【27】両目
購買にたどり着いたのは昼休みが終わる十五分前だった。既にその品ぞろえは壊滅的で、目に付いたのはサバサンドとポテサラサンドの二つ。前菜とメイン。彼は自嘲しながらそれらを買い取った。美味しくないわけではない。ただ、熱量としては少し物足りないだろう。
自販機でお茶を手に入れて、彼は中庭に出た。小さなそこはバスケットゴールが置いてある運動場にもなっていて、知らない生徒たちがボールを追いかけている。花壇もあって、大きな木も植えてあり、木漏れ日の中に設置されたベンチで食べるサバサンドは思っていたより美味しい。
二つ目であるポテサラサンドの包みに手をかけたその時、ふと、木漏れ日が揺らぐのを確認した。背後。吹き抜けていた風がひたりと止んだ。
「こんにちは」
茶化した声音だった。
「それ好き? 物好きだなあ」
「残り物ですよ」
「知ってるよお。さっき買ってたの見てたんだあ」
芝生の柔らかな足音。かん、と金属のベンチの足が鳴き、揺れる影。回り込んできた男は軽い調子で隣に座った。真新しそうな制服のネクタイの色は同学年を示し、短い黒髪、平凡な顔つきと、平均的な身長の生徒だった。
「ごめんごめん。どう言えばいいんだっけ?」
ただ、その表情は豊かで魅力的に見える。口角が上がった笑みと、ふにゃりとした目尻には好感が持てた。そして、続けた言葉に警戒を解くことになる。
「駒。だっけ。片割れなんだけどさあ」
「……ああ。さっそくですか」
「タメでいいでしょお」
「ああ、うん。こんにちは」
「こんにちはあ」
「片割れって? 他にいるの?」
「ここにはいないけどねえ」
駒。それが現れたのは理事長と交した会話の中。理事長が動かせる協力者。例えばあの、管理作業員のような存在。どうやら目の前に現れたこの平々凡々な生徒がそうらしい。
片割れの駒と自称するその生徒は、ふわふわと上半身を揺らしながら彼に笑いかける。どうやらじっとしていられない性質のようで、きしきしとベンチがわなないていた。
「見てたのはもう一人なんだあ。むしろ、それがメインでえ。俺とそいつは理事長の目」
「あの人らしいなぁ」
「この学校にはない、目、を担当してまあす」
そう言いながら、片割れの駒は小さく敬礼した。こてんと首を傾げてウインクまでするその仕草に彼は遠慮なく笑みをこぼす。そんな彼に、聞こえた軽いため息。きしきしと揺れるベンチは、片割れの駒の浮き足立った心を教えている。
「聞いてた通りだなあ、仲良くなれそう。あっちも大丈夫そう」
「それは良かった」
「放課後空いてる?」
「空けるよ。目、と聞けば、気になることがひとつある」
「それは楽しみだあ」
約束を取り付け、彼はようやくポテサラサンドを頬張った。パンの間から白いソースがはみ出る。
「へたくそだなあ」
「ん。食べたら同じだろ」
「落ちちゃったら元も子もないよお。美味しい?」
「……美味しい」
彼がこぼれ落ちるポテサラを拾い上げながら平らげるのを、片割れの駒はふわふわと楽しそうに眺めていた。
放課後。彼はクラスメイトらから受けた自習室への誘いを断り、自室に向かった。
部屋の前にはすでに駒が二つ、あった。昼休みに現れた片割れの駒。その後ろに、目深にニットを被った小柄なもう一つ。二人とももこもことしたパジャマのような服をお揃いで着ていて、仲の良さが伺える。小柄な方は彼を一瞥してすぐ俯き、背中にあるリュックを何度も背負い直していた。
片割れの駒に遅いなあ、と急かされながら、彼は彼らを部屋に招いた。
「それでそれで、気になってたことってえ?」
並んで座る二つの駒は、片方は椅子の上でゆらゆらと揺れていて、もう片方はかたかたと震えていた。彼の部屋のリビング。切り出したのは向こうだった。
「その前に少し落ち着いたほうがいい」
彼がそう言って見つめたのは、震える駒の方だ。ニット帽の奥で、目を泳がせて何度も嚥下を繰り返す様子は心配を呼び起こす。
「慣れるまで、部屋を出ていようか?」
「大丈夫だよ。うん、大丈夫。だから、続けて」
揺れる駒がそう言って震える駒の頭を撫でた。震えているのはそのままだが、泳いでいた視線がすうっと、目の前に用意したお茶のコップに定まる。彼が二人のためにいれたお茶は氷を盛ったので汗をかいていた。それを確認するようにこくりこくりと頷く仕草を見せ、ニット帽を少しだけ上げた。その視線はゆっくりと、彼が机に置いていた手に注がれる。彼は動かず、待った。
「あ、ああ。あの。だ、だだ、大丈夫」
「本当に大丈夫じゃない時はちゃんと言える。俺もこっちも。訓練を受けさせてもらえたからねえ」
「そう、そっか。ならわかった。続けるよ。それ、いつでも飲んでいいから」
「う、ううん、の、のむ、のむよ。あ、ああ。あありがとう」
「俺もいただきまあす」
からん。揺れる駒がコップを持ち上げると、溶けた氷の浮かぶ音が涼しげに響いた。震える駒が応えるように肩を跳ねさせていたが、彼はもう気にしなかった。
外は未だ夕焼けを残し、赤く火照っている。ここが山の中でなければ、未だ濃い残暑にうなされていたことだろう。窓を僅かに開けただけの室内だが、涼やかな風が吹き込んで心地良かった。
コップを置く音は優しい。彼は笑った。
「夏休みが明けてからしばらく生徒会室に通ってたんだけど、とうとう生徒会の人たちがやって来たんだ」
彼の話は、生徒会の仕事を代行していた頃まで遡ったものだった。生徒会の面々が転入生にかまけて無人となっていた生徒会室に侵入し、作業をしていたあの日のこと。
「うんうん、それで?」
「理事長から電話があって、そろそろ生徒会がその部屋に来る、と報告されたんだ」
「ほんとに来たあ?」
「来た。それがおかしいんだ」
まるで内緒話でもするかのように、ささやかに口角を上げ、続ける。
「理事長はあの時、理事長室にいた。どうやって生徒会の人たちの動きを知ったのかと思ってたんだ」
「ふふ、ふふ」
「特別棟に入るカードの入室記録をリアルタイムで見ていたのかと思っていたけど、転入生も一緒だということも知ってた」
「うんうん」
「カードで入るとしても代表して誰か一人が開けただろうから、入室記録だけじゃ転入生がいることまではわからない。つまり、そういうことじゃなくって」
「そお、そお」
「単純に、見てた。ってだけだったんだ。ようやく謎が解けたよ」
「あははっ。目が見つかったねえ」
破顔した揺れる駒に続き、震える駒のふにゃりと笑った。視線は相変わらず彼の手を刺したままだったが、会話を聞いて反応している。
生徒会役員、そして加賀見との扉越しの邂逅。生徒会室で作業をしていた彼に届いた理事長からの報告は、当時は気にならなかった。ただ、あの電話がなかったとしても、新しいカードキーを生徒会諸君が手に入れるまでに身を隠す時間があった。そう考えると疑問が湧く。あの報告は必要だったのか、と。深く考えなくていい。理事長はただ、見ていたから知らせてきただけなのだ。
「監視カメラを?」
「まあね。俺もこっちも、少し前に理事長に拾ってもらってね。今はまだ登校してない。授業は土日に受けてて、そういうことお」
「そうか。うん。指示を受けてたの?」
「見るのは、もともとなんだあ。そのこと、こっちに口出ししないって言ってくれてるんだけど、何ヶ所か、お願いされてる」
「その一つが特別棟の前に?」
「うん。見つからないように、定期的に場所を変えてるんだあ」
「い、いい、いつも、あありがとう」
「いいよお。俺たちは二人で一つだもんねえ」
震える駒がコップの汗を指で拭い取り、それを見ながら揺れる駒が椅子をきこきこと鳴らす。微笑みあうその顔と口振りから二人の親密さ、そして役割分担がわかる。
「そっちが監視、そっちが設置、ってこと?」
彼は揺れる駒の次に震える駒を指し、二人はふわりと笑った。
「大正解! でも、そんなに仕掛けてない。バレちゃうからねえ」
「じゃあ、尾張の件の時はわからなかったんだ」
「うん。教室はバレやすいから仕掛けてない。玄関は一応置いてるけど、死角が少なくって、映せる範囲狭いんだあ」
「そうか。理由、いや、動機を聞いても?」
「だ、だ、だめ」
からん。震える駒が両手でコップを持ち上げた。数センチ浮いた空中、ちゃぽちゃぽと波が立つ。
「ごご、ごめ、ごめんなさい」
「ううん、こっちこそごめん。嫌なことは嫌だって言ってくれていいから、大丈夫」
「ああ、ありがとう」
ことり。コップはゆっくりと机に降り立った。
「それでえ、協力するようにって言われてるんだけど、何をしたらいい?」
「そうだなぁ……」
彼はしばし逡巡し、欲しい情報を考えた。
現在起きているトラブル。その中心はおそらく、生徒会である。探すべきは生徒会に感情を向ける相手だが、今思い当たるのは親衛隊しかいない。親衛隊に関しては彼自身が行動を起こすつもりなので、手が届かないのはやはり、カードキーの向こう側だろう。
「生徒会のことを見ていてほしい、かな。親衛隊や加賀見は俺の視界に入れられるけど、生徒会は遠い」
「生徒会かあ」
「きっと、生徒会の周りで何かが起きているはずなんだ。まぁ、アレが巻き起こしている部分も少なからずあるんだけど」
「じ、じゅ、んん、準、役員を、を」
がたがた。震える駒がテーブルの縁を両手で掴んで揺らした。彼は少し驚いたが、訴えを聞くため声を飲んで二度頷いた。
「さ、さ探してるよ」
「ううんと、あ! 見てたっけえ」
「見てた?」
そういえば、震える駒は背中にリュックを背負ったまま椅子に着いている。揺れる駒が優しい手つきでチャックを開け、中から大きいサイズの電子端末を取り出した。最新式だろうか。
横画面の状態で電源を入れられたそれを、にこにこと笑いながら彼に見せてくれる。真ん中に右を向いた矢印が表示され、その背景は明らかに隠し撮りされた角度で映されたどこかの部屋だった。
「これ……」
「ほやほやだよお」
「き、きき、今日のやつ」
「特別棟の会議室。ここ、新しくつけたばっかりで、お試しで見てたんだあ」
彼は特別棟の中を多少知っているが、この会議室は知らなかった。低いアングルから撮られたと思しきその映像には、ドーナツ型の会議テーブルと椅子に座っているであろう制服を着た足がいくつか見えていた。机も椅子も、普段見慣れたものとは違う高級品だ。ここが特別棟の会議室であることは間違いない。
「助かるよ」
まさしく欲していた情報そのものだろう。中身の確認はあとにして、彼は二人に笑いかけた。
「さっそく協力できちゃったねえ!」
「うう、うん! ここ、これからも、つ続ける!」
「ありがとう」
感謝を述べる彼に対し、二人はまるで花や星を散らせるようなぱあっとした笑みを浮かべて見つめていた。はじめてのおつかいを褒められた幼子のような姿に、彼もふわふわとした気持ちになる。
「へへ、へへへっ」
「うれ、ううれしい、ね」
「俺も嬉しいよ、これからもよろしくね」
彼は手を差し出した。二つのコップの間。力強く握り返す二人の指は、冷たかった。
映像は彼の携帯に送ってもらうこととなった。そのための連絡先を交換する際、彼は、あ、と声を出した。その声に二人はびくりと怯え、彼は頭を下げた。
「ああごめんごめん。違うんだ、そういえば名前、聞いてなかったなって。登録するから」
「なんだあ、びっくりした。名前ねえ」
含みのある言い方で揺れる駒が停止した。何か問題でもあるのだろうか。わざわざ顔を見合わせる二人を待つ。
「実はさあ、そっちのこと、少し聞いてて」
「俺のこと?」
「全部じゃないよお。理事長から少し、ねえ。うん。多分ねえ、聞いてなかったら、会えなかった」
「……」
「右目」
「え?」
「俺があ、右目。こっちがあ、左目。それでそっちは、ねえ?」
そう言って揺れる駒、右目が笑った。
「事情も、環境も、全然違うけど、きっと俺たち、似てるんだねえ」
「ひ、ひひ、ひっ……ひひとがっ、ここ、こわい」
震える駒、左目は被っているニット帽の縁を握りながら、それでも彼に視線を投げかけて告げた。懸命な告白を、彼は胸の奥でしっかりと受け取る。
「うん。俺たち、訓練もまだ完全じゃない。人に慣れてない。でも、それは大丈夫だから協力してあげてってさあ。どうしてだろうって思ったけど、不思議だねえ」
「……そうだね、こういう形で使えるなら、俺も俺を少しは許せるかもしれない」
「じゃあ、いいよねえ。俺が右目、こっちは左目。それでそっちは……」
彼は右目の言葉を継いで、自己紹介した。
忌々しいはずのその名前を、初めて笑顔で伝えることが出来た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます