【36】理事長の箱2
その悲痛な様子は通話によって彼の元に届いていた。
協力を申し出てくれた先輩の胸ポケットを通じて聞こえてきたのは、憂い悲しむ副会長と補佐の双子、寄り添う前会長、そして、怒りを抱く会長、それぞれの声だった。
横塚の言葉は一切聞こえてこない。どんな状態かもわからない。それでも、その姿を思い浮かべることが容易なほど、身近な人物たちの声は揺らいでいた。
その中から聞こえてきた、生徒指導保坂教師の話は核心を突くものだった。元々は管理作業員への事情聴取の付き添いのために呼び出されていた保坂が、風紀委員長の部屋で行われた岩楯と斜森の事情聴取に付き合わされた際の内容。
彼はその一部始終を、その場にいた協力者が電話を通話状態にしていてくれたおかげで聞くことができたと説明し、続けた。
「岩楯は、横塚が脅されていた、と言ったそうです。詳しい内容はわかりませんが、テストの盗難についてであることは確かだと証言しました」
「なんだって……!?」
寮の特別な階層。そこで起きた加賀見と岩楯の正面衝突。そして、声なき声を必死にあげた横塚。
保坂はそれらを、横塚のカウンセリングに来た前会長と先輩に語った。
「どうやら、岩楯と斜森は誰かからの情報提供を受け、テストの盗難と生徒会役員が疑われていること、加賀見が生徒会役員を利用していることを吹き込まれたようです」
「……高井だな。そこから噂が広がるように仕向けたか」
「はい。ですが、親衛隊の統率が良かったのか、高井先生が口止めしたのか、噂は広がりませんでした」
「それで次の一手を打った、と?」
「元からの計画だったのかはわかりませんが、横塚への脅迫を開始した。もしこれが本当の動機に繋がるのだとしたら、内側から壊す、つもりだったのではないでしょうか」
「……なんて奴だ」
「横塚はその脅迫のせいで、声を……声を失っています。協力をしてくれた方が施したカウンセリングの様子も、電話を通じて聞いていましたが……」
声が震えてしまう。理事長の声も、彼の声も、彼の中で想起される会長の声も、湧き上がる怒りを隠せない。
以前のトラブルでも、当事者だった尾張と都築は様々な感情を揺らしていた。その中にはネガティブなものもあっただろう。しかし、根底に存在したのは相手を想う気持ちだった。だからこそ、話し合いをもって解決できたのだ。
ただ、今回は全く違う。高井が生徒会や加賀見に向けて起こした行動には悪意しか感じられない。ひとつひとつが鋭く、卑怯だった。
「私も同じ気持ちだ。安心しなさい」
「……はい」
「今の話を聞く限り、高井は一線を超えている。後戻りできる位置にはいない。処分は私が下す」
「本当ですか?」
理事長の声は、最初よりも強くなっていた。
「しかし、どうやって……?」
「証拠がある」
強く、笑う、声。
「噂にならないことを焦ったんだろうな。高井は別の場所にも情報を流している。だから私が窃盗事件を知っているんだ」
彼は、まるで自身が追い詰められているような寒気を覚えた。それと同時に、滾る怒りを目じりに溜める。
「しかし、公共機関を頼ったのはまずい。それも、正義を悪用するなどと、以ての外だ。私の知り合いもそこにいてね」
「……通報、ですか」
「ああ、そうだ。警察に入った学校関係者を名乗る盗難の通報。音声記録を渡してもらえるよう頼んでおいた。高井の声かどうか、調べればわかるはずだ」
理事長はすでに何かを操作しているようで、冷え渡った声の向こうから電子音が聞こえてくる。
「通報が高井先生からだったとして、窃盗の証拠にならないのでは」
「実際に警察に突き出すわけではないからね、君が集めてくれた状況証拠と合わせれば、認めさせるくらいわけないさ。この私が、直接、処分を下すんだ」
「……」
些細な反論も理事長の怒りを押し留めることはなく、彼は、短い呼吸を繰り返し、目を閉じた。
まだ、大丈夫。言い聞かせるように、まぶたの裏の暗闇を見つめる。
「逃がしはしないよ。声を失った子がいるのなら、高井にも、何かを失ってもらわないとね」
「……そう、ですね」
突き刺さる怒り。彼は漏れた声とともに、溢れていた涙を拭った。
瞬間、理事長の息が止まる。
聞こえるはずのない、歪みが囁いていた。瞼の裏。瞬く光が割いて走る。
「っ待ちなさい、違う、落ち着きなさい!」
落ち着け、落ち着け。理事長の言葉を追い、理事長が言葉に従うのを待つ。大丈夫。大丈夫だ。
明滅。
彼はゆっくりと瞼を持ち上げ、もう一度、頬を拭った。
携帯電話を握り直す。
通話の向こうからは小さく唸る声が聞こえるが、彼を揺らすことはなかった。
「はい」
先の問いに応えたつもりの返事は、理事長を呼び戻す問いかけに代わる。もう大丈夫。彼は姿勢を正した。
「ああ、しまった。すまない。私だね、私が、落ち着かなければ。大丈夫だ、暴走ではない。これは以前から考えていたことだ。君と出会う前からだ」
慌てる声を取り繕うように、理事長が深く息を吸う。彼はそれを聞き、倣って息を吸った。
「私はね、守るべきものを入れる箱は、丈夫なものでなければならないと思っている。どんなものでも守れる箱にしたい、しなければならない。だからね、箱を形作る素材には気をつけているんだよ」
「はい」
「でも、素材には善し悪しがある。多少は仕方がないけれど、もしその素材が守るべきものを意図的に傷つけるのだとしたら、排除するんだ。当たり前のことだろう?」
「はい」
「だから、高井を排除する。感情に任せて判断しているわけではないから、安心しなさい」
「……はいっ」
穏やかになった理事長の言葉が染み入っていくる。
いつもの声。いつもの感情。彼は整えられていく。
「私が君に向けるものは、信頼だけだ。そうでなければならない。私が今抱いている怒りは、私だけのものだ。大丈夫。少し油断したよ」
「いいえ、俺も、横塚を心配する声を、怒りを露わにする会長の声を聞き、影響があったのかもしれません」
「……また、お茶を飲みに行くよ。それまで、大丈夫だね?」
「はい。あなたの信頼があれば、俺はあなたでいられる」
「そうだ。私には君だけだ。君には、私だけだ」
付け焼き刃のその場しのぎ。かつての悲劇を繰り返さないための絆。
二人で確認しあった上で、今回のトラブルにおける解決を目指し、会話を再開する。
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