【29】役に立ちたい
土曜日。晴れ渡った空に、運動部の掛け声が響き渡る。扉越しに届く清涼感を背に、凛とした立ち姿。まだ指定の時間まで二十分もあるというのに、彼の方が遅い結果となってしまった。姿勢を低くして近寄ると、なんとも柔げな笑みでもって歓迎され、挨拶さえ出てこない始末だった。
場所は屋上に繋がる階段の踊り場。埃っぽいここを選んだのは、彼ではない。空き教室などいくらでもある巨大な校舎の中、二人を繋ぐのはここだからと提案され従うしかなかったのだ。
「すみません、遅くなりました」
「そんなことないよ、僕が早すぎたんだ。いつも早めに行動するのが癖になってる」
はにかむ表情には、以前会った時よりずっと余裕がある。以前の状況が、いやがらせ現場での鉢合わせ、だったのだから当然とも言える。二度目の邂逅となる今回、柔和な声音とその満悦さには、彼の方が気恥しさを覚えるほどだった。失礼な感想だが、子犬に懐かれたような気分といえばいいのか。
待ち合わせの相手は、前会長の親衛隊に属する先輩だった。
「でも、やっぱり早すぎたね。きみと話すのを少し……いや、かなり楽しみにしてた」
「それは、ええと。俺も先輩にはお礼をしたいと思っていました。なのにまたお願いをしてしまって、すみません。今日はありがとうございます」
「お礼? それはこっちだよ。こうして頼られることがなんか嬉しくてさ。いくらでもお願いしてくれていいよ、いつもはほら、あいつの後ろにいるから」
あいつ、と親しみを込めた呼び方をする相手が誰なのか、彼にはわからなかった。言葉を返さない彼を察して、先輩は笑う。
「ああ、前の会長のこと。あいつを頼ってくる子ってとっても多くて、親衛隊としてその手伝いができるのは誇らしいんだよ。あいつも気さくだし、親衛隊として、友人として好きだからね」
「仲がいいんですね」
彼は素直に相槌を打った。先輩の言葉に嘘はない。だからこそ、次の言葉もまた先輩の真意なのだろう。
「うん。でもやっぱり、僕らは良くも悪くも親衛隊なんだよね」
薄い雲が太陽を掠めるようにふっと暗くなった先輩の表情。しかし、陰ったその顔は彼を見つめる一瞬で晴れる。
「きみが言ってくれたでしょ」
「えっ?」
「悪い人に見えなかったって」
それは、この埃っぽい踊り場でのこと。一年B組で起きていたいやがらせの片付けをしていた先輩を発見し、ここで語らった朝。彼はそこで件の解決に至る情報をこの先輩から得た。そして、配慮をも得たことで、彼のその後の展開は円滑に進んだ。彼の方が感謝こそすれ、先輩にその計らいは必要なのだろうか。
その疑問は先輩の笑顔が溶かしていく。
「あの時は本当に、なんて言ったらいいのか……。嘘でも良かったんだ、ただ、僕を見つけてもらえた気がした。親衛隊じゃない僕をさ。見つけてくれたのがきみでよかった」
「……なんだか、恥ずかしいですね」
「あははっ。僕だって今、すごく恥ずかしいよ」
二人で笑い合えば、人気のない暗いだけの踊り場もぱっと華やぐ。その明るさを保ったまま、先輩は続ける。
「そんなわけで、けっこう張り切ってるんだ。僕に聞きたいことってなにかな?」
拳を胸の前でぐっと握り、身を乗り出して問う先輩はその正統派美少年アイドルのような見目もあわさって可愛らしい。もちろん、彼はそう思っても口には出さず、では頼らせてもらいますねと前置きをしてから本題に移った。
「実は、昨日の合同体育の授業でA組の岩楯と加賀見の間に一悶着ありまして」
「岩楯くん? あの子が?」
「はい。それで、その理由をちょっと盗み聞きしたんですけど」
「盗み聞き!? きみ、やるねぇ!」
「すみません……でも、気になったんです。加賀見のことを目の敵にしていましたから」
「うーん、僕が知ってる岩楯くんはそういう子じゃないけどなぁ。盗み聞きの内容は教えてくれるの?」
「それは控えます。言いふらしていい内容ではないですね」
「わかった。じゃあ、きみが聞きたいことっていうのは……」
「はい。もし、親衛隊のみなさんの中で加賀見について噂でもあればお聞きしたかったんです」
彼の目的を聞き終えて、先輩はううんと唸った。彼の話から、盗み聞きの内容が加賀見に対する悪評であることは先輩にもわかったことだろう。その悪評が三年の親衛隊の中で広がっているか、彼が知りたいのはそこだった。
「そりゃあ、あんな子だから親衛隊によくは思われてないけど、噂となるとなぁ」
「と、なると?」
「みんな、見たまんまの話をしてるよ。うるさい、礼儀がなってない、生徒会に近づくな……きみも知ってるでしょ?」
「はい」
「だから、こう……裏であんなことこんなことしてる、みたいな話は聞いてないよ」
「そうですか……」
どうやら、少なくとも三年の親衛隊内で加賀見の盗難は噂にすらなっていないらしい。彼は眉を顰める。それはただ思案に飛び込んだだけであったのだが、先輩は再び拳を握って言葉を継いだ。
「あ、でも! 岩楯くんは一年の親衛隊のみんなをまとめてる一人だから、噂が立ったら一番に耳に入るかもね」
「一番に、ですか。なるほど」
先輩の追撃を聞き、彼はしばし俯いた。やはり、先輩に話を聞くことにしたのは正解だったようだ。感謝を口に含んで顔を上げると、先輩が眉尻を下げて彼を見ていた。
「……?」
「ああ、ええと。僕、役に立ったかな?」
自信なさげに、それでも彼から視線を外さず、先輩はそう言った。どうしてそんなに気落ちしているのか、彼にはわからなかったため、即答する。
「もちろんです」
「ほ、ほんとに!? だって、僕、何も知らなくて……」
「はい」
「いろいろ知りたかったんでしょ? だったら……」
「そうですね。だからこそ、お話を聞けてよかったです」
「どうして?」
互いにキョトンとした顔を見合わせたが、彼の方が一拍早く、説明を重ねた。
「何も知らない、という情報はとても重要なんです。ある可能性が浮上します」
思考の波打ち際、打ち上げられた可能性はみずみずしく輝いている。先輩のおかげで手に入れられたそれを、彼は声に出して確かめていく。
「噂ってすぐに広まるじゃないですか。悪い噂ならなおさらです」
「……うん、確かに、加賀見くんの話はすぐに広まるね」
「俺が盗み聞きした内容はかなり衝撃的でした。多分、一日もすれば校内を駆け巡るくらいです。でも、先輩は思い当たる節すらない……おそらく、箝口令が敷かれているんじゃないかと」
「えっ? 箝口令……」
「親衛隊と言っても、人の口に戸は立てられない。よっぽどの相手ではない限り、です。箝口令を敷いたのが誰なのか……。ちょっと、気になってきませんか?」
彼が悪戯っぽく身を乗り出すと、さっきまで沈んでいた先輩の雰囲気が急浮上する。
「そうだね、僕だって親衛隊の中ではそれなりの地位にいるんだよ。全部知ってるとは言わないけど、加賀見くんほど話題が多い子の話なら耳に入ってこなきゃおかしい」
「はい。なので、今回お話が聞けて助かりました。先輩はとても役に立っています。ありがとうございます」
「あははっ。なんだかその言い方はひどいなぁ」
台詞とは裏腹に、先輩は楽しそうな笑みを浮かべていた。彼はその笑顔を確認して一安心する。彼の言葉は真意であり、それが正しく伝わることは喜ばしいことである。
ただ、先輩はそれ以外の部分で気になることがあるようで、少しの躊躇いを口の中で転がしていた。
「役に立ったのは嬉しいんだけど」
「はい」
「……きみは、いや、きみも? ええと。どう言ったらいいのかな」
慎重に言葉を選ぶ様子に、彼は、ああ、と声を漏らす。
「俺も、誰かの役に立っているかどうか、ですか?」
先輩は普段から前会長の親衛隊として常に他者のための行動を心がけている人なのだろう。先輩は、彼の行動理由は自身から発しているものではいと察した。目の前にいる後輩も自身と同じように、他者のために行動していると思い至ったのだ。彼は先輩が尋ねようと悩むその質問を導き出す。
聞いてもいいのかな、と先輩が小さな了承を差し出し、いいですよ、と彼がそれを快く受け取ったことで、先輩は質問を続けた。
「加賀見くんと友達なの?」
「いいえ、面識はほぼありません。ただのクラスメイトです」
「だったら、誰のために調べているの?」
彼はやはり、即答した。
「俺にとって最も大切な人が、加賀見のことを気にかけているんです。事情があって自由ではないその人に代わり、俺が動いています」
「大切な、人……?」
「はい」
先輩の勢いが静まる。疑いすら抱く声音に対し、彼はいつもの通りにたんたんと肯定を置いた。そうすることで、彼が抱くまっすぐな感情が伝わる。
「そう……その人のこと、好きなんだね」
「好き、とは違いますね。もっと別の……強いものです」
「強い?」
先輩のキョトンとした顔に対し、彼はとつとつと感情を説く。
「好き、だと揺れ動くイメージがありますが、俺のこれは、確固たるもの、で。だから、まっすぐ前を見て進めるんです」
もし歪んでしまっても、懐で整えてくれる。口には出せない寮でのことを思い出しながら、彼はどんな表情をしていたのか。
先輩は長い瞬きを二度繰り返し、塊のようなため息を吐いた。
「どうしてきみに惹かれるのか、わかった気がする。きみの大切な人、とてもいい人なんだね」
「そう思いますか?」
「いつか紹介してほしいな」
「はい。約束しますよ」
先輩は少し、悔しそうな顔をしていた。
今後も協力できそうなことがあればいつでも、と心強い申し出を受けながら階段をおりていた。彼もまた、助けが必要な時は力になります、とそう返し一つ下の階までを繋ぐ踊り場をくるりと反転した時だった。
縦に貫く階段スペースでは、電子音がよく響く。彼には聞き馴染みのない着信音。隣にいる先輩が謝罪をこぼしながら携帯電話を取り出した。横から覗き見るのも、会話を聞くのも忍びない。一歩二歩と階段を上がり距離を取ってみたが、先輩が通話相手に向ける声はよく聞こえてしまった。
どうやら気心知れた相手のようで、この後の予定でもあったのだろう。先輩は明るい調子で今終わったところだと説明しようとして、ピタリと止まった。短い相槌が続き、困惑の声。憂う言葉と、柔らかい拒絶が連なった。
「待ってよ、志望はそうだけど、うん、目指してるけどね、専門知識があるわけじゃないよ」
説得だろうか。彼はこれ以上の盗み聞きは失礼かと思い、階下へと逃げることにした。先輩を追い抜く際に、会釈を残す。
しかし、先輩は彼を逃がさなかった。
「わかった、でも、何も出来ないからね。人数増えるだけだよ、それでもいい?」
制服の袖を摘まれ、動けない。
「とりあえず、追い出せる分は追い出して。じゃないと話もできな……うん、そう……、そうして。じゃあ切るよ」
通話を切るために彼の袖から離れていった手は、携帯電話をポケットにしまい込んでから額に当てられた。強いため息は彼を捕らえて離さない。
「どうしたんですか?」
「それが……前会長からの電話だったんだけど、なんか、横塚くんが喋れなくなったって」
「横塚って、あの、生徒会書記の、ですか」
「うん。で、加賀見くんと岩楯くんが正面衝突」
「えっ」
「寮の生徒会の子たちがいるフロアで起きたみたい。前会長も応援要請されて向かってるって」
それは大変だ、と彼は思ったままを口から垂れ流していた。
「はぁ、とりあえず呼び出されたから行ってくるね」
「はい、気をつけてください」
「ありがとう。あ、そうだ、加賀見くんと岩楯くんがいるみたいだし、向こうに着いたら電話をかけようか?」
「え?」
「何が起きてるか、知りたいでしょ? 通話、繋ぎっぱなしにしておけば聞こえるんじゃないかな」
「それは、助かりますが……そこまでしてもらっていいんですか?」
先輩より下にいる彼が遠慮がちに視線を投げかけると、降り注いだのはほんの少しだけ陰りを塗った笑顔だった。
「さっき言ったばかりでしょ? 協力できそうなことがあればいつでもって。僕、けっこう役に立つんだから」
胸の前で拳を握り、とんと叩く。直後、鐘が鳴り響いた。休日であっても、時間を区切るその音は校舎にいる生徒たちを縛る。
「僕を、頼って」
鐘の音に紛れた声は聞き取れなかったが、見えた先輩の笑顔にもう陰りはなかった。
彼は、よろしくお願いします、と笑みを返した。
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