第8話 嫌がらせ

 放課後。下駄箱を開けると、最近ではすっかり馴染んだゴミ屑の山が円を出迎えた。

 いつものように淡々と片付け、こちらも持ち歩くようにしているローファーに履き替える。上履きはもちろん靴袋に入れて持ち帰るつもりだ。

「……何、それ」

 突然降ってきた声に頭を上げると、表情を失った陸が立っていた。

「うわ、何でここに」

 取り巻きを連れていない点に配慮を感じるが、そもそも学園では話しかけない約束だ。

 というか、何度かひどい言葉で突き放しているというのに、なぜ彼は懲りずにつきまとうのか。円は思いきり顔をしかめた。

「近寄らないでほしいんだけど。てゆーかあんた、生徒会はどうしたの?」

「もうすぐ球技大会で忙しくなるから、その前に各自休みをもらえたんだ。本当なら約束を破るつもりもなかったんだけど、黙って見てられなかった。……こんなの、見過ごせるはずない」

 葉月から動向を見張られていることは聞いていたが、どうやら事実だったらしい。

 それでも放課後は生徒会があるからかち合わないだろうと油断していた。

 どこか責めるような口ぶりだった陸が、不意に表情を歪ませた。

「……ごめん。あなたの方こそ、全然馴染めていなかったみたいだね。僕がもっとしっかり見ていればよかった」

 後悔がにじむ口調で、自分の方こそ苦しいみたいに。

 なぜ陸が謝るのか、円には理解できなかった。むしろ今ですら熱視線と言われているらしいのに、これ以上監視を増やされるなんて冗談じゃない。

「平気よ。この程度、可愛いものじゃない」

 円は荷物を持ち直すと、彼を引き離すように歩き出した。

 嫌がらせの類いは、陸や大雅のことがなくても起きただろうと思っている。

 いかんせん元々の育ちが違うのだ。

 未だにクラス内でも、まるで異なる人種のように遠巻きにされている。円自身も庶民らしさを隠しもしないからお互い様だった。

「……何で、何も言ってくれなかったの」

 校門を出たところで陸に追い付かれ、円は内心で舌打ちした。

「あんたに相談したってどうしようもないでしょ。どうせ大雅辺りのファンの仕業だろうけど、誰が庇ったって火に油を注ぐだけよ」

 優心とは学内であまり接点がないため、彼のファンに恨まれることはないだろう。

 陸のファンを疑う気持ちは少なからずある。学内では気を付けているつもりらしいが、何やら女子の鋭い勘に引っかかっているようだし。

 けれど円は、一番可能性が高いのは大雅ファンだと考えていた。

 大雅は何だかんだ、一人でいる人間を放っておけない。あくまで善意で構うのだろう。

 けれどそのせいもあって円がクラスの女子から遠巻きにされていることに、果たして気付いているのだろうか。自分の正義を信じている人間というのは、本当に質が悪い。

「まぁ、あいつもいずれ構わなくなるでしょ。そしたら嫌がらせもなくなるわ」

「原因が大雅なら、本人に言えばいいのに」

「何て? あんたのせいで嫌がらせをされてます二度と近付かないでくださいって?」

 確証もないのに責めるほど、円だって短慮じゃない。

 吐き捨てるように言ったのに、陸は堪えた様子もなく困り顔で笑った。

「円さんは、大雅が傷付くんじゃないかと心配してるんでしょう? やっぱり、あなたは優しいね」

「私はそんな善人じゃないわよ。徒党を組んでないと不安で生きていけないような奴ら、相手にもしたくないだけ」

 嫉妬程度で遠巻きにしたりコソコソ嫌がらせに走る弱者より、鬱陶しくても大雅と会話をしている方が圧倒的に楽なのだ。

 いつ何のはずみで傷付くか分からない繊細な果実を、常に抱えているのは煩わしい。円には頑丈くらいの方が性に合っている。

 その点だけで言えば、葉月といるのも気が楽だったりする。

 彼女も円に向けられる白い目を気にしない、豪胆な性格だ。

 早足で歩く円に苦もなく並び、陸は言い聞かせるように呟いた。

「でも、あなたは優しすぎるよ。これからはもっと自分を大切にして」

 前世のラティカの所業を知りながらどの口が言うのか。円は決して目を合わせないまま、暗い笑みを浮かべた。

 この男は全然分かっていない。

「私は前世で何でもやった。暴力も強奪も躊躇わずに。そんな人間が、たかがいじめで助けてくださいなんて、誰にすがるの?」

 他者を傷付けてきた人間に、そんなこと許されるはずがない。

 それでも陸は反論した。左の頬に熱い視線を感じる。

「それは『ラティカ』の罪で、『藍原円』のものじゃない。あなたの人生は、あなただけのものだ」

「そうね。でも記憶がある限り、人の本質は変わらない。私も、あんたも」

 どうしたって考え方は変えられない。生き方も。ラティカという前世を思い出す前から、円は世界に疑問を持っていた。

 テレビから流れる圧倒的に不幸なニュースを、その瞬間は痛ましいと感じるのに、誰もが次の日には忘れてしまう。

 自分には同じ不幸が降りかからないと、何の根拠もなく信じている。それは小学生の子どもから見ても、とても歪に映った。

 煩わしくなって円はさらに足を早める。けれどその手を、強く引き留められた。

「……僕は、変われると思ってる」

 ずっと見ないようにしていた陸の顔は、怖いくらい真剣だった。

 周囲にひと気はなくなっていたけれど、誰に見られるか分からない。円は陸の手を乱暴に振り払った。

 彼は案外簡単に解放してくれたけれど、掴まれていた箇所がじんじんと痛んだ。

「円さんは、どうして僕らが転生したんだと考えてる?」

 思いも寄らない質問に、円は立ち止まったまま眉をしかめた。

 転生した理由など考えたこともない。

 ただ漠然と、そういうものなのだと受け入れていた。

「知るわけないでしょ。まぁ、『虚』に落ちた者は違う世界に飛ばされるなんて噂もあったから、そのせいじゃない?」

「だとしたら、あの場にいたほとんどの者はここに転生しているはずだよ。まだ出会っていないだけかもしれないけど、さすがに魔王は転生してないんじゃないかな」

 陸の言葉に、魔王軍の顔が浮かんだ。『金獅子』や『黒竜』、それに、ミラロスカ。

 あのあとみんながどうなったのか、真っ先に『虚』に落ちたラティカには分からない。

 けれど、生き延びていてほしいという気持ちと、大切な養い親にまた会いたいという気持ちが、確かに円の中でせめぎ合っていた。

 ミラロスカの小馬鹿するような笑い方や、頭を撫でる時の決して繊細とは言えない手付きを思い出していると、陸が口を開いた。

「僕は、心残りじゃないかと思うんだ」

「……心残り?」

 陸から飛び出したとは思えない言葉に、円は目を瞬かせた。

 正義を貫き人を助け、最後まで信念を曲げなかった男が、心残りを語るなんて。

 己の人生を全うし、悔いなく死んだものだとばかり考えていたから、少し意外だ。

 陸は、ひたすら円だけを見つめていた。

「少なくとも僕は、『ルイス』の心残りのおかげでチャンスをもらえたんだと思ってる。そしてあなたに出会えた時、その思いは確信に変わった」

 静かな語り口だったけれど、信じられないほど強い感情が込められている気がした。それほどの熱を孕んだ瞳だ。

 見つめ返していられなくなって、円は街路樹に視線を逃がした。

 先ほどから、彼の視線はなぜこうも胸をざわつかせるのか。

 広い歩道には、今を盛りと咲き誇るハナミズキが整然と植えられている。

 薄紅色の透き通る花弁を夕焼けが赤く染め上げ、その鮮やかさがやけに胸に焼き付く。

 彼にここまでの顔をさせる心残りとは、一体何だろう。

 仲間ともっと一緒にいたかったとか、愛し合う女性がいたとか。様々な可能性が浮かぶけれど、それは生まれ変わってまで執着することなのだろうか。

 ――いや、悔いといえば、一つだけ……。

 ラティカを助けるために死んだことが心残りだと言うなら、納得できる気がした。

 だとしたら、彼の目的なんて復讐しか思い浮かばない。

 ――この期に及んで助けられなかったことを悔いてるなんて言われたら、徹底した偽善者ぶりも驚嘆に値するけど。

 陸の目的が分からない限り、やはり円が気を許すことはないだろう。

 けれど、彼から怒りや憎しみの感情を見つけられないのは確かで。

「僕は今世こそ、悔いがないように生きるよ。だから、君の心配だってするし、くだらない嫌がらせからも守りたいと思う」

 底知れない色を宿す瞳に、背筋が粟立つ。強すぎる意志に圧倒される。

「……私は、あんたに守ってほしいなんて、言ってない」

 円がようやく口にできたのは、たったそれだけだった。


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