Ⅱ 否定
溶き卵が熱したフライパンに流れこみ、ジュワッと音を立てた。ふわふわにかき混ぜられ、フライパンの端に寄せられて、軽く揺すられた次の瞬間にはきれいにひっくり返っている。
僅か数十秒で皿に盛られた卵料理を眺め、青年は感嘆の息を吐いた。
「見事な腕前ですね。何ですか、これ」
「オムレツ。クロさん、食べたことないの」
「ありません」
「ふうん、それは損してるよ」
人間の暮らしはそれなりに見てきたつもりだったが、青年にとっての料理は出されるものであり、作るものではなかった。しかし、これからはそうも言っていられない。台所を忙しなく動く少女の横で、立ち尽くすしかできない状況は、青年を情けない気分にさせた。
促されて食卓に着いたものの、殆どの用意は
オムレツをフォークで割って口へ運ぶ。バターの香りのする柔らかい塊の中から半熟の卵がとろりと溢れて、口の中を満たした。成程、なかなか美味な料理だ。
花織は、オーブントースターなる機械からパンを取り出して、一枚を青年の方へ差し出した。自分の分はナイフで半分に切って、その片方も青年の皿の上に乗せる。
花織の皿に乗っているのは、半分だけのパンに、オムレツが数口程度だ。
「人間の子どもって、それだけしか食べないんですか」
「ふつうの十歳よりは少ないかもね」
はぐらかされたようにも感じたが、普通がどれぐらいか分からないので、これ以上言えることはない。
「クロさんは、人間じゃないの」
「初めに名乗ったとおり、『魔人』に分類されます。便宜上、今は人間に似せた姿をとっていますが、本性は異なります」
「本性って?」
「人の世のモノに例えるならば……大鴉といったところでしょうか」
「結局黒いのね」
「そうですね」
なんとも気の抜けた会話を続けながら、だらだらと食事を口に運ぶ。
青年の皿には、少女の倍以上の量が盛られていたが、先に食べ終わってしまった。
少女の一口がとても小さい所為だろう。少女の皿が空になるまでは、もうしばらく時間がかかりそうだった。他愛もないおしゃべりが止まないのも、食べるのが遅い原因の一つかもしれない。
花織は後片付けもさっさと一人で済ませてしまいそうだった。このままでは、本格的にやることがない。皿洗いを申し出れば、特にこだわりはないようで、簡単に交代してもらえた。
青年にスポンジを手渡すと、花織はシンクのすぐそばに両膝を抱えて座り込んだ。うっかり蹴飛ばしてしまわないかとヒヤヒヤする。かといって邪険に追い払うのも気が引けて、結局足元に意識を割きながら作業をすることになった。
スポンジに洗剤を含ませていると、少女が思い出したように問いかけてくる。
「クロさんはいつまでここにいるの」
「少なくとも貴女が成人するまでは、という契約です」
青年の答えに、花織はへええと呆れ混じりの声をあげた。
「それってすごく気の長い話。十年後だよ」
「わたくしにとっては大した時間ではございませんので」
「迷惑じゃないの?」
「報酬は既に頂いております」
「おじいちゃんの魂のこと?」
「ええ」
濡れた皿を拭き終わって、近くのフックにふきんを引っ掛ける。タオルで手を拭いて、息を吐いた。慣れない作業は短時間であっても疲れるものだ。
「魔人って何でも言うことを聞いてくれるんだ」
「何でもは言い過ぎですね」
「そだね。クロさん、お料理できないもん」
からかい混じりの言い方に少々ムッとしたが、事実であり現時点では反論できない。
「これから覚えます。知らないことは知ればいい。料理に関しては、優れた知り合いがいるので、教えを請いますよ」
「その知り合いも魔人?」
頷き、『食を司る魔人』という名を出せば、花織は感心した声を上げた。
「そんなことができる魔人もいるんだ」
「個体差で得手不得手はありますし、どう頑張ってもできないことはありますがね」
昨夜、死にかけの魔術師を前に、寿命を延ばすことはできないと断りを入れたばかりだ。そして、花織と暮らして面倒を見ることは、青年にとって頑張ればできそうなことだった。
床に座っていた花織は立ち上がり、下から魔人の顔を覗き込んだ。透き通った黒玉の瞳に、青年の姿が写りこんでいる。
「……ねえ、クロさん。わたしのお願いも聞いてくれるの」
そう言った花織の表情は、先程までと何ら変わりなく、少しの期待も窺えない。ここまでの話を聞いて尚、魔人の存在を疑うわけではないだろう。しかし、本気で願いが叶うとも思っていない目だ。
質問の意図を測りかねて、青年の返答が少々事務的な色を帯びる。
「構いませんよ。現行の契約内容に含まれた事項です」
「どういう意味?」
「簡単に言うと、貴女のおじい様との契約で、貴方の願いを叶えるよう頼まれています。一つだけなら、魂の譲渡なしで聞き入れますが」
「何でもいいの?」
「『何でも』は無理です」
ずっとしゃべり続けていた花織の口が、初めて止まった。
「少し考えてきてもいい?」
「ええ、勿論。今日じゃなくたって構いませんよ。時間は飽きるほどありますから。少なくともこれから十年は」
青年の言葉に、花織は曖昧に頷いて踵を返した。
さて、何を言ってくるやら。早い段階で契約内容がクリアできるのは望ましいので、魔人としては叶えてやりたいところだが。
***
「わたしに魔術を教えて」
夕食を終え、後片付けを始めた青年の足元で花織はそんなことを言い出した。
「それが貴女の願いですか」
「うん」
青年はシンクの水気を拭き取って、二人分のコーヒーを入れた。花織は自分のカップに砂糖とミルクを入れて、かき混ぜている。
「これまでおじい様に教わったことは?」
「全然。おじいちゃんは教えてくれなかった。下の部屋にも、絶対に入れてもらえなかったし」
下の部屋というのは、魔人が喚び出された地下室のことだろう。大量の魔術書が本棚に収められていたので、魔術のさわり程度なら充分教えられるはずだ。
「できない?」
「可能です。ただし、魔術は学問のようなもの。基礎はそれなりに体系だっていますが、途中からは無数に枝分かれして、真理を追求するには人の寿命では足らないでしょう。具体的に、魔術を使って何をしたいんですか?」
花織はふうふうとコーヒーを冷ましながら、青年とは視線を合わせずに言った。
「魔人の召喚」
呆気にとられてしばらく言葉を失ったが、気を取り直した青年は、強い口調で少女を止めにかかった。
「いけません。魔人と契約なんて、するものじゃありませんよ」
「……魔人のクロさんが言っても説得力ないよ」
ぐっと言葉に詰まった青年に追い打ちをかけるように、花織は続けた。
「だってクロさんには、わたしの本当の願いは叶えられないから」
納得はできなかった。まだ、花織の本当の望みを聞いていない。どうして端からできないと決め付けるのか。
「分かるよ。クロさんは絶対に『できない』って言う」
「だから何ですか」
「言わない」
少女は頑なに首を振った。かと思えば首を傾げて青年に問うのだ。
「で、教えてくれる? 魔人の召喚術」
「だから駄目ですって」
「どうして?」
どうしてもこうしても、老魔術師との契約に抵触する可能性がある以上、飲むわけにはいかないのだ。そうだ、彼も言っていたではないか。魔人と契約なんてするやつは碌でもない、と。
「魔人と契約した人間は、魂を奪われ、この世に骨の欠片一つ残さず消滅します。契約した人間は皆、後悔の中で生涯を終えています。『魔人なんかと関わるんじゃなかった』……この台詞を何度聞いたことか」
「じゃあ、おじいちゃんも、クロさんと契約したことを後悔してた?」
「それは」
青年は言葉に詰まる。沈黙は長くは続かず、花織が囁くように告げた。
「わたしを殺して」
聞き間違いかと思った。そう思いたかった。
「……できません」
「どうして? わたしのお願いを聞いてくれるんでしょ。じゃあ、わたしを殺してよ」
「できません。少なくとも成人するまではあなたと一緒に暮らさなければならないことになっています」
『契約を司る魔人』――自らの名において、契約は絶対だ。老魔術師との契約が前提にある以上、花織が不幸になったり命を落としたりするような願いは叶えられない。
「じゃあ、おじいちゃんとの契約を取り消して、わたしと契約して」
「できません。わたくしの今の契約主は、かおるさんのおじい様です。先払いで魂を頂いた以上、その契約を果たすまで別の契約を結ぶことはできません」
花織はカップの取っ手を握り締めて俯く。
「……クロさんって『できません』しか言わないね」
「できないことを『できる』と言わないのが、わたくしの精一杯の誠実だとご理解いただければ」
花織が顔を上げて青年を睨む。頬が怒りで紅潮していた。幼いながらも苦々しげな表情は、若き日の老魔術師の苛烈さを思い起こさせる。
「それじゃあやっぱり、わたしはわたしの願いを叶えるために、自分の魔人を喚び出さなきゃいけない」
ずっと違和感はあった。ただ一人の肉親を亡くしたばかりの少女が、普段通り振る舞っていることも、得体の知れない存在に物怖じせずに話しかけていることも。少女の態度があまりにも自然だったので、気付くのが遅れた。
少女にとっては全部どうでも良かったのだ。たった一人、祖父のいない世界で生きていくことに比べたら。
祖父の座っていた椅子に触れたとき、杖を抱え込んだとき、もっとその痛みに寄り添うべきだった。別れも言えず最期にも立ち会えなかった彼女が、悲しみに潰れてしまう前に気付いてやれるのは、あの場に魔人しかいなかったのに。
「かおるさん。貴女の願いは、わたくしが叶えます」
「じゃあ、わたしを殺して」
「それはできません」
堂々巡りに途方に暮れながらも、ようやく成すべきことが見えてきた。
花織が大人になるまでを見守り、幸せになれるよう手助けし、心からの願いをひとつ叶える。
老魔術師との契約を果たすためには、この少女の瞳に、諦め以外の何かを灯さねばいけないのだ。
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