【16】それぞれの決意
教室に戻り、彼は教壇に立つ先生に挨拶を差し出してから自席についた。授業は三分の一ほどを終えていて、先生の計らいによって逃した部分の補足を受けた。ノートを手早く取って彼が追いつくと、授業は再開された。
鐘が鳴った瞬間、教室後方でガタン、と誰かが立ち上がる音がした。先生はまだ授業は終わっていない、と叱責し、その生徒を座らせる。最後の問いを解決し、宿題となるプリントの説明を経てようやく、委員長に号令を促した。授業が終了する。
「大丈夫か?」
休み時間に突入した教室の中。隣席の友人が神妙な顔つきで彼に問いかけた。
「なんで?」
「戻ってきた時、血の気引いてたから。都築に何か言われた?」
「いいや。でも、そうだな、都築、大変そうだったから」
「ふうん、そうか。確かにあれは大変そうだった。災難だったな」
「災難だった」
彼がしんみりと告げたことで、普段なら暗い話題すら快活に笑い飛ばしてくれる友人もそっと口を閉じた。気遣いを感じ取った彼の方が肩を揺らして喉をならし、ありがとう、と吐いて笑った。
加賀見は走った。保健室。都築の元に急いだ。保健室の場所は覚えている。授業をサボり気味だという先輩が一人いて、時折顔を合わせていたからだ。
突き当たり。扉。引き戸を開け、飛び込む。
「ノックしなさい、びっくりした」
「都築は!? いるんだろ、つづ、」
「加賀見、うるさいよもう」
「はっ……はぁ、はぁ、よかった」
ベッドに腰かけて穏やかに笑う都築と、その傍には椅子に座る保健医の姿を確認できた。途端に息苦しくなったのは、ここまで急いできた結果だ。加賀見は崩れ落ち、目を丸くした都築が駆け寄った。
「大丈夫? 先生、水もらってもいいですか」
「もちろん」
背中をさすられる。強い呼吸を何度か繰り返して、保健医が渡してくれたコップの水を一気にあおった。
「せ、んせ、これぬるい!」
「贅沢言うんじゃありません。ったく、座れるか?」
コップを突き返すが、保健医は優しく受け取ってくれて、キャスターのついた丸椅子を投げて寄こしてくれた。都築が寄り添いながらそこに座らせてくれたことで、加賀見はようやく落ち着いた。
二杯目のぬるい水を飲み干したのはすぐあとだった。
「次の授業は戻るから大丈夫だよ」
「うん、でもさ、放課後……」
「大丈夫。事情を聞かれるのはあっちだし、加賀見には言ってなかったけど、俺は前からみなさんに話してたから」
「違うだろ、違う!!」
穏やかに説明する都築に、加賀見は心がざわつくのを抑えられなかった。堪えきれず声が大きくなってしまうのは悪い癖だと思っているが、どうしても抑えられない。無理なのだ。
「ちゃんと話しなきゃダメだろ!」
「話って」
「尾張とちゃんと! このままじゃダメだ!」
この衝動を説明することはできない。加賀見はいつもそうだ。それ故に他者との関わりを絶たれてきた。しかし、今は違う。言葉が届き、思いは伝わる。
「大丈夫なんかじゃない! このままじゃ!」
「加賀見には関係ないだろ」
「そういうことじゃない! このままじゃ始まらないんだよ」
「それ、なに、何を始めようって? なんだよ始めるって!」
「尾張との明日だ!!!」
穏やかさを取り繕っていた都築の表情が固まる。
「明日、明日一緒に笑ってたいじゃんか」
友達だろ、と加賀見は都築を見据え、告げた。
「他の誰かじゃないんだ」
「……」
「都築と尾張の話なんだ」
「どうして、加賀見は」
「なんだ?」
「……なんでもない。加賀見の言う通り、話し合わないとね」
「うん、うん! よし、じゃあ教室戻ろうぜ!」
「わかった。先生、お騒がせしました」
二人は一緒に席を立ち、加賀見が一目散に扉へ駆け寄ったのとは別に、都築は保健医に対して深く礼をした。空になったコップを持ったまま何も言わず二人のやり取りを見守っていた保健医は、二度ほど頷いてニカッと笑い返す。
「きちんと授業受けろよ。加賀見、お前もだぞ」
「わかってるっての!」
「ありがとうございました」
並んで行く二人の背中はピンと伸びているように見えた。
放課後。指示の通り、風紀委員長が迎えに来た。連行される場所は特別棟の奥。クラスの風紀委員は着いてこなかった。道中、尾張は怯えていた。
情けないほど、指先が震える。黙って前を歩く風紀委員長の背中から、逃げ出したくなる。でも出来なかった。逃げる場所などないことは明白だったからだ。この後に起きることは子供にだってわかる。
「ちょっと、大丈夫? 安心しなよ、話聞くだけだから」
「はい」
「都築と加賀見にしたこともだけど、それだけじゃないんだよねぇ」
振り向いて告げる風紀委員長の表情に貼り付いた笑みをそのまま受け取れるほど尾張は鈍くなかった。背中から感じる苛立ち。大きくなる歩幅。特別棟が近づくにつれ、重い空気が足元から這い上がってくる。どこが、安心しなよ、だ。今にも立ち止まってしまいそうになる足を叱責し、懸命に風紀委員長を追った。
風紀室の扉の前には生徒会役員の顔が揃っていて、それを壁にするように都築と加賀見もいた。何か話しているように見えたが、尾張はその方向に視線を向けることさえ出来なかった。
「それじゃ、オレがこのまま尾張に話を聞く。そっちは生徒会室でいいよね?」
「ああ。終わったら連絡しろ」
「はいはい」
生徒会長が生徒会室に向かって全員を引き連れ、尾張は顔を上げられないまま風紀室へ入った。
風紀室は机が並べられ、書類が積まれ、職員室のような大人の職場を思わせる様相だった。そこには風紀委員が数人、椅子に座って待機していた。風紀委員長が入ると、全員が顔を上げて視線をまとめ、お願いします、とか、おかえりなさい、とかそういう言葉を投げていた。その後、尾張に意識を向けた。
「ここ、座って」
部屋の奥。書類の棚と、誰かの机の間。その机にあったキャスター付きの少し良い椅子を差し出され、尾張は会釈をしながら縁に沿うように座った。尋問部屋でもあるのかと思ったが、ただ作業する傍らでの聴取が行われるようだった。
正面に風紀委員長が座ると、突きつけられたのは大きな画面の携帯。表示されているのは荒らされたロッカーの写真。風紀委員長は指を滑らせ、次々に変えていく。
「これ。で、これ。どう?」
「どう、ってのは」
「事実を言ってくれれば、そっちにいる子がそれを記録する。それだけだよ」
「それだけ……。俺がやらせました。すみませんでした」
「素直だねぇ」
「証拠、を掴んでるんですよね?」
「だとしても、だよ」
風紀委員長は尾張の犯行に対する苛立ちではなく、素直に自供するその態度を不服に感じているようだった。語調は淡々としていて、責め立てる様子はない。尾張は正直、拍子抜けしていた。
実の所、尾張は風紀委員会やまして生徒会までがこの件に関して動いているとは思っていなかったのだ。加賀見への悪意、都築への感情だけで動いていたから、反応を返してくるのはその二人だけだと思っていた。怒りを隠さない性格の加賀見なら、荒らされたロッカーを見ればすぐに大騒ぎするだろうと思ったし、都築は相談しに来てくれると思った。都築が自身の元へと戻ってきてくれたら、それで終わりのはずだった。なのに、命令を聞いてくれる仲間に何度ロッカーや靴箱を荒らさせても、なんの反応もない。加賀見は都築の隣にいて、都築がこっちに来ることもない。どうして。募る苛立ちが頂点を超えた昨日の放課後。加賀見に怒りをぶつけた寮での喧嘩騒ぎ。現れた生徒会や風紀委員会、先生、野次馬。そして今日の昼休みの電話は決定打となった。
今日の放課後、加賀見との喧嘩騒ぎの件で聴取を受けることになっていた。それは良かった。適当に加賀見を悪く言えばいい。それくらいだった。なのに、あの昼休みの電話は、その聴取でロッカー荒らしを問い詰めると言う。それはつまり、風紀委員会にも生徒会にもロッカー荒らしがバレているということだ。まさか。そんな大事になっているなんて思いもしなかった。
気付いてしまったのだ。これはもう、俺と都築だけの話ではなくなっている。その時、体は勝手に動いていた。
「その顔。よく知ってるよ。でもみんな勘違いしてるんだよねぇ」
「なんですか」
「オレたちは都築の代わりに怒ったりなんかしないよ」
「……っ」
「確かに悪いことした子にはおしおきをするけどね。あくまでオレたちは話を聞いて、まとめて、判断を仰ぐ。それくらいなんだよ。結局、怒る権利があるのは当事者だけだから。ああでも、ここに生徒会の奴らがいたら、寄って集って責められてたかも」
風紀委員長はそう言ってけろりと笑った。
「だから安心して、自分が何をしたか、言ってくれる?」
その笑顔は確かに尾張へ安心をもたらした。尾張がここに来るまでの道中怯えていたのは、加賀見や都築以外からの叱責だったのだ。
「言っとくけど、たくさんの人に迷惑かけたからそこは謝ってもらうよ。許してもらえるまで」
「はい、わかってます」
尾張は、自供を始めた。
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