第6話 道
映画『道』La Strada. 監督フェデリコ・フェルリーニ
映画コラムにおける不思議
映画のファーストシーン。
貧しい子だくさんの母親からザンパノ(アンソニー・クイン)は子供のように純なジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を金で買い、イタリア全土を旅してまわる。
その初めのシーンからあまりにもつらいヒロインの登場にその後の展開に不安を感じる。
横暴な男に買われ、まともに人間扱いも女扱いもされない。
貧しい、食べていけない、売られる。この人間社会の理不尽さ。人間を虐げ、虐げられる、動物世界よりも過酷なこの人間社会。
ジェルソミーナとザンパノ。そして気じるし。
全編を通して流れるニーノ・ロータの哀切なるメロディが胸に迫る。
いつの日にか善は悪に、愛情は暴力に打ち勝つ日が来るのだろうか。
ジェルソミーナのひたむきな瞳の中に絶望を見る。
フェデリコ・フェリーニに聞いてみたいこと。
最初に10代のころ見て以来、結婚後夫婦で観たり、一人で観たり。結局何度見たか分からないくらい折に触れ見返した。
すべてのシーンが頭に入っている、と言えるくらいに何度も観た。あきなかった。すっかりジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナのファンになり、主演しているほかの映画も観た。
その後夫が50代に入って亡くなる直前にこの映画のラストシーンに関して言い合いになった。
ジェルソミーナを捨てたザンパノは年をとって白髪頭になり始め、長年その力自慢を誇ってきた大道芸の鎖切りができなくなってしまった。
観客に嘲られ、いつものように大酒を飲んで喧嘩をする。
昔ジェルソミーナが吹いていたメロデイが聞こえてきた。
すでにその時にはジェルソミーナは死んでいた。
絶え間なく聞こえてくる波の音。
ザンパノは酔っ払い、夜の浜辺にたどり着いた。
砂浜をふらふらと歩きながら街の方を見た。
彼はふいに両手のこぶしを目にあてた。
それから、波打ち際に吸い寄せられたよう歩いていく。
人影のない暗い海。
彼は、海の方へと歩を進める。
足が濡れるのも構わず両手で海水をすくいとり、火照った顔を洗った。
砂浜に戻りくずおれるように座り込む。
はあはあと肩で息をしながら。
右手で口をぬぐった彼は、突然気づくのだ。
空を見上げ、さらに目を落とし波の音のする海の方を見つめる。
「見えない」
そして気が付く。
見えない...のだ。
驚愕、不安。
顔を左右に動かしながらザンパノはあたりを見回す。
あたりが全く見えなくなっている。
打ち寄せる波も。
空の星々も。
遠くに見えるはずの街の灯も。
ザンパノは嗚咽と共にくず折れ、砂に突っ伏した。
もちろん、ジェルソミーナが吹いていたメロディーが聞こえてきていたに違いない。
ザンパノの老いて怯えたうらぶれた姿を頭に描きなおしながら、私は言った。
「あれだけ若いころから何度も何度も無理な鎖切りの芸をやり続けて来たんだから、視神経やられるよね。冷酷極まりないザンパノも年とってきて、鎖を引きちぎれなくなって、食べて行く手段がなくなって、どうやって生きていくかって。浮浪者になるしかないのかって考えて。それでやっと自分が捨てたジェルソミーナのこと思い出して、少しは悔いたか。なんてシーンかと思ったけど...」
「あれはもしかすると、単純に目が見えなくなった、って知った時の恐怖で、嗚咽しただけかもしれないね。もちろんジェルソミーナを思ったでしょうけど」
「ええ!何言ってんだお前。目が見えなくなったって、そんなシーンどこにあったんだよ。そんなことないだろう。
目が見えない?考えすぎだよ。」
「ええええええええ!!!!」
私は心底驚いた。当然、
「うん。本当に、アンソニー・クインうまいねえ。」
なんてふうに、すんなりと同意してくれると思っていたから。
それが、
「そんな目が見えなくなったなんて話、どの映画評論家も書いてるの見たことないぞ」
と予想もしなかった言葉が返って来た。
(ええ!!それどういうこと!評論家が書いてないからってなに?評論家はいつだって、正しいの?おかしなこと書いてる人いるでしょ。そんな人の批評に影響されるの!!)
本当は、大声でこう云いたかった。
いつも映画の感想を云う時の夫のとても新鮮なものの見方にほれぼれすることの多かった私は、戸惑った。
今までの一種の尊敬の念ともいえる気持ちが錯覚だったのかもしれないと落胆した。
もうちょっと頑固で、自分の意見のある人だと思っていた。
私の言うことは受け入れないくせに、全くの他人の意見を受け入れるとは!
映画を観るときは全身で自分の経験と感性の全てを駆使して、丸ごととらえたい。
批評家がなんて言ってたって自分が見てどう感じるか。
夫は、黙ってしまった。
その時、目の前で映画を何度も巻き戻せたなら、私の言っていることが正しいとわかったに違いない。
しかし、お互いの記憶の中にある映像を思い出しながら議論していただけなので、思い込んだら最後、お互いもうこれは水掛け論、平行線、けんかに発展する。
それで、私も自分の意見を引っ込めた。
「ま、同じ映画を観ても、ひとそれぞれ、感じ方もとらえ方も解釈の仕方も違うから、しょうがないね」
と、少し日和見的な言い方をして口論を避けた。
しかし...なのである。
本当はどうなんだろう。
フェルリーニはどのように描きたかったのだろうか。
あれから9年。
もう一度見てみる機会もなかったが、やはり私はどう思い出しても、目が見えなくなったその時のザンパノの思いが観るものを圧倒する衝撃のラストシーンであったとしか思えないのだ。
長年の歯痒い思いはついに晴らせる日が来た。今回このコラムを書くにあたってyoutubeでエンディングを何度も何度も見返し、やはり私の理解が100%正しかったとしか思えないのだ。
ああ、夫が生きていたら、どんな反応をしただろう。惜しかったなあ。
悔しがったことだろう。
しかし、私は否定したのではない。
どのコラムを見ても、淀川長治のコメントを聞いても、そして、最近ではとても見事なブログのコラムを読んでも、この点に触れている人は一人もいない。
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脚本がどうなっていたのか知りたい。
しかし、例え、
「目が見えなくなった」のではなく、どこからかジェルソミーナの吹いていた
メロディーが微かに聞こえてきて、暗闇の中で探し求めるように空や彼方を眺めただけだった。
だとしても、もちろん、それもあり、と同時に目が見えなくなった、と私は受け止めた。
のは、動かしがたい記憶である。
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