或る魔人の話

土佐岡マキ

Ⅰ 契約

「初めまして。わたくしは『契約を司る魔人』と申します」

 黒髪の青年は自ら名乗り、努めて優雅に見えるよう一礼した。人間の作法は面倒だが、これだけで話が進めやすくなるのも事実だ。

 魔人は顔を上げて、目の前の人間を注意深く観察し始めた。

 人の世において魔術の類は、忌むべきもの、異端のものとして扱われ、公の目から隠されていると聞く。とりわけ、魔人の召喚術は魔術師の間でも禁忌とされているらしい。

 ゆえにそれを行なうのは大抵、後ろ暗いことのある者や欲に塗れた者達ばかり。魔人の姿を見るや否や、縋り付くか、卑屈に笑うか、あるいは高慢そうにふんぞり返るか。そういった人間からは、どうにか自分の願いだけを叶えて、魔人の寝首を掻いてやろうという魂胆が透けて見える。

 しかし、目の前の老人は、どうもそういう風には見えなかった。

(ふむ……人の子にしては珍しい)

 青年の召喚主たる老人は、異端の者に怯えず昂ぶりもせず、静かに椅子に腰掛けていた。

 顔は土気色で、目は落ち窪み、手足は枯れ枝のように細かった。傍らの杖を掴もうとする手は震え、立ち上がるのすら難しそうだ。

 ひと目で分かる。もう、長くはないだろう。

 青年は僅かに首をかしげて、口を開いた。

「……わたくしは契約を必ず全うしますが、その暁には貴方の魂をいただきます。したがって、貴方に永遠の命を与えるようなことはできませんし、寿命を延ばすこともできませんよ」

 魔人は人智を超えた力を持てども全能ではない。人を騙して魂だけをかすめ取る卑しい魔人もいるが、青年は契約に関して真摯であるために、できないことは先に断る主義だった。

「わたくしにできるのは、ささやかな願いを三つ叶えることだけです」

 老人はしばらく青年の話に耳を傾けていたが、ゆっくりとした動作で頷いた。

「分かっている。それで、充分だ」

 しゃがれた震え声が、言葉を続ける。

「おれは他人に頼まれて、今までの人生で何度も魔人をんだ。召喚の謝礼金で生活し、細々と今日まで生きてきた。お前にも何度か会ったことがある。覚えてはいないか?」

 はて、と青年は記憶をたどる。

 魔人の召喚術を使える者はそう多くないため、代理人として魔術師が別に雇われていることはよくある。召喚主と契約主が異なる場合、魔人にとって興味があるのは自分の糧になる契約主のほうだ。

 その他など景色も同然で……。

 そう考えている最中、老人の頬に薄くついた傷が、青年の記憶を掠めた。

「ああ! 返り討ちの」

 随分昔、魔人の目の前で、殺されそうになっていた若者のことを思い出した。そのときの契約主は、魔人のことを誰にも知られたくなかったようで、雇った魔術師を口封じに殺そうとしたのだ。若者は、頬を掠めた拳銃の弾に怯むことなく、契約主の胸倉を掴んで殴り飛ばしていた。

「懐かしい話だ」

 老人は薄らと笑みを浮かべた。

「そうか、あのときの若者か。もうそんなに時間が経ったのですね。しかし、そうなると、今回の契約主は誰ですか? 姿が見えないようですが」

「……おれだ。魔人と契約なんてするやつは、碌でもないと思っていたが、そうも言っていられなくなった。『契約を司る魔人』よ、お前と契約を結びたい」

 老人の手が伸ばされ、青年の服を掴む。力など殆ど残っていない弱々しい手が、必死で縋り付いていた。

「あの子を、頼む」

 青年は羊皮紙と羽ペンを出し、老人の言葉を書き留めていく。

「あの子とは?」

「おれの孫だ。息子夫婦の忘れ形見で、おれの他に身寄りがない。独り立ちするまで見届けてやりたかったが、どうもそうはいかんらしい。だから、お前に代理を頼む」

「具体的には?」

 老人から聞いた話と孫娘の名前を書き取り、青年は続きを促す。

「一つ目。おれが死んだ後、この家に住んであの子の世話をしてやってくれ。厳しく躾けたつもりだ。一通りのことは自分でできるが、助けてやって欲しい」

「いつまで?」

「あの子が世話を焼かれなくても大丈夫になるまでだ。判断は本人に任せるが、少なくとも成人するまでは」

「了承しました。二つ目は?」

「あの子が幸せになれるよう手助けしてやってくれ」

「幸せに、とはどういう状態のことを指しますか?」

「確かに判断が難しい。あの子がお前に向かって、一回でも自分は幸せだと言えばいいことにする。ただし無理やり心無いことを言わせては駄目だ。それと……人生、上手くいくときばかりではないことは理解しているが、あの子が幸せだと感じるまでに、命を落とすことがないよう守ってやってくれ」

「かしこまりました。三つ目は?」

「これで最後か。そうだな……あの子の心からの願いを、一つだけ叶えてやってくれ」

「かしこまりました。これで契約は完了しました。基本的に魂の譲渡は、三つの願いを全て叶えた後に行われますが、今回のケースでは、契約の一部は貴方の死後に引き継がれます。受け渡しはいつになさいますか?」

 老人はしばらく黙っていたが、ゆっくり息を吐き、目を閉じた。

「今、ここで」

「よろしいのですか?」

 たとえ死期の迫った老人でも、未練のひとつふたつはあるだろう。人の子が死を迎える際、心や身辺の整理に時間を要することは、これまでの経験からよく知っている。

 しかし、老人は言葉を覆すことなく頷いた。一切の迷いを見せず。

「先払いだ。お前にくれてやる……だから、」

 続きは聞こえなかった。何を言おうとしたのかは想像できたけれど。成程、限界が近かったからこそ、最期に魔人と契約を交わすことを思いついたのか。

 魂の剥がれた身体は、ぽろぽろと細かい灰のようになって、霧散した。

 透き通った欠片が音を立てて床に転がる。老若男女問わず、歩んできた人生に関わらず、魂はどれも澄んだ色をしている。魔人はそれを拾い上げて、丁寧に布でくるみ、魔界の保管庫へと送った。

 さて、契約は成された。報酬を先に受け取ってしまった以上、老魔術師の最期の願いを何としてでも叶えなくてはならない。これを反故にすれば、自らの名に傷を残すことになる。

 それにしても、人間の子どもと暮らすのは初めての経験だ。

 食事は大人と同じものを与えればいいのか。昼間は放っておいていいのか、それとも構ってやらねばならないのか。寝るときは子守唄でも聞かせてやればいいのか。

 人の世の常識や教養を教育するには、魔人の知識が足りない。まずは自らが学ばなければ。

 今後の行動に思いを巡らせていると、上の階で誰かが動く気配がした。

 しばらく耳を澄ましていると、小さな足音が階段を降りてくる。二回のノックの後、返事を待たずにドアが開けられた。薄暗い地下室は濁った夜から解き放たれ、ようやく光が差した。もう朝だ。

 ドアを開けた少女は、すっかり身支度を済ませていた。腰まである黒髪はきちんと梳かされてほつれがなく、シャツの襟もまっすぐ正されていた。躾云々は、祖父の贔屓目ではなく事実であるようだ。

 少女の視線が左右に動いた。祖父を探しているのだ。魂も、肉や骨の欠片すらも、もうこの世のどこにもないのに。

 祖父の不在を確認し、少女はそこでようやく青年を見上げた。

「だれ?」

 大きく見開かれた目には、困惑の色がうつっていた。

「わたくしは『契約を司る魔人』と、申します。貴女のおじい様に呼ばれてここにいます」

「おじいちゃんは、どこに行ったの?」

「もういません。先程亡くなられました。わたくしと契約を結んで魂の譲渡を行いましたので、肉体も残ってはいません」

 淡々と告げてから、少し後悔した。死という概念が分からぬ歳ではないだろうが、親しい者の死は、誰にとっても酷だ。もっと優しく穏やかな言い方をすべき場面だったのではなかろうか。

 泣き出すか、怒り出すか。少女の反応を受け入れてなだめるのも、今は魔人の役目だろう。

 しかし、少女は泣きも喚きもしなかった。青年の横を通り過ぎ、ついさっきまで老人が座っていた椅子に手を伸ばす。座面を何度も撫でて、僅かでも祖父の痕跡を得ようとするかのように。椅子はまだ温かいだろうか、それとももうすっかり冷たくなってしまっただろうか。

 少女は床に倒れた杖を見つけると、両手で拾い上げて頬に押し当てた。魔術師の持ち物だったが、何の力も持たぬただの木杖だ。けれども、静かに目を閉じた少女の様子は、耳を澄ませて杖の声を聞き取ろうとしているようにも見えた。

 この静寂を破るのは憚られて、青年は少女が動き出すのを待った。

 想像していたよりも、ずっと幼い少女だった。頭の位置は、青年の胸の高さよりもまだ低い。

「……おじいちゃんは、何か言ってた?」

 その問いが、青年に向けられたものだとすぐには気付けなかった。

 澄んだ瞳が青年をじっと見据える。

「最期まで、貴女のことを案じていました」

「……そっか」

 少女は幼い声で呟いて、それっきり黙ってしまった。

 魔人は片膝をついて、少女の顔を見上げた。

「初めまして、かおるさん」

 少女が面食らった様子で瞬きする。

「おじい様に、貴女のことを頼まれました。おじい様の代わりとはいかないでしょうが、できるかぎり貴女を手助けします」

 少女は首を傾げてしばらく何かを考えていたが、自分のほうを指差して、

相葉花織あいばかおる

と自らの名を告げた。

「あなたの名前は?」

 魔人は答えに困って、結局そのまま項垂うなだれた。

「『契約を司る魔人』です。人の声で発音できる呼び名はありません」

 少女は、そう、と短い返事をしてぽつりとこぼした。

「じゃあ、クロさんって呼ぶね」

「黒?」

「上から下まで真っ黒だから」

 確かに青年は、髪も服も靴も、頭からつま先までが黒かった。格好をそのまま呼び名にするのは実に合理的で分かりやすい。

「では、そう呼んでください」

 少女は頷いて、躊躇いなく青年の手を取った。

「じゃあクロさん、朝ごはんにしよう」


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