この世に生を受けたことを知った。
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