第3話 新生活の始まり
◇ ◆ ◇
荒廃した村には、寂れた教会が一つだけあった。慈善事業に従事したり、身寄りのない子どもを引き取ったり、表向きはとても清廉な教会だった。
けれど実態はあまりに残酷なもの。教会で暮らす子ども達は、いざという時のストックだったのだ。
干ばつ、台風、川の氾濫。――あらゆる災害時における、人柱としての。
ある時、村を魔物が襲った。村人達は、いつものように人柱を立てることに決めた。
そこにたまたま通りかかったのが、魔王討伐の旅を続ける勇者一行だった。
村人達は人柱をやめた。けれどそれは、犠牲にしてきた子ども達への良心の呵責からではない。より確実に、そして容易に助けてくれるであろう勇者へと、すがる相手が変わっただけのことだった。
自ら立ち上がろうともせず、弱者を犠牲にすることに何の痛痒も感じない傲慢な人間達は、さらに神にまで意地汚く祈るのだ。『神よ、お助けください』、『我らの罪をお許しください』。
赦しを乞うなら、なぜ罪を犯す?
勇者を討つためたまたま村へと訪れていたラティカは、内情を知って憤った。人柱を主導していた神父を糾弾するも、相手は震えるばかり。
『――人は誰しも、あなたのように強くいられる訳ではないのです。我々にはこれしか方法がなかった。弱いのです。人とは弱い生き物なのです。こんな私でも神は救ってくださると、信じて祈るしかないのです』
ラティカは激昂した。
いい加減、弱者ぶるのも大概にしろ!
自分の罪は自分だけのもの。どれだけ重くても、苦しくても、一生一人で背負い続けるべきだ。それが唯一、贖罪の方法であるはずなのに。
それでも勇者は、彼らを弱さごと受け入れて助けるのだ。魔物は見事討伐され、村人達は救われた。
勇者は、頭がおかしいのだろうか?
気持ち悪いと思った。自分の弱さに甘える大人も、それを助長させる勇者も。
ラティカを捨てた両親もそうだったから。
ラティカは、平凡な農村に生まれた。両親にとっては七人目の子どもだった。
物覚えは悪くなかった。家族が多くいつでもお腹を空かせているような生活だったけれど、率先して働いてみせた。
幼子にとっては過酷な畑仕事も、文句一つ言わずに手伝った。
……紅色の瞳さえ持っていなければ、忌み嫌われることもなかっただろうか。
どれだけ役に立っても。従順に頷いてみせても。両親の瞳はいつでも冷えきっていた。
口減らしのために捨てられた時も、なぜ自分なのかと疑問にすら思わなかった。
兄弟達のように名前を付けてもらうことさえ、ついぞなかったのだから。
◇ ◆ ◇
目覚まし時計が鳴る前に、円はゆっくりと目を覚ました。
時刻はタイマーより十分早い。
前世の夢を見たのは、いつ以来だろうか。
見回すと、最近ようやく慣れてきた新居の私室が目に映る。
アンティークローズの描かれた壁紙に、繊細なレースのカーテン。ダークブラウンの天蓋付きベッドは居心地が悪くなるほど広い。淡いピンクのシーツも掛け布団も、もちろん最高級の品質だ。
藍原邸へ引っ越した当日、この部屋のあまりの可愛らしさに円は絶句した。インテリアを決めたのは案の定慶一郎で、ほくほくした笑顔を見れば文句など言えるはずなかった。娘が欲しかったという彼の言葉は、社交辞令でも何でもなかったらしい。
「……」
乙女チックな光景と夢との落差に、現実を受け入れがたい。それでも円は頭を振ると、静かに身を起こした。
前世では、肉親の情に恵まれなかった。その後優しい養い親に拾われたのでどん底の人生とは思っていなかったが、今世はまさに平穏そのものだ。
戦争とは縁のない、ぬるま湯のような国。
理解のある母親。そして新しくできた義父と義弟。
――義弟が大嫌いな勇者じゃなければ、本当に言うことなかったんだけど。
前世の因縁が今世にも影響するなんて、何とも業の深い話だ。その上家族に心配をかけないために、最低限親しいふりをしなければならないのが何より皮肉だった。
今日からついに新学期。
円は藍原一族が経営している『紫峰学園』に編入する。新入生である義弟と一緒に通うことは、既に決定事項だった。
朝からめっきり気が重くなりながら、ノロノロと階下に向かう。
母が看護師とはいえ、慎ましい生活を送っていた円には考えられない広さのリビング。大きすぎるダイニングテーブル。藍原家は最新の家電や最高級の調度で溢れていた。
対面式のキッチンには祐希奈が立っており、朝食の準備をしている。
その隣にはコーヒーを片手にパンの焼き加減を見張っている慶一郎。今日も朝から安定のラブラブぶりだ。
「おはよう、円ちゃん」
「おはようございます、お父さん。朝食くらい一人で作らせないと、その人どんどん増長しますよ」
「好きでやっていることだし、僕は簡単なことしか手伝っていないよ」
答える慶一郎は言葉通り幸せそうだ。
サラダにベーコンにスクランブルエッグという比較的簡単な朝食を作っていた祐希奈が、不満そうに唇を尖らせた。
「何よ円ってば。作ってもらっといて、そんな言い方しなくてもいいじゃない」
「こっちは序盤から頑張りすぎると無理が出るんじゃないかって心配してるんだけど? 二人で暮らしてる時はお休みの日だっていつも私が……」
「イヤだ円ちゃんったら、早く顔洗って着替えなきゃ~! 初日から遅刻なんて恥ずかしいわよ!」
「はいはい。お母さんがそれでいいなら、もう何も言わないよ」
円は半眼になって洗面所に向かった。
昼夜問わず忙しい母のため家事は一手に引き受けていたのだが、それは言わない方がよさそうだ。
よく見ればベーコンは少し焦げているし、玉子は火が通りすぎてパサパサだが、本人的には上出来らしいので、これでいいのだ。
慶一郎は気付いているようだが、休日は料理をしたいという本人の意思を尊重している。むしろ自分達のため頑張る姿を見ていると、幸せな気持ちになるらしい。どこまでも愛情深い人だ。
着替えてリビングに戻ってくると、制服姿の陸が先に到着していた。
「おはよう、円さん」
「……おはよう」
寝起きの気だるさを一切感じさせない爽やかな笑顔に、円は苦い声で返した。
九月の出会いからおよそ半年。一つ下の義弟はすっかり成長していた。
頼りなげだった肩幅は男らしくなり、身長もさらに伸びた。
シャープな顎のラインに引き締まった頬、凛々しい眉。繊細さは残っているけれど、今やすっかり子どもっぽさを脱していた。
稲穂のような茶色の髪と同色の瞳は、本当に外国の血が入っていないのかと疑問に思うほど美しい。
紫峰学園の制服は、この近辺の高校に比べると目立つ。
ライトグレーのブレザーの右胸には学園のエンブレム。袖や襟を縁取るチャコールグレーのラインと同色のスラックスは、よく見るとグレンチェック柄。全体的に細身の造りだが、陸の均整の取れた体にあつらえたようにピッタリだった。これを見て騒ぐ女子達の声が聞こえるようだ。
半年の間に、一緒にいるだけで注目を一身に集めることも、嫉妬の視線に晒されることも学習済みだった。
ちなみに円が着ている制服は、地元の女子の憧れの的だ。
色合いは男子と同じだが、特徴的なのはノーカラータイプのブレザーの下にセーラーを着ていることだった。白地に濃紺のラインが入ったカラーは、襟元を華やかに飾っている。プリーツスカートに合わせるのは、学園指定の白い縁取りが清楚な紺のソックス。
学力が高くセレブが集まる高校で、制服まで可愛いというのはかなりのブランド力だ。そこはかとなく庶民臭の漂う円が着ていれば、さらなる嫉妬の嵐に巻き込まれること請け合いだった。
憂鬱な溜め息と共にダイニングテーブルに着席すると、正面の慶一郎が心配そうに眉根を寄せた。
「大丈夫、円ちゃん? 転校先は知らない人ばかりだし緊張するよね。やっぱり心配だから、僕達も一緒に……」
「大丈夫です! 期待で胸がいっぱいで、つい息が漏れちゃっただけなので!」
息子の晴れ舞台のため休みをとった両親が、以前から送迎を申し出てくれていたのだが、円はきっちり断っていた。
目立つ高級車で、目立つ容姿の父子と共に校門前に乗り付ける。しかも藍原一族の実力者の訪問ということで、学園側のお出迎え付き。一体どんな罰ゲームだ。
「円さん、そんなに僕との学園生活を楽しみにしてるんだね。嬉しいな、僕もとても楽しみだよ」
円の神経を逆撫でするように、陸がわざとらしい笑顔で言い切った。反論しようにも両親の前では心苦しい。
「アハハー、面白いこと言うね……」
乾いた笑いを漏らしつつも、決して肯定だけはしない。
これが円にできる、最大限の抵抗だった。
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