第2話 結婚は決定事項です

 会食はつつがなく進行していく。

 全員が挨拶を終えて席に着くと、飲み物や料理が運ばれ始めた。終始無言を貫く円を、母は緊張で無口になっているのだと笑う。

 談笑を交えながら、穏やかな雰囲気で時は過ぎていく。

 香草で臭みを消した柔らかなステーキをできる限り上品に食べ終えると、円はようやく口を開いた。

「――――私は、反対です」

 瞬間、空気が凍り付く。

 祐希奈が笑顔を強張らせた。

「円ちゃん?」

「気が変わったの。私はこの結婚に反対」

「円ちゃん!?」

「けれど、今さら私の都合で覆すことができないことは分かっていますし、また母の幸せを否定したくもありません。ということで、私はこの結婚を機会に、一人暮らしを希望したいと――……」

「円ちゃ――――ん!!」

 高級フレンチ店に母の絶叫がこだまする。

 慶一郎がどういう権力を振るったのか、店内の客は既に円達だけだったが、だから問題なしという話ではない。

「お母さん、時と場所をわきまえてよ」

「それはこっちのセリフだけどね!? でも確かに軽率でしたごめんなさい!」

「謝るよりもう少しボリューム抑えたら?」

「あんたが私を抑えさせないのよ! てゆーか何でそっちがそんな冷静なの!?」

 混乱中の祐希奈のツッコミは苛烈だった。

 少量のアルコールが入っているせいか、感情の制御が上手くいかないのだろう。このままでは事態の収拾がつかなくなると、円の脳裏に懸念が掠める。

 慶一郎が席を立ち、宥めるように祐希奈の肩を抱いた。出遅れた円が一連の素早さに目を瞬かせていると、彼の視線がこちらを向いた。困惑に少しの寂しさが交じっていて、罪悪感がチクリと胸を刺す。

 二人を祝福する気持ちを誤解されたくない。けれど円からの拒絶は、確実に彼らを傷付けていた。

 こういう時、どうすればいいのか途端に分からなくなる。

 傷を付けられるのが自分であれば、平気でいられるのに。呼吸するように皮肉を紡ぐ唇は、大切な人の悲しげな顔を前にすると急に愚鈍になる。

 立ち竦む円の肩にそっと添えられた手は、優しかった。

「父さん。少し、彼女と話してくる」

 大嫌いな男に庇われていると分かっても、円は顔を上げられなかった。

 けれど少なくとも、陸の柔らかな声からは負の感情を感じられない。

 慶一郎は息子を信頼しているのだろう。

 返答までしばらく間があったものの、彼は頷いた。

「分かった。僕らはコーヒーでも飲んでいるよ。祐希奈さんは、少しお酒が過ぎたみたいだから」

 この期に及んで擁護しようとする慶一郎の優しさに息苦しくなりながら、円は促されるまま従った。

 陸に誘導されてやって来たのは、静かな通用口だった。従業員くらいしか近付かない場所らしく、薄暗く人の気配もない。

 力なく深紅の絨毯を見つめる円を、一つ年下の少年が気遣わしげに覗き込んだ。

 あどけなさは残っているし肩幅も細いけれど、身長は既に十センチ以上高い。見下ろされるのは何だか腹立たしかった。

「大丈夫? 落ち着いた、ラティカ? いや、今は円だったね」

「……ムカつくけど、お礼は言っておくわ。あのままじゃ、全部台無しになってたかも」

 もう取り返しがつかないくらい、やらかしているけれど。

 溜め息をつきながら前髪を掻き上げると、陸はクスリと笑声を漏らした。

「あなたは昔から不器用だよね。誰彼構わず傷付けようとするくせに、愛情に触れると小猫みたいに大人しくなる」

「なっ……馬鹿にしないでよ!」

「馬鹿になんてしてないよ。全然変わっていなくて、むしろ嬉しいくらいだ」

 綺麗な笑みを向けられ、円は鼻白んだ。嬉しいという言葉に、裏があるような気がしてならない。

 勇者ルイス。魔王を打ち倒すという使命のため、聖剣に選ばれた男。

 魔王領と国境を接するリハンメル王国は、常に魔物の脅威にさらされていた。

 人々の希望の星として立ち上がったのが、勇者一行だった。

 彼らの活躍は凄まじいものだった。

 生け贄として捧げられようとしていた乙女を救ったり、貧しい村の畑を荒らす害獣を追い払ったり。

 大きなことから小さなことまで、あらゆる善行を躊躇わなかった。救いを求める手を、決して振り払うことなく。

 その旅の結末を円は知らない。魔王との決着まで、『ラティカ』が生きることはなかったから。

 ――でもまぁ、この男がいなければ魔王討伐なんて成り立たなかっただろうから……。

 暗い暗い闇に落ちていくラティカに差し出された手を思い出す。

 勇者ルイスは、おそらくラティカを助けようとして死んだ。彼が陸として今目の前にいることが、事実を雄弁に物語っている。

 ――まさか、自分の役目を放棄して、魔族側の人間を助けるなんてね。

 それが原因で命を落とすとは、自分に責任はなくても、何とも後味が悪いものだ。

 苦い気持ちで前世に思いを馳せる円とは対照的に、陸はあくまで朗らかだった。

「僕と暮らすことに抵抗があるのは分かるけど、この結婚は決定事項だよ」

「私だって分かってるわよ! ……でも、あんたこそ本当に納得してるわけ? 一つ屋根の下でなんて、無理に決まってる」

 かつて幾度となく、勇者を計略で陥れようとした。

 ラティカとルイスは宿敵同士だったのだ。

 それが、姉弟なんて。

 仲良く家族としてやっていこうなんて、冗談にしたって質が悪すぎる。

「でも、そうやって拒絶し続けていれば、あなたのお母さんは悲しむだろうね」

 痛いところを突かれて黙り込む円を諭すように、陸は言葉を接いだ。

「前世の記憶に振り回されて選択を違えてはいけない。過去がどんなものであれ、僕達は既に別の人間なんだから」

 全くの正論だった。

 それを信じきれないのは円の弱さなのか、過去の因縁のためなのか。

 ――自分の死の原因になった人間を、そんな簡単に許せるもの?

 円なら許せない。もし前世での両親が目の前に現れたら、きっと今がどんな善人だろうと、憎まずになどいられない。

「……あんたのそういうところが、昔から大嫌いだったのよ」

 円はゆっくりと顔を上げ、冷えきった瞳で陸を見据えた。

「他人のことばっかりで、自分のことはいつも後回し。みんなの笑顔が見られればそれで幸せ、なんて胡散臭いこと言っちゃってさ。どんだけ高潔で英邁なのか知らないけど、本能で生きてる私を馬鹿にして見下して」

「馬鹿にしたことなんて、一度もないよ」

「ホラ、そうやって悪人にまで情けをかけるのよね。でも知ってる? 自分より下に見てる相手しか憐れむことはできないって。あんたはね、周り中みんなを見下してるのよ」

 前世のように罵倒するのを止められない。ルイスはいつも悲しげに受け入れるばかりだったけれど、陸は意外にも反論した。

「違う、本当にそんなつもりはないんだ。他人のことばかりとあなたは言うけど、自分のためでもあるし」

「何がどう自分のためなのよ」

「僕はあなたに――――」

 陸は僅かに言い淀むと、ゆっくり顔を上げた。真っ直ぐ向けられる視線は、思わず怯んでしまいそうなほど強い。

 不意に、自分が今どこにいるのか分からなくなった。

 彼とこうして対峙していると、前世の世界にいるような錯覚に陥る。

 勇者は強くて誇り高く、決して視線を逸らすことのない男だった。

 切れそうな瞳で真っ向から見つめ返す円の背中に、緊張感を殺ぐ声がかかった。

「円! このカワイコちゃん!」

「ゴフッ!」

 いきなり背後から抱き締められ、肺から勝手に息が漏れる。抱擁というより最早タックルのようだ。

「もうっ! いきなりあんなこと言うからビックリしちゃったじゃない! ママが取られちゃうって実感が湧いて、焦っちゃったのね!? でも大丈夫! ママはみんなのママだから!」

「マジでちょっと何言ってるのか分かんないんですけど……」

 キャアキャア騒ぐ祐希奈のテンションについていけない。穏やかな笑顔でゆっくりと追い付いてきた慶一郎に、円は半眼を向けた。

「あの、慶一郎さん。母の酔いが全然冷めてないみたいなんですけど」

「慶一郎さんじゃなくて、お父さんって呼んでほしいな。もっと言うならパパで」

 ずっと娘が欲しかったのだと笑顔を向けられ、円はすっかり毒気が抜けた。陸がやや遠巻きに面白そうな顔をしていることは、癪に障るけれど。

「さっきはすいませんでした。あの、結婚おめでとうございます。これから母共々よろしくお願いします。……お父さん」

 頭を下げると、慶一郎が安堵と共に笑みを深めた。

「遠慮しなくてもパパでいいのに」

「……あの母と気が合う理由、何となく分かった気がします」

 大病院の院長だというのに、ちょっと気さくすぎやしないだろうか。だが、陽気な祐希奈とは本当にお似合いだ。

 酒の力で陽気が突き抜けてしまっている母が、円の肩をバンバン叩いた。

「ごめんなさいね! うちの娘、円って名前なのに団体行動とかできなくて! アハハ、名前負け!」

「お母さん。お母さんしか笑ってないから」

「いやいや、さすが祐希奈さん。上手いね」

「綺麗で明るくて面白いなんて、素敵なお母さんができて嬉しいです」

 謎のリアクションを返す藍原親子を、円は冷々とした目で見守った。すっかりほのぼの親子の図だ。

 慶一郎の視線が、笑みを残したまま円へと移される。

「そうだ、円さん。もう聞いていると思うけど、新しい高校の手続きは滞りなく済んだから安心してね」

「はい?」

「あれ? 祐希奈さん、言ってなかった?」

「あ、忘れてた。テヘ」

「もう、うっかりさんだな」

「――あの、イチャイチャするのはいいんですけど、そこのとこ詳しく」

 面倒なので身を寄せ合う二人の熱々ぶりは止めない。祐希奈と慶一郎は仲睦まじげに、代わる代わる説明した。

「慶一郎さんのご実家がね、学校を経営してるんですって。今は弟さんが経営してるらしいんだけど、藍原一族の子どもはみんなそこに通う決まりなんですって」

「つまり、僕の母校だね」

「そう。籍を入れたら円も藍原になるわけだし、区切りよく二年生から編入させてもらいましょうね」

「お友達と離れるのは寂しいだろうけど、頭の固い親族がうるさくて。申し訳ないね」

「何も問題ないわよ慶一郎さん。だって円、学校に友達なんていないもの」

 どうやら円の転校も、決定事項らしい。

 紫峰学園という名前を聞いて驚いた。地元でも有名な私立の高校は、セレブしか通えないところだったはずだ。庶民の円には随分と敷居が高い。

「よ、よく分かりませんけど、私は、」

「そうだよね、やっぱり嫌だよね。藍原の親族が経営する学園なんて、窮屈だろうし」

「大丈夫、円は学力の心配をしてるだけよ。勉強は春までに、家族一丸となって何とかしましょう」

 母のいちいち失礼な発言はともかく、学力の問題があるのは事実だ。確か、偏差値も今の高校よりかなり高い気がする。

 けれどしょげ返る慶一郎を見ていると、罪悪感に押し潰されそうだった。

 彼の優しさと愛情は、会って間がなくても十分に理解している。

「えっと…………新しい高校、楽しみです」

 三方向から期待の眼差しを向けられ、円は結局折れた。瞳を輝かせる慶一郎には、今後も敵わないかもしれない。

「ちなみに僕も来年、新入生として入学するから。よろしくね、円さん」

 いつの間にか隣に立っていた陸が、にっこり爽やかに笑う。眩しく感じるほどの笑顔に胡散臭さを感じたのは、円だけだった。

「あら、すっかり仲よしさんなのね」

「二人が仲良くできそうで、僕らもとても嬉しいね。これから明るい家庭を築いていこうね、祐希奈さん」

「家族が増えたら、きっと今よりもっと素敵でしょうね」

「そうだね、目標は大家族だね」

 会話を弾ませるほのぼの夫婦を眺めながら、先が思いやられる円だった。

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