【3】背景にすらならない彼の朝

 今朝早く、彼の携帯が鳴った。自室で登校の準備をしていた手を携帯に伸ばす。ディスプレイには、理事長とあった。

 おはようございます、と挨拶を交わし、早速本題だ、と切り出される。

「今、生徒会長が私のところへきた。もちろん昨日のことについてだ」

 つい、と意識せず時計を探した。午前七時。壁掛け時計はゆらゆらと振り子を遊ばせている。

「代わりに仕事をしたのは誰か、カードキーをほかの人間に配布していないか、と訊かれた」

「どうお答えしたんですか」

「私が特別に生徒会準役員を指名した、と説明したよ。君のことだ」

「えっ、バラしたんですか?」

 登校の準備をしていた彼の片手が止まった。漏れた戸惑う声に、悪戯な笑声が返る。理事長はたっぷりと間を空けてから続けた。

「そんなことするわけないだろう? 名前は教えていない。随分しつこく問い詰められたけどね」

 くつくつと喉を鳴らす理事長は心底楽しそうだ。彼は安堵と嘲笑を混ぜたため息を吐きながら、そうですかと呟いた。豪勢な造りの理事長室で対峙する二人を想像する。生徒会長を詳しく知らない彼だったが、理事長の飄々とした大人の余裕はさぞ苛立ちを呼んだろうと、湧いてくるのは憐憫である。

 時計を再び見上げると、朝食に割く時間がずいぶん減っていた。鞄を手に自室を出る。寮は各部屋に二人が割り当てられ、リビングと簡易キッチン、ユニットバスと個人部屋が二つ設けられていた。彼は現在その二人用の寮部屋を一人で使用し、電話の内容を聞かれる心配はない。リビングを通り過ぎ、玄関で靴を履く。

 ばたばたと慌ただしい音は、通話によって理事長に伝わっているはずだった。

「もう少し付き合え」

「そうしたいのは、山々ですが」

「ったく。じゃあ昼休み、またかけるからな」

 ぷつり。返事を待たず、通話は切れた。遅刻をするなという配慮か、断る言葉を言わせないためか、彼には判然としなかった。ディスプレイを眺めて三秒ほど停止したあと、ようやく玄関の扉に手を伸ばす。開くと、周りでも登校を始めた生徒達が思い思いに廊下を歩く姿があった。

 変わり映えのない毎日。彼もその一部となって、歩を進める。


 寮の出口までに数人のクラスメイトと顔を合わせ、挨拶を交わして一緒に登校していた。今朝は天気が良く、夏が終わったにしてはじわりと暑い。天気予報を見たと言う一人が、夏日を記録するらしいと眉を顰めていた。

 寮を出てすぐ、食堂へと続く曲がり道が見える。この学園はそこかしこに多額の費用が注ぎ込まれ、設備は整いすぎていると言っていい。例えば食堂は軽く二百人を収容できるであろう広さと、各テーブルに設置されたタッチパネルによる注文、学生証を兼ねたカードでの精算、給仕が配膳し、後片付けも行う、と食事を終えるまでの煩わしさを感じさせないものとなっている。出される料理は量と質のどちらも過不足なく、自炊する生徒はほとんどいない。

 開放された両開きの扉からは存分に冷気が漏れ出していた。朝食を急ぐ生徒の熱気は、これから始業に近づくほど増していく。彼はクラスメイトと共にテーブルに着き、慣れた手つきで定食を注文した。いつもより少し遅めの朝食。普段なら人が疎らな早朝にここを利用する彼にとって、予鈴が迫る今、辺りを占める喧騒がどういうものなのか、いまいちわからなかった。隣に座るクラスメイトが不穏を感じて彼にひそひそと耳打ちする。しかし、ちょうど喧騒の盛り上がりが重なってしまい、彼には聞き取ることが出来なかった。

 耳打ちは有耶無耶になり、そうこうしている間に定食が運ばれ、彼は我関せずといった体で喧騒に目もくれず、黙々と食事を開始した。美味しい。出汁巻き玉子は今日も絶品だった。さて。彼は食事を終えると、一人、登校した。

 約半月前。新学期が明けたその日から、食堂は騒動の舞台になることが多かった。自由行動が許された休み時間に、一定数の生徒が集まる。個人間のやりとりですら、簡単に騒動になってしまうのだろう。彼はクラスメイトの話を聞く度にそう思う。この半月の間に起きた騒動にはある共通点があった。転入生だ。

 クラスメイトの話は、転入生の繰り事に終始する。生徒会に取り入っている、という話。この男子校では、同性同士の恋愛において強い区別はなかった。女が好きという人がいる、同じように男が好きという人がいる。捉え方はさして変わらず、同性に向ける憧れが昇華することはよくあることだった。そして、憧れを集める存在が生徒会として君臨しているのがこの学校なのである。

 生徒会は人望を集める素質を持ち、生徒達を統率する。それ故に、一部の有志による親衛隊なるものが組織されていた。役員一人につき一つ。人数も様々。憧憬と崇拝、恋慕。二学期に入ってから生徒会と同じタイミングで新体制が取られ、そして心穏やかではない日々を送っている。理由はただ一つ、言わずもがな転入生だった。


 一年B組。教室は本校舎の二階。彼の席は一番前の中央。先生と黒板に誰より近い場所は席順を決める際に集中したいからと申し出て陣取った。鞄は教室後方のロッカーに放り込み、一時間目の授業に必要な教材だけを持って席に着く。予鈴前。クラスメイトのほとんどが揃っている。

 シャーペンから顔を出す芯。かちりかちり。耳をつんざく予鈴が鳴ると同時に扉が開く音がした。一緒に朝食をとっていたクラスメイイトが数人、ギリギリの登校だ。その中の一人が空いていた隣の席に鞄を置くと、置いていくなよ、と笑いかけてきた。

「あいつ、そのままサボリ。信じらんねぇよな」

「へえ」

「興味無さそうで」

「他人のことを考える余裕がないだけだよ」

 クラスメイトが言うあいつとは転入生のことだ。ひどく陰鬱な顔での報告をする隣席の友人は、確か生徒会長を慕っていた。彼が知る転入生の繰り言のほとんどがこの友人からの愚痴である。隣同士、教科書を開く。始業の鐘が鳴る。

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