第7話 日常

 学園に編入して、およそ一ヶ月が経った。

 家々の庭先ではサフィニアやマリーゴールドが争うように咲き誇り、五月の風が若葉の匂いを運んでくる。のどかな日射しと鮮やかな緑、優しい風合いの青空。見るもの全てが生き生きと輝き、命の胎動を感じる季節だ。

 洗いざらした空の青色に前世で大嫌いだった男の瞳を思い出し、円は顔をしかめた。

「鬱陶しい……」

「何か言った?」

「別に。毎日天気がいいなと思っただけ」

 鬱陶しいのは、何も春空のせいだけではない。苛立ちは編入以来ずっと続いている。例えば、両親の手前、結局毎日義弟と登校していることとか。

 駅まですぐとはいえ、ずっと無言でいるのも気詰まりだ。円は気まぐれに口を開いた。

「……高校には慣れたの?」

「そうだね。生徒会の庶務に抜擢された時は煩わしく思ったけど、おかげですぐに馴染めたという利点はあるかも」

 陸はまだ一年生だというのに、生徒会の要請を受けて庶務となっていた。

 抜擢というより、将来的に生徒会長、または副会長を任せたい相手に早い内から仕事を覚えさせるという側面が強い。そのため、彼の友人の優心も同じく庶務に選ばれていた。

「よかったじゃない。ならこれからも引き続き、私に近付かないでね」

「それ、僕が馴染めてないって答えたら一緒にいてくれたってこと? やっぱりあなたは優しいね」

「……あんたの周りの人間に、心底関わりたくないってだけよ」

「おはようございます、お二人共。今日も朝からとっても仲良しですね」

 陸が何か言い返そうと口を開いた時、朗らかな声が割り込んだ。

 鬱陶しいほど清らかな笑顔で近付いて来たのは優心だった。彼は本当に幼馴染みらしく、藍原家のごく近所に住んでいる。

 ちなみに大雅も近所だが、彼は生徒会とサッカー部をかけ持ちしているため、今のところ朝から出没ということはなかった。

 ――朝練っていうより、私を避けてるだけかもしれないけどね。

 顔を合わせるたびに衝突してしまうため、円の方も清々しているのだが。勇者一行の三人組が朝から勢揃いなんてどんな悪夢だ。

 この二人ならば、いちいち突っかかってくることもない。話しかけられても、受け流していればいいからまだ楽だ。

 仲良し、と表現されたことに関しては訂正したかったものの、円は存在感を消す方を選び、静かに彼らのあとを追った。



 陸達と別れた円は学園に到着すると、持ち歩くようにしていた上履きに履き替えた。

 下駄箱に詰め込まれたゴミを淡々と処分してから、教室に向かう。

 教室に着いても、声をかけてくる者はいない。円から挨拶をすることもなく、自分の席へ直行する。

 席についた途端、ずかずかと近付いてくる人物がいた。

 腕を組んで偉そうに円を見下ろしたのは、泉大雅。前世では、メイズという名の拳闘士だった。

 相変わらず派手な金髪と、耳には幾つものピアス。じゃらじゃらと腕を飾るブレスレットは数えきれないほどで、制服も着崩している。いくら自由な校風とはいえ、これが生徒会役員に選出されるなんて世も末だ。

 今は朝練終わりだからか、髪が少し湿っている。近くに立たれると微かにシャンプーの香りがした。

「あのね、私に構わないでっていつも言ってるでしょ?」

「そういうわけにいくかよ。オレは生徒会執行部の人間だし、それに同級生なんだぞ。お前、教室に入ったら挨拶くらいしろよな」

「……鬱陶しい」

「ぁあ!? 何だとこの根暗女!」

 大雅の吠える声が教室に響き渡り、円は黙って耳を塞いだ。

 彼の地声が大きいおかげで教室中の注目を独り占めだ。

 確認はしていないが、大雅は『円』が『ラティカ』であることに気付いているはずだ。

 それでも持ち前の責任感の強さと男気が発揮されるのだろう。彼はなぜか、円をよく気にかけているようだった。

「あんたの暑苦しい正義感が、少なからず地球温暖化に影響してる気がするわ」

「してねぇよ! つーか暑苦しいなんて、お前以外に言われたことねぇからな!?」

「八月十七日生まれの獅子座、好きな食べ物はカレー。座右の銘は石の上にも三年。趣味はジョギングで五キロ先の雲海公園に行って、朝陽を眺めること。ちなみに、太陽に向かって叫ぶ内容は毎回違う。感動して目をウルウルさせるのは年に数回しか見れない激レアな反応。って、このプロフィールだけで十分暑苦しいわよ」

 頬杖をつきながら、ことさら意地悪く見えるよう鼻でせせら笑う。大雅はすぐに真に受け、怒りと羞恥を爆発させた。

「お、オレは泣いてねぇ!」

「目撃者どころか画像まで出回ってますけど? つーかそんなチャラい見た目なのに努力家でお人好しで熱血って、キャラ盛りすぎじゃない? ギャップ萌え狙ってるの?」

「狙ってねぇ! そもそも何だよその細かい情報は! お前オレのストーカーか!?」

「私じゃないわよ。この学園にいたら、あんたの恥ずかしい黒歴史だって情報として手に入るの。例えば中二の調理実習で……」

「わー! やめろやめろ! 心配したオレが馬鹿だった! もう二度とお前になんか話しかけねぇからな!」

 足音荒く去っていく後ろ姿を見送りながら、円は嘆息した。

 ――って言いつつ毎日話しかけてくるからお人好しなんだって、分かってんのかしら。

 一限目は古文。この学園の学力は高いので、円はついていくだけで一苦労だった。

 予習でもしていようかと考えていると、前の座席の生徒がやって来た。

「あ、情報元」

「? おはよう円ちゃん」

「おはよう。今日もギリギリね、葉月さん」

 学園で一番最初に話しかけてきた一之瀬葉月とは、偶然にも席が近い。

 人懐っこいのか、円が遠巻きにされていることに気付いていないのか、唯一気軽に話しかけてくる女子だった。円に構うことで他の生徒から睨まれている様子もないので、彼女の好きにさせている。

「藍原君を観察してたら、こんな時間になっちゃった。はー、今日もカッコよかったぁ」

 頬を染めてうっとり息をつく葉月の瞳は、熱に浮かされたように潤んでいた。

 彼女には始業式のやり取りをどうやってか聞かれていたらしく、義姉弟であることが既にバレてしまっている。円に構う理由もその辺りに関係しているのだろう。

「そんなにあの男が好きなら、どうしてあの時いなくなったの?」

 円を上手く利用すれば、大好きな陸とも繋がりが持てたかもしれないのに。

 けれど葉月は真っ赤な顔のまま、ブンブンと勢いよく首を振った。

「だって、あまりにも恐れ多くて! あんな至近距離で藍原君を見たの、初めてだったんだもん!」

「そりゃ、遠くから眺めてるだけだもんね」

「私はそれで十分幸せなの。あの麗しいご尊顔を四六時中眺めて、ついでにカメラに収めることさえできれば満足なの」

 恋する乙女の風情で堂々とストーカー発言をするのはどうかと思う。分厚い眼鏡の奥の瞳がいつもより多めに怪しく輝いていた。

「まぁとにかく、姉弟だってことを内緒にしててくれるなら何でもいいわ」

 円は頭を振ると、机の中から教科書を取り出そうとした。けれど手に触れたのは、ノートの切れ端を丸めた紙くずばかり。

 紙くずを開くと、円を口汚く罵る言葉がこれでもかと並べられている。教室の中は大丈夫だと、すっかり油断していた。

 円の挙動を見守っていた葉月が、呆れたように眉を寄せる。

「……私が黙ってたところで、もうあんまり意味がないように見えるけど」

「この程度なら、大して気にならないんだけどね。四日前、登校したら上履きが水浸しになってた時はさすがに困ったけど」

 それも少し困っただけで、傷付いたり不安になったりすることはなかった。

 毎朝靴箱にゴミが入れられているのも、放課後になったらそれが補充されているのも、ご苦労なことだと思うだけだ。

「私の情報によると、藍原君は円ちゃんとの関係を言われた通りに隠してるみたいだよ。ただ、誰の目から見ても特別視してるのは明らかだから、むしろ変に勘繰られてるのかもしれないね」

「何。その特別視って」

「だって、何かにつけて熱い視線を送ってるもん。ずっと藍原君を見てるファンだからこそ気付くんじゃないかな」

「……」

 姉弟であることを黙っていても、あまり意味がないということか。むしろこのままでは、恋愛関係を疑われる可能性が強まると。

「……対策を考えるしかないか。誤解が解ければ、自然にこういうことも減るだろうし」

「うーん。藍原君、本当にずっと円ちゃんの動向を追ってるみたいだから、まずそっちを何とかしないとダメじゃない?」

「そうね。どういう意図で私の行動を把握しようとしてるのか、きちんと見極めないと」

「……たぶん、そんな小難しい理由じゃないと思うよー?」

 考え込む円に、葉月の助言は全く届かなかった。

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