参・不確定因子

「……何?」


「いや、綺麗だな、と思って。見惚れてた」


「まったく、口達者な小童だ」


 事あるごとに赤兎は俺を子供扱いする。もう23だってのに。まぁ仕方無いとは思う。二百年生きた赤兎でさえ、まだ妖の世界では若者だと言うのだから。その基準で言えば俺は生まれたての赤子であろう。

 麗しい彼女の傍らに座り、片手で髪を梳く。サラサラと流れ落ちるその毛束は艶やかで。濡れた唇にそっと己の唇を重ねた。


「急に、何を」


「分かってるんだろ、俺が来たってことは」


 それだけ言って次の言葉は言わせない。言わせるもんか。唐紅の帯を解こうとして止められる。何で。


「そうまでして私が欲しいか、阿漕な者め」


「美しいひとを求めて何が悪い。味見ついでに力も貰えるならば求めて当然だろうよ。貴女も子孫は残さねばならないのだろう?」


「……だとしても来る頻度が高過ぎるぞ大馬鹿者」


 寒い夜は肌を重ねて寒さを凌げ、と教えた生まれ故郷の酔っ払いは今頃どうしているのだろうか。漸くその意味が分かった気がするだなんて言ったら殴られそうだけど。俺は本能の赴くままに、端麗な彼女に溺れた。



 ***



 朝、起きると右頬の蔦がまた育ち、右目のすぐ近くにまで迫っていた。嗚呼、ここまで来るとマフラーで隠すのは厳しいか。妖の力を吸収した代償は矢張大きい。

 俺は『花の日』の人間じゃない。赤兎という妖と関係を結んだから得たこの能力は、いとも容易く俺の命を奪う事が出来る。俺は赤兎に生かされ、そして命を握られている。俺の命が絶えた時、赤兎は子を授かる事が出来るのだとか。ヒトは苗床だ。赤兎は苗床を求めていたし、俺は姉を探す為の力を求めていた。利害の一致。最初こそ等価交換という意味しか持ち合わせなかったこの行為も、気付けば息苦しさを忘れる為に溺れる一種の中毒の様になっていた。まぁそれだけ赤兎というひとの魅力に惹かれてもいったのだろう。


「さて、今日も情報を集めるとしようか」


 昨日脱ぎ捨てた靴を履いて、また花咲の町へと飛び出す。



 ***



「あれ、きみ、どうしたんだこんなところで」



 ふと顔を上げると伏見が居た。駅前のベンチに座り、星空に思考を遊ばせていた時だったので露骨に驚く。ガタンガタンと唸る電車の音が喧しい。


「いや、別に……」


 人通りの多いこの場所でひたすら言葉に耳を傾けていた、だなんて言ったらなんて反応するのだろう。興味は無いけど。


「……ところで、きみ、安藤 夏希との関係って結局何だったんだい?」


 見慣れた筈のトレンチコートの女は落ち着いたトーンのまま音程を落とし、突如目の色を変えて俺の額に向けて手を伸ばす。ヤバい、これは、



言忌こといみ』



 言葉にならない俺の低い声が深い闇に堕とされ、空気を震わす。相手の放った言葉を受け取らないこの能力、言葉を放てば喉が焼ける。伏見の腕を捻り上げて近くの壁に押し付けた後、咳き込んでよろけた。街灯の下で口を押さえた左手を見ると、ぬらり、と真っ赤な液体が手を染めていた。


「カハッ……」


「いった……そうまでして、隠すのは何で」


 煩いな、黙れよ。口を開くな。嗚呼そうか、俺がねじ曲げれば良いのだろう。



虚言きょげん



 連続して能力を使うのは負担が大きすぎるから滅多にやらないが、昨日の夜に補給したから多少の無理は許されるだろう。


「ナツキは、俺の産みの母親だ。春咲もナツキの娘だ。つまり、俺の姉」


 とはこれこの事。ナツキとだって春咲とだって血縁関係は存在しない。だがしかし、俺が『虚言』と呟けばその意味はねじ曲がる。たとえ嘘だろうとそれは相手にとっての事実となる。真実を知るのは俺だけでいい。誰も知らなくて良い。姉を見付ける為ならば幾らでも真実なんてねじ曲げてやろう。

 口の中いっぱいに鉄の味が広がる。どうやら出血し過ぎたみたいで足から力が抜けそうになった。どうにか踏ん張って目の前の女を軽く一瞥し、


「次に俺の記憶を抜こうとしたのならば、お前の命は無いぞ。妖に身を売り捌いて、醜悪の苗床にしてやろう――」


 そう言い残し、俺はまた赤兎の待つ神社の方へと向かった。滴る紅い液体の音には気付かぬふりをしながら。

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