【37】理事長の箱3

「校舎や寮で働く者にはみな、誓約書を書かせている。例外なく、全員だ。これは私がこの椅子に座った時からずっとだから、君の影響ではないし、今考えている処分は妥当なものだと考えているよ」

 理事長は改めて、説明した。


 トラブルを起こした者への対処。それがこの会話から発生したものではなく、雇われた全員が最初から交わしている誓約の結果だと理事長は言う。箱を作り、運営し、中身を守る手段の一つ。

「誓約書の中で、肉体的、精神的にも子供を傷つけてはならない、としてある。第一項目にな。高井の行動はそれに反している」

 教師として、人として当然であることを、なぜわざわざ紙に残すのか。こういった事態が少なくないからだと、理事長はため息を吐く。預かる子供の質も関わっているのだろうか。とにかく、今はその誓約書の効力を発揮させる場面なのだ。

「解雇、ですか?」

「それだと逆恨みされてしまうからね、再就職先を斡旋してから……転職させる。ここより待遇のいい職場を探してあげるよ」

「いいんですか?」

「いいんだ。教職には二度と就かせない」

「! 名案ですね」

「だろう?」

 悪戯な声。理事長は再び、何かを操作し始めた。

 子供から大切なものを奪った教師なのだから、教師である資格を奪って追い出すのが相応しい。もし教師に未練がなければ新しい職で生きていくことで次の犠牲は出ない。教師に未練があるのなら、戻ることのできないその場所を羨み、悔いていけばいい。どちらにしろ、子供に関わらせないのが最善だろう。

 聞こえてくる電子音が止まった。高井の再就職先が決まったのだろうか。それとも、教職を追う準備が進んだのだろうか。

「私が作る箱に、不純物は要らない。子供を守る箱なのだからね」

 それは清々しいほどの決意だった。


「だが、当事者同士の話し合いで片付いた前回と違って、高井を追い出せば解決、という状況ではなさそうだな」

 前回のトラブルとの相違はそこにもあった。トラブルそのものを退けて解決したところで、及ぼした被害は消えないということだ。

「そうですね……再就職が決まるまで高井先生はそのまま仕事を続けるんですか?」

「いや、有給を消化させる。理由は一身上の都合だ。盗難の件は出さない」

「犯人が去っても、親衛隊の岩楯たちが加賀見に対して抱く誤解や、先生たちが生徒会に向ける窃盗容疑などはそのままということですよね」

「そうなるな」

「一番傷ついたのは横塚です。彼がそれらをどう感じるか、ですが、ネガティブであることは間違いありません」

「うむ」

「生徒会のみなさんも、今日のことがあって初めて、容疑がかけられていることや、親衛隊のこと、横塚のことを知ったはずです」

「高井が休むことで犯人だと察するかもしれないが、それが事態を好転させるかはわからない、か」

 彼と理事長はトラブルを察知していたため、犯人の排除という行動を躊躇いなくできる。

 だが、生徒会役員たちにとって横塚の状態や窃盗容疑など全てが青天の霹靂だ。風紀委員会も、犯人の排除という行動は取っているが、その犯人と一緒に犯人探しをしている始末である。

「私から働きかけをするとしても……生徒会会長と風紀委員長に高井の犯行を教えてあげるくらいしかないか。もし高井と生徒たちの信頼関係が厚いとしたら、私の働きかけも逆効果になりうる」

「そうですね。高井先生は生徒会顧問ですから、生徒会のみなさんが犯人を知った時、どうするのかわかりません」

「準役員への疑いもあることだしな。風紀委員長が私の言葉をすんなり受け取ることはないだろう」

 二人は揃って唸り、思案する。

 ふと途切れた意識は窓の外へと飛んでいき、明かりのない暗闇に揺れる木々が見えた。撫でる風は優しいだろうか。


 意識を引き戻すのはいつだって、大人の声だ。

 理事長はほんの少し投げやりに、ため息混じりの声で彼を問い質した。夜は滲んでいく。

「結局、高井の動機はなんなんだ? 横塚か?」

 彼の中に答えがないとわかっていても、理事長はその問いを口にする。そうすることで考察が深まることを知っていた。彼は素直に手を上げた。

「……わかりません。盗難の自作自演、噂の流布、そこから発生した結果は、ひとつではないんです」

「横塚だけが標的なら、窃盗容疑を生徒会全員にふっかけたりはしない。それに加賀見や親衛隊を巻き込んだ理由もわからない、か」

 一番の被害者は脅迫を受けた横塚だと考えられる。だが、窃盗の濡れ衣を着せられた生徒会、黒幕だと噂を流された加賀見、横塚の被害を知らされて心を疲弊させた親衛隊もまた、被害者の一部だ。

 高井の悪意は、一方向ではない。

「もしかすると高井先生にとっては、ここから、なのかもしれません」

 トラブルは未だ、現在進行形である。理事長がまたひとつため息をついた。

「そうか、今ある結果は途中経過であって、高井が望む結果はまだ出ていないと?」

「はい。これから被害が大きくなる可能性も考えられます」

 ここで二人が犯人をつきとめたとて、トラブルが終わったわけではない。むしろ、トラブルが表に出てきた今こそ、高井にとっては始まりではないだろうか。

 ならばなおさら、と理事長は決意を新たにする。

「幸い、明日は日曜日だ。高井の有給は月曜日から適用させる。引き継ぎは教師の間で行えば生徒たちに影響はないだろう」

「あなた自らお話されるんですか?」

「ああ。君を使うまでもない。動機もそこで探る。何か分かったら君に伝えるよ」

「俺に、ですか?」

「横塚のケアに必要かもしれないだろう?」

「ですが、俺は横塚に直接面識は……あっ」

「どうした?」

 珍しい彼の素っ頓狂な声は、脳裏に過った可愛らしい笑顔から引き出された些細な使命感によるものだった。どこまでも真摯でいて、他者のために心を尽くす人。今回、犯人を導き出せたのはその笑顔のおかげである。

 だから彼は、声を落ち着かせ、告げた。

「あなたを紹介したい人がいるんです」

「ぶッ!」

「大丈夫ですかっ!?」

 理事長が吹き出き出した音は、音割れを起こすほど大きなものだった。苦しげにむせるゲホゲホという音の合間にか細く、しょう、かい、と囁きが混じる。彼は慌てて席を立ってみたが、孤独な自室の中ではどうすることも出来ず、携帯を握ったままおたおたと顔を振り、結局、席に着いた。

 その間に理事長はなんとか冷静さを取り戻したのか、はぁはぁと息を荒くしながらも、彼にどういうことかな、と問い直していた。

「さっき説明したんですが、今日起きた岩楯と加賀見の正面衝突や、横塚の様子、保坂先生の話は全て、ある先輩に手伝ってもらって得た情報なんです」

「あ、ああ……そうだったね。通話を繋いでいたと……」

「はい。おそらく、横塚のケアにあたるのもその先輩になると思います。ですから、高井先生の動機がわかれば先輩に話しますので、その経緯を説明するためにもあなたのことを紹介したいんです」

「……ほう」

 その相槌は、安堵を示していた。

「ああ、よかった」

 一際大きなため息。いっそ深呼吸に近いそれと一緒に漏れる言葉。理事長は電話から距離を取ったのか、彼は聞き取ることが出来なかった。

 理事長は言葉を足さなかったため、彼は流すことにした。

「先輩はとても真摯な方です。あなたの存在も少しだけ話をさせてもらいましたが、良い印象を抱いてくれました。解決のためにも、紹介は必要なことかと思います」

「なるほど。そういうことならかまわないよ。紹介しなさい」

「ありがとうございます」

 純粋に嬉しい気持ちが湧き、彼は小さく頷いた。「君がそこまで懐くなんてね」

 電話では伝わるはずのない機微だが、理事長は相変わらずの悪戯っぽさで笑う。さっきまで露わにしていた戸惑いはどこへやら、からかう言葉には慈しみが含まれていた。

「その先輩とやらを通じて、横塚のケアに触れられそうだね」

「はい。あとは、生徒会への窃盗容疑と、加賀見に対する噂でしょうか」

「ひとまず、高井から話を聞こう。動機を知れば、行動も変えられる。今は横塚を最優先にして、悪いがほかの被害は後回しだ」

「わかりました。これから連絡を入れてもいいですか?」

「ああ。一刻も早く、横塚を襲う脅威を除いてあげたい」

「そうですね。では、高井先生のことはお願いします」

「任せなさい。一段落したら、お茶、よろしく」

 返事を待たず、通話は切れた。耳鳴りを呼ぶ静寂を振り払い、彼は携帯電話を持ち直す。新たに電話帳を開き、先輩を探した。


 心に置くのは常に、信頼だ。それが彼と理事長の間で繕われるその場しのぎ。彼は今一度、思い出す。このあと届くであろう声に、感情に、揺らがぬよう、強い信頼だけを拠り所にする。

 電話をかけるまでにかかった時間はさほど多くはなかった。

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