【13】理事長の名推理を聞かされる生徒会長と風紀委員長
翌朝。まだ朝焼けがじわりと空を占める時間に、校舎の裏口から進入する。そこは麓から車道が繋がっており、教師らが通学路として使っていた。その中でもいち早く姿を現したのは学校内でもっとも見晴らしのいい場所にいるただ一人。黒の外国車を自らの手で滑らせ、広い駐車場の奥を陣取る。
実の所、毎日学校に来ているわけではない。大抵は部下が橋渡しをし、報告のほとんどは電話かメールで受け取っている。普段仕事に利用しているのは、麓に建つビル。そこも常に身を置いているわけではなく、都心まで足を伸ばし日々せわしなく働いている。だから、それにしては近頃よく顔を出しているほうだと思案した。
車を降り、オートロックの音を聞きながら校舎の通用口へ向かう。
「おはようございます、理事長」
「おはようございます、教頭。早いですね」
「いえ、私などは寮住まいですから。今朝はどうしてこちらに?」
白い檻のような扉の前には定年間近の男性が鍵を手に立っていた。穏やかな話し口調とほんの少しだけ曲がった背中に愛嬌のあるその人、教頭は恭しく道を空ける。きい、と鉄の嘶きをくぐり、理事長は会釈とともに前へ歩み出た。
校舎の中はまだ薄暗く、二人の革靴は思うより少しけたたましい。
「生徒会諸君に話を。あと風紀委員会にも」
「あの件を片付けるのでしょうか」
「度が過ぎる前に対処しなければと風紀の子に言われましたからね」
理事長は笑った。息を漏らすだけで自嘲に近い。追求を拒むように、話をすり替える。
「教頭はいつもこのお時間に?」
「ええ。管理作業員から鍵を預かっております」
「そうですか。それはそれは」
前を行く理事長は何度か頷いた。背後では教頭の白髪混じりの頭が、ことりと揺れる。穏やかな表情は変わらず、漂う空気も今朝の天気のように暖かい。しかし、その空気の中にそぐわない重い鉛の玉が落ちた。実際に落ちたのではない。教頭の胸の辺りからごとりと、聞こえない音を立て、言葉が落下した。
「ご存知でしょうに」
その鉛の玉は目に見えないほど小さく、振り返ることのない理事長には決して、届かなかった。
一般棟の最上階。理事長室は職員や理事たちが会議するための部屋が並ぶ一番奥にあり、一階にある職員室へ向かう教頭とは階段で別れた。一人淡々と上る足音は甲高い。少し、いや、かなり疲れる。
胸ポケットには特別に誂えた黒のカードキーを忍ばせていた。理事長室にもカードキーで開く鍵が設置され、もちろん、それを使うことも出来る。ただ、理事長として理事長室に入る今、その必要はない。灰色の教師用のもので開く木の扉は、その重さに反してなめらかだ。室内は毛足の長い赤絨毯が敷き詰められ、壁紙はまばゆいほどの白を張り、調度品には値を聞けば目を剥く品々をそろえてあった。もはや学校の一部とは言い難く、内装を考えた人間には苦笑を禁じ得ない。理事長はかつてこの部屋に招いた一人の生徒が浮かべた表情を思い出して笑った。困ったような、呆れたような顔。あの子は存外、顔に出る。
革張りの大きな一人用の椅子に腰を下ろし、手荷物を仕事用にと片付けながら待った。背後にある大きな窓には失念されたカーテンがまだかけられている。柔い朝日が隙間を縫って差し込み、部屋の中をにわかに暖める。机に置いたリモコンで照明をつけた。
しばらくすると軽いノックが三つ。短く返事をし、訪問者を迎え入れる。
礼儀正しい挨拶と、似つかわしくない苛立った顔つき。そもそも精悍な二枚目が今はより険しく、勇ましい。その後ろには口角を上げてふらふらと上半身を漂わせたもう一人が控えていて、連れ立つほどの仲の良さではないが距離を置くには心許ない、敵の敵は味方、といった様子で並んでいた。声が飛ぶ。
「理事長、話とはなんでしょう」
入り口付近に立ったまま歩み寄ろうともしない姿から、その胸に抱く不信感を見た。
「まさかまさか、とは思いますが?」
同じくこちらには近づかず、その場で大げさなリアクションをするもう一人の姿は、真意を掴ませまいとする防衛手段に違いない。
理事長はにいっと笑った。
「呼び出してすまないね、生徒会長に風紀委員長。眠いかい?」
問いかけると、そろっていいえと返してくる。明らかな嫌悪。生徒たちのトップを飾る二人は、前日に送った連絡に応じ、理事長の元へやってきた。
話が長くなるから、と高級なソファに二人を座らせた理事長は、満足そうにうなずきながら自らの机に肘をつく。指を組み、その上に顎を乗せた。
「かわいくないですよ」
「茶目っ気はあるだろう」
「今時、茶目っ気、なんて言いませんね」
会長、委員長ともに辛辣だ。同じ呼吸で同じ瞬き。ソファとは本来深く腰掛けてくつろぐものだが、二人は浅く座って姿勢を正していた。そこにあるのは緊張で、言葉に含まれた棘は子供ながらの強がりなのだ。
理事長はそういったものを承知して、遊んでいる。対峙する二人は遊ばれていることを自覚している。だからこそ棘のある言葉は上滑りして突き刺さることはなかった。
とん。理事長は手をほどいて机に置いた。机の上には書類の山がいくつもあり、低いソファに座る二人からその様子は見えない。話が本題へと移る。
「犯人が分かったよ。一年の尾張という生徒だ」
まるでティータイムを薦めるかのような軽やかな声で理事長は言い放ち、二人の目は丸くなった。反論が飛ぶまでにしばらくかかる。
「え、尾張って、昨日の生徒ですか」
「昨日の件なら今日には片付きますけど? 喧嘩をしていた三人は厳重注意でー」
「転入生などに対するいやがらせの主犯だ。ちょうどいい、昨日の件で聴取するんならついでに吐かせなさい」
「はっ……なにを根拠にそんなこと」
「大騒ぎだったから証人も山ほどいるだろうが、音源もある」
「証人? 音源?」
「尾張の台詞だよ。聞くかい?」
話を押し進めながら机の上にあったレコーダーを二人の視界に入るようかざした。縦長の小さなそれは、理事長の手の中にすっぽりと収まっている。
ぽつりと柔らかな音で再生ボタンが押され、轟いたのは昨夜の騒動の一部始終だった。騒ぎの中心に近い場所で録られたのだろう、大勢の雑踏の中、強い憤怒の雄叫びがはっきりと聞き取れた。
――てめえと一緒にいるせいで、いわれもないいじめに遭ってる、今朝だってロッカーを荒らされてたんだ!
理事長が名指しした人間の声かどうかの確認はできないが、会話の流れや加賀見の声との違いから、それが尾張の台詞であることは予想できた。理事長は停止ボタンを押し、問いかける。
「さて、なんと言っていたかな」
「いい加減にしろ、都築は困っている。いやがらせのことですね」
「これが騒ぎの発端だったって聞いたけど、まあ、わからなくもない主張だねえ」
委員長はちらりと会長へ視線を投げた。一瞬、会長の眉がひくりと反応を示したが、すぐさま言葉を継いで消し去る。
「都築は加賀見の同室者で、確かに、渦中にいました。いやがらせも把握していました」
「この尾張という生徒は都築の友人ですよ、どうしていやがらせの主犯になるんでしょうねえ?」
「まだわからないのかい? もっと優秀かと思っていたんだが」
ふんわり笑ってみせると、四つの目から注ぐ痛々しい視線が無遠慮に突き刺さった。意に介さず、続ける。
「君たちは放課後、報告を受けたね。朝、ロッカーが荒らされていたと」
「ええ。毎朝見回りを頼んでいますから」
「どのような報告だった?」
「そのまんまですよ、朝一番に見に行ったらロッカーにゴミが入っていたので写真を撮り、すぐに片付けた」
「ほおら」
そう言って理事長は再びレコーダーを再生した。あふれ出す憤怒。その言葉尻を捕まえる。
「今朝だってロッカーを荒らされてた……尾張はどうして今朝のロッカー荒らしをこのとき知っていたのかな?」
「都築から聞いてたんでしょう」
「会長、それは無理だよ。だって俺らが報告を聞いたのはまさにこの騒動が盛り上がってたときだ。都築への報告は騒ぎの後になるよ、尾張がそれを知ることは……」
「風紀くんの言うとおり。ちなみに報告をした生徒は、ロッカーが荒らされていた事実を誰にも言っていない」
「誰も知らなかった……尾張が知っていた理由はロッカーを荒らした本人だからと」
「残念、それは半分はずれ。私の話を聞いていたかい?」
「尾張は実行犯じゃなくて、指示をした主犯だってことでしょ。指示したってどうして言えるんですかー」
「それは……おっと」
理事長はふっと視線を流した。垂れ流していたレコーダーの停止ボタンを押すと、昨夜の喧噪に釣られて声が大きくなっていたことに気づく。若い二人の上半身がいつしか前のめりになっており、音の停止とともに緩まるのを視界の端に認めながら、シンプルなデザインで手首に巻き付く腕時計を覗いた。時刻は予鈴が鳴る少し前。
そろそろここを出なければ会長と委員長は授業開始に間に合わない。
「生徒の手本となって、今日もがんばりなさい」
見せつけるように腕を掲げ、時計の盤面を指でたたく。委員長が異を唱える仕草を見せたが、すぐに引いた。理事長の顔にはもう話は終わりだと示す鋭い目つきが張り付いていた。
「……続きは?」
「もう時間がない」
「これだけでは尾張を追求しきれません」
「すぐに吐くさ。準備はしておこう」
「生徒会準役員、ですか」
「さあ、さっさと教室に向かいなさい」
まるで些末な虫を追い払うが如く、能面のような顔を見せる理事長に抵抗は無駄だと悟った二人は、追求をやめた。ようやく重い腰を上げた二人に対し、理事長はぽんと一つ手を打つ。小さな音には、生徒会長だけが振り向いた。
絢爛な調度品の中に埋もれる男は、再びにっこりと笑みを浮かべて言い放つ。
「言っておかなければね」
「なにをです」
「学校とは、箱だ。箱の中では子供たちが主役だから、何をしていたってかまわないよ。ただ、私にとってその箱は三年間で卒業するものではない」
「……どういう意味ですか」
「私はその箱こそが本当に大事だということさ。三年で通り抜けていくだけの子供たちよりもね」
ひらりひらりと手を振る。その顔はただひたすらに無邪気を彩り、悪意は欠片すら見当たらない。会長はぞくりと背筋が凍る感覚を味わいながら、挨拶を残して立ち去った。重い扉。オートロックが起動するわずかな音を耳にとらえ、理事長は孤独を確かめる。
そして、胸ポケットにある携帯を取り出した。慣れた手つきで名前を呼び出す。そういえば、彼はまだ気付いていないんだったなと、コールを始めた画面を睨みつけて想起した。直接顔を合わしたのは、新学期が始まった始業式だったろうか。生徒数が多いために理事長は彼を見つけられなかったが、彼は必ず理事長に向けて視線を注いでいたはずだ。
3コール。向こうで彼は声を潜めていた。
「今、何時だと」
「……ああ、すまない。一時間目が終わってからにしよう」
予鈴が響きわたり、彼の背後には廊下の雑踏が舞っている。時間に厳しい性格をしている彼は着信を確認するとすぐさま教室を出たのだろう。慌てたような声音は少し、新鮮だった。
ぷつり。沈黙を届ける携帯を机に眠らせて、理事長はゆるりと雑務に向かった。
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