004《契約》
——総合暦1900年5月9日・早朝
騒動から一夜明けた朝。フランドリーアベニューをいつも通り歩く青年が本日も眠そうにフラフラと歩道を歩いていた。まだオープンしている店が少ない中、彼は開いている僅かな飲食店に目もくれずただ見つめる先へと歩みを進める。
「ふざけんなっての。今日もお迎え当番とかあり得ねぇよ。あーあ、死にそうで死にそうじゃないこの状況は生きてる心地がしねぇ」
言うなれば連日徹夜状態の雄哉。目の下に出来たくまが尋常じゃない程に影が落ちている。朝食もまともに取れていないということが頬に浮き出る骨から丸わかりである。社畜と言うのは大変だなと、二年前まで高校生だった雄哉は実感する。
「(というか、昨日の襲撃は一体…………?)」
一先ず脳の切り替えを行う雄哉。フルに回転しきった右脳左脳をこれでもかというくらいに回し始めた。糖分補給も忘れず、常備している飴玉を一個二個と口に頬張りながら意識を昨日のことへと向けていた。
「(正直、有栖川が負けるとは思ってもいなかった。他の四人は同じような敵には遭遇していないらしいから、昨日戦闘したのはアイツだけになるのか。というより、あそこで一体何してたのか。毎晩毎晩も何を…………)」
雄哉にとって気がかりなことはざっとまとめて二つ。
一つ目は有栖川の敗北による影響。
有栖川エリンは名門貴族の家柄でターヘル学園の統括長——日本で言うPTA会長のような組織——を務める家系の娘である。そして、この学園に必須である三つの要素である、《学才》《魔法技能》《魔法力》を誰よりも持っているであろうエースのような存在。この校区内には他に男女共学の学園があるもののレベルは圧倒的にターヘルの方が上、そこの頂点がエリンなのである。
そう。雄哉はこの意味を瞬時に理解する。
「(もしも、この事実が知れ渡ったら。間違いなく、この学園が長年積み重ねてきた信頼とキャリアは丸つぶれになる)」
そう、それだけこの学園に対する損害は大きくなるのである。
ターヘル地方最高峰技能——国家内でも有数の技能——を持つエリンがどこかの変な輩に負けたとでもなれば国家の大問題へと発展する。
それだけは看過できない。これがターヘル学園上層部が下した決断であり、万が一の敗北した場合、それが知れ渡るのだけは食い止めなければならない。
だが、上層部たちは困った。それが何を意味するのかというと。
「(彼女らよりも強い誰かによる尻拭いが必要だったということか)」
そう、上層部は万が一の対応をすべく、エリン達よりも強い力を保持する者がどうしても欲しかったのだ。
本当のことを言うと、エリンが負けたのは今回で二度目。以前負けた時は非公式の出撃であったためにその事実が町中を駆け巡ることは無かった。ただ、当時の上層部は《if》のことが起こったばかりに非常に焦ったという。
彼女が初の敗北を喫したのは一年と少し前のこと。
そしてその負けた相手こそ、今大通りを眠たそうにトボトボと歩く苦教師。
「(それで俺に白羽の矢が立ったということかよ)」
あの事件は忘れたくても忘れられない雄哉史上最大の後悔。エリンと戦った唯一の戦闘。そして後に
「(だからといって普通俺を選ぶか?俺はまんまとはめられて教師になったわけだが…………)」
そこから考えるのをやめにした。いつの間にか論点がズレていると感じたからか、敗北による影響のことは頭から削除する。
そして、二つ目の気がかりなこと——あの敵の正体だった。
「(…………皆目見当がつかねぇ)」
雄哉はこの世界に来てから約二年。非常に言いにくいが、この世界の知識は小学生レベル以下といってもいいほど無知。ただ、教科書に書いてあることだけは知識として脳にインプットされている。彼は教師の端くれとして、校内に保管されている、この世界に必要になるであろう書物を読み漁っていた。それに、この学校への着任が決まった当初は歴史の先生として配属されることになっていたためその知識を得る為も兼ねて読んでいたことが功を奏したのである。
しかし、そんな本に裏組織のようなことについてなど書かれているはずもなく。
「(考えるだけ無駄な案件か。考えるのもそろそろ限界だな)」
若干の頭痛が雄哉を襲い始めたところで思考を止めた。今考えてみれば別に関係ないことである。
踏ん切りをつけた雄哉はフランドリーアベニューの端にいることに気付いた。随分と長い考え事をしていたのだなと実感する。
そのまま一直線に学園へ向かおうとしたその時、後方から雄哉を呼ぶ女性の声が聞こえてきた。
「澤部先生。おはようございます」
雄哉が後ろを振り向くと視界に入って来たのは女子学生だった。それもターヘル学園のオレンジを基調としたブレザーの制服を身に着けている少女。ヘアピンで南国の海のような色の髪を止め、後ろ髪を揺らしながら雄哉に駆けてきた。息を上げることなく雄哉の横に付いた。
「君は…………二年の
「いえ。別に教師なのだからいいのではありませんか?私自身、先生の履修も受けたことありますから特に気にしませんよ」
「そうか、それは有難い。なんせ、沢城さんと俺の身分は桁違いなもんだから」
「それは考えないほうがいいですよ。私は貴族ですが、そういう身分格差が大変好ましくない側の人間なのであまりそう思われるのは好きではなくて。ただ、目上の人と自分よりも若い方々への言葉遣いは十分わきまえているつもりです」
「ハハハ。そいつは本当に感謝だな」
雄哉の横にいる蒼髪、青の瞳のスタイル抜群女子高生。彼女は沢城ユリカといって、この辺りでは有名な貴族令嬢。その秀才っぷりは国内模試でもトップテンには食い込む程で校内じゃ生徒会長の任にも就いているほど。眉目秀麗というにふさわしい彼女はよく同性から告白を受ける八方美人のような存在でもある。
男性との色恋沙汰もないことから清廉潔白な女子高校生として、他校の男子からも人気が高いと聞く。もちろん告白して、玉砕したようなひともいるらしいが。
そんな大人気女優のような彼女は特に面識がある訳でもない雄哉の横に並ぶ。
「で、俺に何か用か?そんな話すようなことは無いと思うのだが」
雄哉は緩み切ったネクタイを締めなおしながらエリカに用事の内容を聞いた。そんなことでもないとエリカは雄哉に話しかけないと雄哉自身が感じたからである。 ユリカは着色が少なめのリップで輝く唇をそっと開いた。
「この前、学園の精鋭——《FreshOrange》が出撃した際のことを覚えていますか?」
「この前?それはいつの…………」
「昨日です。すいません」
「昨日か。ああ、確かに出撃してたな…………それがどうかしたか?」
ユリカは「ふうっ」と深呼吸をした。今の会話の中でそんな深呼吸するほど重要な部分があったのか?と混乱しそうになる。
ユリカは落ち着きある雰囲気を醸し出しながら低い声で言った。
「その、彼女らが出撃した日の夜。どうやら私達の学園内に不審な人物が潜んでいたようで、《とある厳重に保管していた物》がおそらく盗まれまして」
丁度そのころ雄哉は戦闘を行うエリンらの監視を行っていた時間。事件とは何の関係もない上に初耳な情報だった。
「で、その盗まれたものがかなりの名品でして」
「ふーん。で、その名品ってのは何なんだ?」
「…………」
言いにくいです、という眼を雄哉にするユリカ。雄哉はそのことに察しもせずに返答を待っている。あと五分もしないうちに学園へと着くというこの状況でこのお沈黙の時間は惜しいものだった。が、ユリカは仕方ない様子といった様子で口を開いた。
「…………《レイズ》《レイヴァ》《レイオン》、この三種類の名前をご存知ですよね?」
この時、ユリカが少し青ざめたのが見て取れた。その青ざめた表情に雄哉は気にする様子はなかった…………いや、気にする暇が無かったと言った方が良いだろうか。雄哉は地域が浅いとはいえ、この三つの名をちゃんと記憶している。そして、この三つの名前の意味を深く理解している。
歴史の先生ならばこの意味は理解していなくてはならない、というユリカの試すような言い方も混じっている。雄哉は徐々に顔を引きつらせていった。
「…………おい。まさかとは思うがそんな国家の重大機密が学校に保管されていた、なんていうんじゃないだろうな?それも、それを盗んだやつが外部犯とか…………」
「ええ。そのまさかの事態が起きてしまいました」
雄哉は悟った。先ほど考えていた、エリンの失敗が学校にもたらす影響についてのこと。だが、今はそんな場合じゃないということに瞬時に気付いた。眠気も吹っ飛ぶような事実は雄哉の脳に特大の刺激を与えた。
「あれはッ‼———いや、そうか。由緒正しきうちの学校があんなものを保持していてもおかしくはないのか。それもよりによって…………」
謎の襲撃者があちこちを奇襲しているのと同時期に、と続けようとしたがこちらも人には聞かれてはならない重大機密。この時から、雄哉は重大機密を二つも握ってしまうというまるで冒険物語の主人公のような状態になってしまった。
ユリカのローファーの靴音が迫りくる恐怖の音に聞こえそうで、雄哉は冷汗が止まらなかった。
「ええ、あの機密事項はこの町の三大名家が本来は管理するものでしたが、当学院にはその三家が揃ってしまっているということでまとめて管理することにしたのです。それがこのような事態を招くとは思いもしませんでした」
「ああ、何せあれは歴史に名を残した聖戦…………《運命戦争》で使用された秘密兵器の解除コード。すなわち、『鍵』」
「はい。そういうことです」
そう、その三つが意味するのはこちらの世界での昔に使われていた意味で《レイズ=電撃》《レイヴァ=炎撃》《レイオン=爆撃》という風になる。教科書では封印され二度と使用することはできないことになっていると記述してあるが、実際は違ったようだ。
と、ここまで話してきて率直な疑問が雄哉の心に浮かび上がる。
「で、どうして沢城は俺にそんな極秘情報の相談を持ち掛けたんだ?」
普通の講師として存在する雄哉。もちろん、裏ではあの五人の戦姫達のサポートとして動き回ってはいるがそれも上層部しか知らないはずの案件。
こんな機密事項を普通は人に話さない。
しかし、雄哉はここで大きなことに気付いた。
「まさかお前…………政府上層部の人間なのか⁉」
「…………ええ。そういうことになります。といっても、家が政府上層部のお偉いさんというだけであって私自身が深く関与しているわけではありませんが」
「ならどうして…………」
「私はこの学園の生徒会長。どうしても不祥事は公にすべきではないと考えました。そして偶然、先生があの五人のサポートをしているというお話を政府の要人方がしているのを耳にしたんです。国内でも最強クラスの《FreshOrange》なんか目じゃないほどに強いと。だから、先生に直接会って私が関係者風を装えば、うまく先生を誘導できると思ったのです」
その策略ぶりに雄哉は唖然としてしまった。そこまで考えてこんな早朝に接触してくる根気強さに驚くのと同時に、自身の失敗に気付かされたのだった。もしも彼女が敵であったならばと考えるだけで背筋がゾッとした。
気が付くと二人はゲートの前にたどり着いていた。そして、ユリカは深々と頭を下げて雄哉にお願いをした。
「お願いします。私達の学園がミスをした尻拭いを、どうかやってはいただけないでしょうか。先生のお力があれば…………どうか、どうか…………」
傍から見れば先生に告白する女子高校生と見て取れる光景。しかし周りには人っ子一人いないためにそんな勘違いを広められる心配もない。
雄哉は目の前で頭を深々と下げるエリート女子高校生に「顔を上げろよ」とはどうしても言えなかった。彼自身の事情を知っている上に、ユリカに持ち込まれた問題は本来ならば手を出してはならない極秘中の極秘。そんな簡単に受け入れるわけがなかった。
だが、雄哉の心の中ではもう一つの心理が動いていた。
以前までちょいとばかしだがエリートであった彼だからこそわかる、そして、自分が「できる」と思っている人間だからこそわかるこの状況の違和感。
雄哉なら多分できない。そして、有栖川ならば絶対に拒否する。
エリートである自分が他の人に頭を下げるという行為。
だから、どうしてもすんなりと答えを出すことができなかった。正当な拒否権を持っている雄哉に「無理だ」と断ることは難しかった。
目の前で真剣に頭を下げているのは誇り高きターヘル学園全生徒の首領。誰よりもプライドが高いはず。それなのに…………。
その想いにどうしても打ち勝てなかった雄哉はスッと息を吸って顔を上げさせた。
「もし、この事実を沢城がちゃんと秘密にする。そして、この事件を解決したときには俺はそれなりの報酬を要求する。ただでやれとは言わせない」
この世界に来た理由——嫁が欲しかった。それだけの思いで、元の世界をほっぽり出してきた。
だが、やって来た世界は現実の世界とは異なり、見たこともないキャラが溢れていた。来た当初は後悔までした。
けれど、そんな雄哉は夢にまで見た美女に頼みごとをされたのだ。意中の相手ではないにしても、それは雄哉にとって嬉しい現実だった。
厳しい案件なのは重々承知の上だ。だが、これくらいやってのけないと、
首部を垂れていたユリカは面を上げて、雄哉の目をすっと見た。
「——はい。先生がそうおっしゃる通りに」
雄哉が生半可な気持ちで受けたのではないと目を見て感覚的に読み取ったのか、彼の要求に従う姿勢を見せた。
校門前、まだ冷たい朝の空気を肌に感じる季節。ゲームの主人公のような頼まれ方をした学院の教師ユウヤ。
これが壮絶な出来事になると覚悟している彼に待ち受けていたのは想像の倍以上の波乱と運命だった。
★
———ターヘル地方・某所
「まずいッ!このままでは復活しちまうぞッ!総員退避、退避いいいいいい!」
密林を駆けまわる集団。全体的に濃い緑を基調とした服は地形に紛れるために最適な服装。動きやすさ重視の軽装備と思いがけない怪我を防ぐプロテクターを身に着けた人影があちこちを走り抜ける。
「チッ!騙された…………あいつがここに財宝があると言ってきたから開けに来たのになんてことだ。まさかあれが《古代兵器》の復活コードだったなんてな」
隊長らしき人物が岩を越え木々を避けながら呟いていた。緊迫感が押し寄せるこの雰囲気に呑まれることなく、共にやって来た仲間たちとなるべく遠くへ進んでいく。
「不幸中の幸いなのは
想定する戦力が解き放ってしまったモンスターを潰すことができるのかを考えていた。
しかし、考えていたその時。悪夢は降り注いだ。
「「うあああああああああああああああああああああああああああああ!」」
遠くの方で爆撃されたような音がした。鼓膜が破れそうになるその爆音に耐えれなかった者たちが次々に地に伏していく。失神状態を引き起こされてしまったのだ。遅れてやって来た衝撃波によって飛ばされる者が後を絶たない状況が生まれた。
「お、おい。そ、そんなことがある訳…………俺たちはターヘル軍隊の『ナンバー
魔法障壁で必死に対抗するも空しく、次々に人員が消えていく。そして、最後に残った彼は敵の姿も見ずにロックオンされた。
「嘘だ」
その言葉を最後にそのあたり一帯から声を聞くことはなかった。
爆音とともに現れたのはたった一体の白の獣。眼球は赤く、遠くを睨みつけるように喋った。
「我ハ、敵ヲ撃チ滅ボスモノナリ」
小柄な体躯の怪物はゆっくりと森を彷徨い始めた。
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