【32】その手は優しく触れる

 生徒会書記、横塚の部屋の前で電話をかける。ワンコールであの子が出た。繋がったことを確認し、それを胸ポケットに忍ばせる。これでよし。

 医学部を志望し、親衛隊の活動の傍ら、必死に勉強を続けた二年間と半分。推薦を得た今ももちろん勉強を続けている。ただちょっとしたきっかけで、その道程が途切れてしまうこともあるのだと、思い知ったある朝。出会った不思議な後輩によって、積み重ねた努力は守られた。いや違う。あの朝、あの場所であの子が守ってくれたものはもっと別の何かだ。

 まるで、何もかもお見通しのような、そんな態度で、欲しい言葉をくれた。思い起こす度、不思議な気持ちになる。言い表せない、感激。きっと盗聴の真似事までして協力する動機は、不純だ。だから一生、口には出さない。出せない。

「よし、行くよ」

 意気込みは届いているだろうか。

 前会長親衛隊に属する先輩は、コンコンと小さな音で生徒会書記、横塚の部屋の扉をノックした。


 横塚は寝室にいる。補佐の双子の片割れが先輩を迎え入れ、廊下で簡単な経緯を話してくれた。

 横塚のそばには前会長が付き添っていて、副会長と補佐はリビングで軽食の用意をしているそうだ。

 片割れが言うには、横塚の失声は加賀見と岩楯の正面衝突が原因ではなく、前日から予兆を確認していたという。加賀見が岩楯に責められながら口にしていたのは、朝起きたら声が出なかったため来てほしいという横塚からのメッセージの内容だった。

「精神科を目指してるのー?」

「かと言って、力になれるかはわからないよ」

 前会長が先輩を呼び出した理由を語っていたらしく、弟の方だと名乗ってくれた補佐は興味深げに歩み寄ってきた。そこには仲間を助けてほしいという懇請も含まれていて、表情は明るくない。先輩は務めて優しく説いた。

「物理的な要因じゃないのは確かだから、まずは寄り添うのが一番かな」

「でも、何も言ってくれない」

「言ってくれないんじゃなくて、言いたくても言えないんだ。無理に聞き出すのは逆効果になるよ」

「……昨日、もっと、話を聞いておけば良かった」

「そうだね」

 リビングに繋がる扉の前で、弟は項垂れた。

 副会長と兄の方の補佐に案内を受け、先輩は寝室までやってきた。ベッドに腰掛ける横塚は明らかに憔悴し、跪く前会長は肩や二の腕の辺りを柔らかく撫でているだけ。

 先輩の入室に対し、横塚はゆっくりと顔を上げて反応した。

「……」

「久しぶりだね。覚えてる?」

 今年度の始め。前会長がまだ会長を勤めていた頃、親衛隊の一人として、当時生徒会補佐だった横塚と接した機会がある。口数は少ないが自分の意見はしっかりと持っていて、その意志の強さから次期生徒会長を任せることも考えられる。前会長は現会長とともにそう評価していた。

 そんな将来有望な少年の、背中が丸まった姿は痛々しい。

「僕は君を覚えてるよ、横塚くん。そうだよね?」

 先輩は前会長に声をかけた。

「ええ、あたしが紹介したのよね。大丈夫よ、この子はあたしの友達。だから、あなたの味方」

 言いながら、前会長は立ち上がった。横塚の体がそれを追いかけるように傾ぐ。しかし、すぐに元へと戻った。無意識の動作だったのだろう。

 先輩は横塚の正面、膝の前にしゃがみ込んだ。

「手を、いい?」

「……」

「ありがとう」

 膝の上に手を差し出し尋ねると、横塚は躊躇いながらも手を重ねてきた。指先に触れ、手のひらを添える。

「今から話をするね。もし、嫌だな、と思ったらこの手を放すか、握るか、反応してほしい。何か反応があったら、僕は話すのを辞める。イエスかノーの意思表示は首を振ってね」

 横塚は首を縦に振った。先輩は続ける。

「うん。今日の朝は何を食べたんだろう。僕は焼いた鮭の定食だったんだ。食堂で、和定食。わかめの味噌汁と、小鉢は揚げ出し豆腐」

 しっかりと視線を合わせて言葉を置いていく。返事を求めるような声音ではないことに、横塚は少し戸惑っていた。

「とても美味しかった。それに外はいい天気だった。横塚は外、見た?」

「……」

 ようやく質問され、横塚はひとつ頷いた。

「そっか。カーテンを開けたのかな。最近はいい天気が続いてるね」

 質問ではなかったが、横塚はもう一度頷いた。

「朝起きて、カーテンを開けて、いい天気だった。それで、ご飯は食べた?」

 喉を詰まらせたような苦々しい表情が浮かぶ。ゆっくりとした動作で、横塚の首は横に振れた。

「そっか。少し心配だ」

「……」

「今ね、きみの友達が食事を作ってくれてる。本当はもう少し話を聞こうかと思ったけど、まずはご飯を食べよう。食べたら、もう一度、話をさせてくれるかな」

 ぎゅっと、先輩の指先に圧迫感が襲う。

「……」

「……っ」

 先の宣言通り、先輩は押し黙った。ハッとしたように横塚の手が逃げる。だが、すぐさま戻ってきた。頭を振り、俯き、口を結び、震えながら先輩の手に縋る。先輩はその手を動かさない。続く沈黙。指先を握る力が、徐々に弱まる。横塚は長い瞬きを繰り返していた。

 完全に指先が解けてから、さらに十秒程の間を空け、先輩は二つほど頷いて話を再開した。

「食べたくない?」

「……」

 横塚は横に首を振った。先輩は一つ安心する。しかし、触れた手のひらから感じる震えは治まっていない。まだなにか、伝えたいことがあるのだろうか。先輩は笑顔を崩さないようにして、次の質問を探した。

 交差する視線。点るあかり。意味するところは、強い意志の表れか。読み違えるわけにはいかないと思いながら、先輩は質問を口にしていた。

「話したい?」

「……」

 横塚は震えるように小さく、頷いた。

「……そっか。僕にはきみが何を話したいのか、わからないけど」

 先輩は触れている手を撫でた。

「今のきみが苦しんでいるのだけはわかる」

 横塚の顔がくしゃりと歪む。

「苦しい時は、休んでいいんだ。息を吸って、吐いて、生きていい」

「……っ、!」

「うん。今は少し休もう。外はいい天気だし、ご飯もきっと美味しいよ。安心して、話はちゃんと聞くからね」

 繋いだ手に力がこもる。先輩は再び口を閉じ、横塚が流す涙をしばらく眺めていた。

 

 副会長と補佐を迎え入れ、横塚に自分から食事を摂る意思表示をさせ、先輩は前会長とともに一度寝室を出た。医師を目指す身として、横塚が受けたダメージの大きさに驚いている。横塚に聞こえないよう、リビングで交わす会話でも声を小さくした。

「医者の卵ですらないんだから詳しいことまでわからないけど……横塚は強いストレスを感じ続けてたんだろうね」

「そうね。最初は泣く声すら出せなくて、過呼吸気味だったの。なんとか落ち着かせたのだけど、多分昨日から食事も摂れていなかったんじゃないかしら、今にも崩れ落ちそうだったわ」

「うん、弱っている時こそ食べたほうがいい。もちろん、無理は禁物だけど、食べる意志が出てきて良かったよ」

 台所には出汁の入った鍋が見える。うどんとお粥の二つを作って用意していたようだ。

「あなたを呼んで正解だったわ」

「とりあえず食事をってことだったからね。目標達成出来て良かった」

 身の回りのことは身近な人に任せる方がいい。前会長と先輩はリビングで待機することにした。すでに時刻は昼時を大きく回っている。もともとこの時間は二人で予定を入れていて、昼食も一緒にとるはずだった。そういえば、と唐突に前会長はぽんと手を打ち、先輩に向き直る。

「お友達とのデートはどうだったの?」

 深刻だった雰囲気を微笑みで弾き、ずいっと身を乗り出してくる仕草には軽薄さを覚える。先輩は、不動のままニッコリと笑って返した。

「有意義だったよ」

「……へぇ、そう。ふぅん?」

「言いたいことがあるならどうぞ?」

 そんなものないわよぉと手のひらをヒラヒラさせて笑う前会長に一歩距離を置いたところで、部屋の入口からノックが聞こえてきた。

 部屋の主も、その代わりを務める副会長と庶務も不在だが、扉越しに聞こえてきた声の慌ただしさに前会長が出迎えに向かった。先輩も後を追う。

 玄関扉を開けると、般若のような顔をした生徒会長が、困った様子の生徒指導保坂教師を従えてそこにいた。

「あら、何事?」

「……横塚は、いますか」

 絞り出すような低い声でそう告げた会長は、たん、と敷居を跨いだ。

「いるけど、どうしたの」

「会わせていただけますか」

 もう一歩。踏み出そうと前傾姿勢を取った会長を押しとどめたのは、先輩だった。前会長の後ろからするりと前に出て、会長の胸に手を置く。力は込めていないが、会長は止まった。

「会わせられません」

「どうしてですか」

「分かりませんか」

 睨み合いは三秒。会長が身を引いた。

「横塚くんが自ら話せるようになるまでは、そんな顔してる人間を近づけるわけにはいきません」

 扉の向こう側にまで下がった会長は、諭す先輩に対し、悔しそうに顔を顰めた。

「すみません。わかって、いるつもりなんですが。状況が、芳しくなく、横塚に何があったか……どうしても知りたいんです」

「大丈夫よ、あなたが仲間思いなことはわかってる。横塚くんを傷つけるつもりなんてないってこともわかってるわ」

 前会長と先輩も廊下に出て、扉を閉めた。たとえ横塚に聞こえない距離だったとしても、部屋の中で交わす会話ではないと判断したからだ。ふうっと長いため息が会長から漏れる。

「落ち着こう。君たちはどこまで事情を知ってるのかな」

 代わりに前に出た保坂が二人に尋ねる。会長ほど切羽詰まった雰囲気ではないが、こちらはこちらで厳しい面持ちだった。

「あたしは横塚くんが話せなくなったことと、ここで転入生と親衛隊が喧嘩したことだけ知っています」

「僕はそれを聞いて、横塚くんと話すために来ました」

「なるほど。横塚の様子はどう?」

「今は食事をとっています。本人に話す意志はあるようですが、実際に話せるかはまだわかりません」

「話す意志はあるんですね」

「焦っちゃだめよ」

 再び前かがみになる会長を諌める前会長は少し笑っていた。

「そんなに焦るなんて、そっちはなにかわかったの? 話せる範囲でいいから教えなさいよ」

「僕としても、このあと横塚と話すためにも聞いておきたいです」

 二人の申し出は会長を貫く。口を結び、振り返る会長の弱った視線は保坂に助けを求めていた。

「……初めから無理だったんだな」

「保坂先生?」

 会長の視線に応えるように、保坂は語り始めた。それは今回の件において、核心に近い部分だった。

「隠蔽だよ。今回の件、初めからなにかおかしかったんだ。隠蔽からはじまって、テストの作り直し、警察まで出てきて……蓋を開けてみれば横塚があんなことになってる。そもそも、隠蔽ができていなかったんだよ」

「隠蔽ってなんのこと? 詳しくお聞かせ願います? 保坂先生」

 前会長の催促は優雅だ。保坂は手を腰に当て、姿勢を崩した。

 この会話があの子に届いていますように。

 先輩は胸に潜ませた昏い熱を感じながら、保坂が語る核心を聞いていた。

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