【23】そういう話

 部屋の前に柿本がいた。

 上手く転入生を躱したのかと聞けば、半ば無理やり逃走してきたと笑いが返ってくる。彼はカードをかざして扉を開け、柿本を部屋に招き入れた。無理やりなどという文言を持ち出したその表情に、言葉通りの疲労は見えなかった。

 リビングについて、冷えた麦茶を二つ並べる。一口あおった柿本は思っていたより静かで、彼は正面に座りながら怪訝を隠せない。しばしの沈黙で交わる視線もなく、窓の外から垂れ篭める夜の気配が足元に広がっていた。すでに時計の針は九時を回っている。寮が消灯し、就寝が呼びかけられる時間まであと少しだ。

「で、どうだったんだ?」

 話題を振ったのは彼の方だった。

「それがさ。拍子抜けってお前、言ってたよな。わかった」

 かつて彼が柿本に伝えた感想が、ここに来て返ってきた。意外だ。てっきり、罵詈雑言の滝になるかと身構えていたのだが、その緊張は解いていいらしい。彼は柿本の言葉を待った。

「最初こそ強引だったけど、なんか変な感じ。ギャップのせいなのか?」

「まさか良い奴だった?」

「それは……悪い奴とは言いきれないってとこか」

「柿本からそんな言葉が聞けるとは」

 彼が得た転入生の知識のほとんどはこの柿本からの繰り言である。客観的に転入生の動向を観察し、自身が抱いた印象や周囲の人々の反応を感情豊かに伝えてくれた。それらに大きな間違いはなかったと、彼も思っている。

 ただ、主観が入る伝聞と、実際に交わす対話に差異があるのも事実であり、彼もまた転入生との遭遇に驚かされた一人である。柿本の心変わりを否定できない。

「俺だってよくわかんねぇけど、一つ誤解してた」

「誤解?」

 柿本は振り切るように麦茶を傾け、勢いよく飲み干した。ぷはっと景気のいい飲みっぷりは、何かを消化してしまいたい気持ちの表れだろうか。

「はぁ。アイツも俺たちと同じ、高校生だった」

「……え?」

「声がでかいだけのガキじゃなかった。ちょっと……いや、かなり反省したよ」

「一体何があったんだ?」

「俺の方がガキだっただけ」

 それだけを言い切ると、まだ手をつけていなかった彼の麦茶を奪い、あおった。半分ほどを流し込み、こん、とテーブルに置く。それは話題を切り替える合図だった。

「それでいろいろ聞いたんだ。相変わらずお前のこと探してるし、俺にも協力しろって」

「大当たり引いたな」

「たしかに!」

 彼の小気味の良い切り返しは柿本の笑顔を引き出し、空気が和らぐ。

「チクる気はないけど、気付かれるのも時間の問題だろうな」

「わかってる。俺もここまで避ける必要はないとは……」

「ハードルあがってたぞ。めちゃくちゃイケメンで、優しくて、魅力的で、あとは確か、ミステリアスとかなんとか」

「それはちょっと言い過ぎだろ?」

「笑いこらえるの必死だった」

「逆の立場だったら吹き出してる。そんなやつ、この学校に限らずどこにもいないって」

「だから見つかってないんだな、あの加賀見に」

 ケラケラと普段通りの笑い声を上げる柿本に安心しながら、その最後の一言に彼は固まった。

「ん? なんだよ、高いハードルにビビった?」

 その様子は一目でわかるほど顕著だったようで、柿本の笑い声が重なる。麦茶に入れた氷がカラコロと可愛らしい音を立てて崩れ、白い吐息を漂わせていた。

「ああ、いや。そういえばと思って。転入生の名前」

「加賀見のことか? オイオイ、今更? うそだろ?」

「俺の中ではさ、転入生が固有名詞になってて」

「そりゃあ今この学校で転入生は一人だけど! 最初に自己紹介だってしてたし、都築も尾張も、生徒会だって名前連呼してたぞ」

「そうだよなぁ。聞こえてたはずだけど……そうか、アイツの名前ってカガミなのか」

「もしかして知り合い、とか?」

「いいや、全然。でも、運命みたいなものは感じる」

「えっ……なんだよそれ」

 今まで意識していなかった転入生の名前。彼の中では転入生は転入生でしかなく、それも学校中に疎まれる異物のような印象が強かった。人らしい人としての認識が低かったのかもしれない。

 名前というものは大切である。家が受け継いできた名前、親から授かった名前には、想いが託されている。それは血の繋がりを以て、重なる瞬間があるのだ。

「詳しく説明しなさい!」

「内緒。そろそろ消灯だから部屋に」

「内緒ってなぁ……運命ってワード気になりすぎるわ!」

「柿本にだって運命はあると思う」

「そういう話じゃねぇっての!」

 食い下がる柿本は珍しく怒りの感情を顕にしていた。ついさっきまで和やかに笑みを交わしていたはずなのに、と彼は多少困惑しながら言葉を尽くす。

「そういう話だよ。これは俺だけの運命だから、言わない」

「なっ……なんだよそれ……」

 彼が真摯な視線を投げると、柿本はそれ以上の追求を諦めた。納得はしていないようだが、こういう時の彼が態度を崩さないことを柿本は知っていた。

 はぁ、と重いため息を残して、柿本が立ち上がる。細くいじらしい視線を彼に投げかけてくるが、結局何も言わずに残った麦茶を飲み干した。カランコロン。グラスを置いて氷が踊る。

 追いかけるように立ち上がる彼を、柿本は片手で制した。

「じゃ、また明日な」

「最後に」

「なんだよ」

「斜森が、転入生には近付かないように、だってさ。親衛隊の一人として気にかけてくれてるみたいだった」

「そっかぁ。そっちにもまた顔出しとくわ」

 声音は沈んだままながら、それでも彼の言葉に頷いて席を離れていく。その背中にはたっぷりと寂寥がのしかかっていた。

 彼はその場で柿本を見送り、扉が閉まる音だけを遠くに聞いていた。

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