【7】完全犯罪は大人と一緒に
消灯は午後十時。寮全体の照明が一気に落とされる。各棟で管理人による見回りが行われ、子供たちは自室に潜り込まなければならない。眠るには少し早いが、それでも空気はひっそりと静まりかえってしまう。非常灯だけがぼうっと浮かび上がる廊下や階段は、異様な雰囲気を放っていた。
彼が悠々と歩くのはその薄暗い世界の隅。消灯からおよそ二時間後。日付が回り、管理人の気配すら沈黙した頃を見計らい、寮を脱する。音だけは立てないよう気を配り、エレベーターは使わずに階段で移動した。
由緒ある家柄の保護者や、なだたるOBからの融資を受け、設備投資を惜しまない経営を続けるこの学校だが、とある一点において無頓着な部分があった。敷地内は高さ三メートル以上の塀で囲い、門扉には警備員を配置。寮、食堂、校舎の入口には欠かさず高性能な最新式の鍵を取り付け、入室制限のある特別棟まで設ける徹底ぶり。しかし、それらを監視する目に関しては、管理人や作業員などの肉眼に頼り、カメラの類は設置しておらず、あえて手を抜いていると言わんばかりのザルさだった。その理由はこの学校の方針にある。
通う生徒の地位や名誉を守るため、些細な出来事などうやむやにできるここでは、鮮明な記録は蛇足、証拠が力を持つ事件となればいっそう厄介だった。防犯カメラは敷地の外に向けていくつか設置してあるものの、内部には一切置かれていない。故に事件を未然に防ぐ努力は施錠に傾倒。寮、食堂、校舎など主要建物全ての入り口を開くには対応したカードキーが必要であり、消灯後は電源が落ちてそのカードキーすら使用できなくなる仕様にまで厳しくされていた。電源が落ちた後に出入りできるのは寮の各部屋と管理人や作業員が常駐する部屋だけとなり、生徒達は外出することもままならない。
未明。彼はすでに豪奢な校舎を守る門扉の脇に立っていた。生徒たちが登校する朝には当然開いているその門扉は、暗闇の中で口を閉じている。高校生の平均身長ほどの彼の頭のずっと上まである塀が、森から敷地を隔てるためにぐるりと囲い、添うように走る林道を行けば最寄りの町へとたどり着く。この林道は生徒の立ち入りを禁止し、付近には作業員たちが常駐する小屋が建てられていた。
手に持ったペンライトが、足下を照らす。しばらく待っていると、立ち入り禁止の林道から光が射した。見慣れた懐中電灯だとすぐに気づき、彼はその方向へ手を振る。人影の手もゆるゆるとそれに応えた。
「よっ。忙しいなあ」
「すみません、またしばらくお世話になりそうです」
「気にすんな。カードカード」
「はい」
未明の暗闇から気怠い声とともに現れたのは、青い作業服を着た男が一人。額にタオルを巻き、顎には無精ひげを蓄えた三十路過ぎの中年。彫りの深い顔立ちから渋い印象を受けるこの男は、この学校の雑務を請け負う管理作業員の一人だった。
彼は懐から取り出した黒いカードキーを作業員に手渡した。裏表を簡単に確かめたあと、彼の背後にそびえる門扉へと歩み寄る。鉄の門が繋がる塀には、カードキーをかざす電子機器と鍵穴があった。
「っかし、便利だなぁ。記録にゃ残らないんだろう」
「はい。チート武器、ですね」
「ち……?」
「最強って意味です」
「ああ!」
作業員はなるほどな、と呟きながら電子機器にカードキーをあてがった。小さな機械音を確かめ、作業着にいくつも縫われたポケットの一つから鍵の束を取り出す。その中から手早く一つを選び抜き、鍵穴へと挿入した。がちり、と重い解除の音が手元で響く。通常、門扉を開くには二種類の鍵が必要だった。
校舎内の特別な教室はすべてカードキーによって施錠されており、いつ、どの鍵で扉を開けたかが記録される。しかし、彼が理事長から渡された黒のカードキーはすべてを解除でき、また記録には残らないという越権もの。理事長が自ら極秘で作ったものであると、彼は自慢げに語られた記憶がある。ただ、鍵穴がある扉に関しては鍵がなければ解除できず、そのため、門扉を開けるときなどは事情を知るこの作業員に助けを請っていた。
門は音もなく滑らかに開いた。人一人が通る幅だけ動かし、二人はするりと入り込む。彼が持つペンライトは足下を照らし、作業員が持つ懐中電灯は眼前の正面玄関に向けられていた。
月明かりは雲に遮られているのか、あたりは真に暗闇を保ったまま。足音すら地面に吸い込まれ、耳の奥がきしりと痛んだ。
正面玄関にも鍵穴がある。作業員は門扉と同じように鍵を開いた。小さな音につられて、会話が弾む。暗闇に和が広がる。
「今日も生徒会室か?」
「風紀室ですね」
「ふうき? もしかして、靴箱荒らしの件じゃないだろうな」
「ご存知なんですか」
つい声が大きくなってしまった彼に、作業員が人差し指でしーっとジェスチャーする。すぐに辺りを見回し、音のない世界を確認してから互いに顔を見合わせて頷く。大丈夫なようだ。引き続き、一般棟を歩いて進みながら、特別棟へ向かう。道すがら、彼は作業員の言う靴箱荒らしについて聞くことにした。
「俺たち作業員は校舎内の備品を任されてるんだが、それで報告がな。靴箱なんて大物、壊されると面倒だろう」
ついさっき通り過ぎたばかりの靴箱は、全校生徒五百を超える靴を収納するための特注品であることは明らかで、一人分壊れただけでも列を取り替えることになり、被害が甚大になるのがわかる。管理人の口振りから、破壊までには至っていないようだが、このまま放置すればどうなるかわからない。彼は理事長からの話を思い出していた。
「実行犯は捕まえたって聞きました」
「お。話が早いな。俺なんだぜ、確保したの」
自慢げに胸を張るその表情は、年相応には見えない。こころなしか、足が遅くなった気がする。
「つっても、声掛けたら自白したって感じだったし、あとになって容疑を否認したらしい」
「そうなんですか、でも、どうして怪しいと?」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、作業員は笑った。
「その日は俺が門を開ける当番の日でな?」
「はぁ」
「朝早く来る奴なんて決まってんだよ。部活の朝練か、自習か。ようは真面目な奴しか早起きなんかしねぇの。で、とびきりの不良が朝一番に顔出したから、事情聴取したってこった」
憎めない無邪気さに、彼も失笑する。誰もいない真っ暗な廊下に揺れる二つのライト。密談は誰にも届かない。
有名私立とはいえ、通う生徒すべてが品行方正なお坊ちゃんではない。作業員が言うとびきりの不良が存在すれば、彼のようなルール違反者もいる。明確な意思を持って陰湿な行為を続ける者も、確かにいる。
話をしているうちに特別棟の扉は目の前に迫っていた。
「さあ着いたな。どれくらいかかる?」
「十分ですませます。待っていてください」
「無理しなくていいぞ。明日は当番じゃないしな」
「……では、十五分で」
作業員の呆れた笑い声を背中に受け、彼は黒のカードキーで特別棟へと踏み入った。明かりはペンライトの一筋。できるだけ足下に向け、窓から光が漏れないよう注意した。
特別棟の二階フロアにはいくつもの扉が並ぶ。各委員会の専用の部屋であり、風紀以外の委員会室もある。入室するために必要なカードキーが配布されるのは委員長のみ。委員たちが集まって会議する場合は一般棟の会議室が使われる。
ここにある部屋は活動のためではなく、資料の保管を目的にしていた。カードキーを持つ委員長が資料を運び、ほかの委員は出入りしないのが基本だった。しかし風紀だけは校則違反をした生徒に関する情報が多い上、それらの口外は厳禁とされ、この場所を仕事場として利用していた。
彼が風紀室にいたのは、十三分。部屋の構造は生徒会室と変わらない。ただ、デスクの数が人数によって増減し、風紀室は四つが向かい合わせで設けられていた。
生徒会の仕事を請け負っていた際、提出物や資料の相互などで風紀室に何度も出入りしていた彼にとって、室内は勝手知ったるものである。風紀の仕事にも多少通じ、どのような体制で動いているかも把握していた。
今となっては、生徒会の仕事の中で嫌がらせの件に目がいかなかったのかが不思議なくらいだと思う。彼はそれらの資料を自らのノートに転写し、あるいは写真を撮るなどして持ち帰ることにした。
特別棟の入り口に立つ作業員は、出てきた彼を見つけて苦笑いを浮かべ迎えてくれた。
「おかえり。ぴったし」
「余裕でした」
にっと悪戯な笑みを向けた彼の頭に、作業員の無骨な手が被さる。暗闇の中で二人の笑声が響いた。
「お疲れさん。さってと、帰るか」
「はい。あ、そうだ。管理作業員が扱う備品ってパソコンも含まれますか」
「ん? ああ、含まれてるが、担当があって……残念だが、俺はわからないな」
オートロックの扉が施錠する小さな音を聞いて歩き出す。歩みにあわせて二つのライトが揺れる。一般棟は清潔な白で統一された壁紙がひたすら続いていた。日の光の元、人の気配を散らす昼間の校舎とは違い、その白は薄気味悪い冷ややかさを放つ。
彼は今し方手に入れた嫌がらせの資料を頭に浮かべながら、作業員に質問を飛ばしていた。誰かの悪意を紐解くための術を模索する。
「捕まえた実行犯、どんな印象でしたか?」
「そうだなあ……不良とは言ったが、出来が悪い奴じゃなかった。家が違うんだろう」
「家? 実家ですか」
「そうそう。金持ちにも種類があるじゃないか。敵に回したくない連中ってのが中には」
「……表沙汰にしたくない理由はそこにもあるんですね」
「正直、なんでこいつが、と思ったなあ。そもそも陰湿なことしなさそうだし、仮に弱み握られて脅されたとしても、正面からやり合いそうなタイプに見えた」
「それは妙ですね」
作業員の証言に眉をひそめながら、彼は思考に耽る。黒幕を明らかにし、決定的な証拠を得る道筋は、目の前に伸びる深夜の廊下より暗い。その様子をうかがいながら、作業員はのどを鳴らした。
隣で揺れる肩に感づいた彼は、頭一つ大きなその先を見上げた。笑っている。
「なんですか」
「いんや、楽しそうだなあ、と思ってよ」
「……大変です」
「あー、弟が迷惑かけてすまんな」
作業員は人懐こい笑みをくやりと歪める。足下を照らすだけの明かりでは、細やかな部分まで確かめることはできなかったが、声音の落ち方から感情を汲み取ることはできた。こつりこつりと響く靴音が、時折強くなる。それは気のせいの域を出ないもので、彼は自嘲した。
二人の脳裏には同じ顔がよぎっている。髪をぴしりと整え、高級なスーツを身にまとった一人の男。その身なりとは裏腹に、無邪気な性格を覗かせる砕けた笑み。彼の目の前にいる作業員と通じるものがある理由は、作業員の言葉にある。どうして彼の行動を手助けするのかと言えば、それが答えだった。
彼の頭に大きな手のひらが降る。ちらちらと懐中電灯が舞った。その先に、正面玄関が見えてくる。夜長の散歩に終わりが近づいていた。
「いやならいやって言えよ。お兄ちゃんの俺が叱っておく」
「いいえ、そのときは自分で言います」
「なら、いいけどよ。あいつぁ俺と違って、上昇志向ってのがずいぶん高いみたいだからなあ」
がちゃん。作業員が二つの鍵による施錠をし、彼のペンライトが最後に確認を促すよう鍵穴を照らした。がちゃん、がちゃん。無骨な手が荒々しく扉を揺らす。しっかりと閉じられていた。
そのまま校門まで同じ行動を繰り返し、門扉のそばで向かい合う。音はなく、月明かりも乏しい暗澹の中、二つの光が道を照らし出していた。
「お疲れさん。ゆっくり休めよ」
「はい。ありがとうございました、おやすみなさい」
「制限時間は二十分な。おやすみ」
何度目かわからない、大きな手のひらが彼の頭をなでる。するりと温もりが離れ、そのまま作業員は背中を見せながら林道を去っていき、音もなく消えていった。
二十分。彼は急ぐことなく寮へと舞い戻る。カードキーの電源は作業員が操作する手筈になっており、黒のカードキーは難なく彼を寮の入り口を通過させた。しばらくして電源が落ち、彼の完全犯罪は遂行されたのだった。
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